「でも僕は大きい方がいいなあ」
ヨセフは退屈していた。
フランツとリサが二人で出かけてしまってから、ずっと退屈していた。
楽しそうだったな、リサ。はしゃいでた。お館様もなんだか珍しく──もないか、あの人は基本的にいつも楽しそうだから。
窓の外を眺めて溜息をつく。
昨日作った雪の家、今日も一緒に遊びたかったのに。
「おばあちゃん、僕も行きたかった」
口を尖らすヨセフを、祖母はにっこりと笑ってたしなめる。
「あんまり邪魔しちゃいけないよ、ヨセフ」
「なんで?」
「あの子がずっとうちにいたらいいって思うんなら、そっとしときなさい」
「なんで?」
リサがずっと家にいたら。
それはもちろん素敵なことだけど、自分を図書館に連れて行くくらい──図書館でなくても、ようするにお出かけならばどこでもいいのだけど──そのくらい別にいいではないか。
「ヨセフ、よくお聞き」
「うん」
「おばあちゃんもね、いつまでもこの家にいたいけどね」
「うん」
「いつかはお迎えがくるでしょう?」
「どこから?」
「だからね、そうなったらヨセフは旦那様と二人で暮らすのよ。旦那様は大らかな方だから安心だけど……でもね、おばあちゃん養子の話だけが心配で」
「養子?」
「どうやら旦那様、いずれはおまえを養子にしようとお考えみたいなの。おばあちゃんは反対なのだけどね」
ヨセフにはゾフィの話がよくわからない。お迎え? 養子? お館さまと二人で暮らす?
「旦那様のなさってるお仕事はねぇ、ヨセフ。貴族の血があってこそなのよ。この小さな町だけならともかく、よその町に行ったり、時にはお城の偉い方に御目通りしたりね。
今はこの町にも汽車の線路を通そうと頑張っておいでだわ。それだって色んなことを考えて、色んな方と上手くやれるように、とても苦心しておいでなのよ」
「僕、ちゃんとやれるよ」
「旦那様が元気でにこにこ笑ってらっしゃるうちは、この町は大丈夫。どんな騒ぎがあっても、旦那様が少しでもお顔を出すと解決するでしょう?」
「そうだけど」
「それはやっぱりね、この町で一番由緒ある家の方だからなのよ」
ふうん、とよくわからないながら返事をする。
「だからね、ヨセフ。おまえがしなきゃいけない仕事はね。旦那さまの後を継ぐことではなくて、旦那様の後を継ぐ人を立派に支えて差し上げることなのよ。おまえのお父さんやおじいちゃんがしてきたようにね」
「赤ちゃんの面倒を見るってこと?」
祖母はこの家の乳母であったし、亡き父はフランツにとって兄貴分であったらしい。
フランツに子どもができたら、確かに自分はその子の兄貴分だ。しっかり面倒を見て、たくさん遊んでやらなければ。
だがそうなるためには、解決しなければいけない問題がある。
「でもさ、結婚しないと赤ちゃんて生まれないんでしょ?」
「そうよ。男だけでは子どもは産めないからね。
おばあちゃんはね、リサがそうなってくれればいいなって思うのよ。素直だし、いつもニコニコしてるし、何よりあの子が来てから家の中がぱあっと明るくなったみたいだわ」
「リサがお館様と結婚するの?」
「そうよ。神仕えの娘だから赤ちゃんにもきっとたくさんの御加護があるでしょう。乳母を頼まなくても済むくらい、お乳もよく出るだろうしね。星神様は慈愛と豊穣の女神様だから」
「ふうん」
「赤ちゃんにおっぱいを飲ませてる女神さまの絵、見たことあるでしょう。新年の星菓子だって、おっぱいみたいな形してるでしょ。服の裏のおまじないだって、子どもを育てる時に困らないように、っていう意味なのよ。ただおっぱいが大きくなりますように、じゃないのよ。ちゃんと意味があるの」
「でも僕は大きい方がいいなあ」
んまーこの子は! とゾフィは顔をしかめて見せる。
「あっでもどんなおっぱいでもリサのことは好きだけどね」
「当たり前ですよ、心根が素直なのが一番! だからね、おばあちゃんは旦那様とあの子がどんどん仲良くなればいいなって思っているの」
うん、とヨセフは素直にうなずいた。
「僕もそう思う」
「そうでしょう? だからね、二人が一緒に出掛けるって言うなら邪魔してはいけないのよ」
「うん」
「わかったら、はい、返事」
「わかった」
素直に「わかった」とは言ったものの、ヨセフの心のどこかが「ちょっと待って」と声を上げる。
リサはどこかへ行かなきゃ、と言っていなかったっけ。
理由は知らないけれど、確かにそう言っていた。
いつかは、どこかへ。
そのときお館様は、どうするんだろう……
十二歳のヨセフには、わからない。
男と女のことなどわからない。
想像もつかない。
もちろんリサが思い出せずにいる事情のことも、それがどの程度切羽詰まっているのかも、フランツがそれを知った時、どうするのかも──何も、想像がつかない。
だから「どうするのかな」と思ったきり、ヨセフの意識は別のところに行った。
「おばあちゃん、また雪降ってきたよ」
ゾフィも編み物の手を止めて窓の外を見た。
「ヨセフ、お風呂沸いたか見てきておくれ」
「うん」
それから然程たたぬうちに、フランツとリサが帰ってきた。
出て行ったときとは正反対の重い空気と、降りはじめた雪のつぶを、肩のあたりに纏わせて。
* * *
湯船にそっと足をつける。膝まで浸かり、静かにしゃがんで、熱さに一瞬身構えたあとはじんわりと解けていく。
ほうっ、とリサは息をついた。
降りはじめた雪に芯から冷えた体が、ゆるゆると溶けていく。
「リサ、私は警邏隊の砦に行ってくる。警備の人間を何人か、屋敷に寄越してもらおう」
湯船の縁に身を預け、ほんの少し前に聞いたフランツの声を思い出す。
「遅くはならないと思うが、先に寝ていなさい。ゆっくり休むんだ」
「でもフランツさま、雪が」
「このくらい何ということはないよ」
そう言って彼は出ていった。
残されたリサはゾフィに入浴を促され、こうして肩まで湯に浸かっている。
体にはあちこちに青い痣ができていた。図書館で梯子ごと倒れた時に、あちこち打ったせいだった。
シシィだよ──一緒に帰ろうよ。
あの少女はそう言っていた。
怒ったような顔で、言っていた。
リサはしばし瞑目した。自分が『神の家』に暮らす神仕えの女ならば、「一緒に帰ろう」と言ったあの少女もまた、神仕えの身なのだろう。
「シシィ……」
唇にそっと乗せた名前は、立ち昇る湯煙に溶けて消えていく。
聴き覚えがあるような無いようなその名前を、リサはもう一度繰り返した。
──シシィ、あなたは、誰なの。
やせっぽちだったな、と思い返して視線を俯ける。自分の豊かな乳房が目に入り、リサは両手でそっと持ち上げてみた。
重い。
ぱっと手を離すと、両の乳房はたゆんと湯の中で揺れた。
図書館で最初に借りた絵本に、星神様の伝説が書いてあった。
貧しくてやせっぽちの女の子が、星神様のお力でふっくらと女らしくなり、すてきな王子様に見初められる物語──絵本の最後はこう結んであった。
『星神様は、女の子の守り神なのです』
豊穣を司る農耕神であり、女の子を守る慈愛の女神。
星神様への信仰がいつ生まれ、どのようにして広がっていったものか、リサは知らない。聞かされれば、思い出すのかもしれない。
神に仕える女たちが共同体を作り、一緒に暮らすようになったのは遥か昔のこと。リサが知る由もない時代だ。
しかし、その『神の家』から自分はやってきた──そのことはすんなりと飲み込めた。
飲み込めた、ということは事実そうなのだろう。
『神仕えの女はね、ふしぎと皆おっぱいが大きいのよ』
薄衣の不思議な模様をなぞりながら、ゾフィがそう教えてくれた。
たしかに自分の乳房は大きいと思う──だったら、あのシシィという少女は? つるぺったんと垂直になだらかな体型は、神の御加護が届かなかったのだろうか。
あの子だけ? 神仕えの娘の中で、たった一人だけ?
シシィと言葉を交わしたのは一瞬だったが、それはリサにいくつかの考えるきっかけをもたらした。
あの子は私を探していた。
『神の家』から探しにきた。
私を探してるのは、あの子ひとりなのかしら。他に私を探す人はいないのかしら。あの子は、ひとり、なのかしら。
他には誰も……いないのかしら。
神仕えの女はその数を減らしている。そう教えてくれたのはフランツだ──時代が変わり、神に祈らずとも生きていけるから。
だったら、自分のいた『神の家』もそうだったのだろうか。
どんどん人がいなくなり、自分とシシィしかいなかったのだろうか。
たった二人で暮らしていたその片方が、ある日突然いなくなってしまったら……
そこまで考えて、リサは一旦目を閉じた。
目を閉じて、頭のてっぺんまで湯に潜った。
──だって、怖かったんだもの。
シシィの目にあったのは深い悲しみと、激しい怒りだった。燃える眼差しがまっすぐにリサを貫いた。
怖かった。もう、会いたくない。
目の奥がつんと痛くなる。湯の中で膝を抱えると、抑えつけられた乳房がむにゅっと形を変えた。
フランツさま。早く帰ってきて。
得体のしれない心細さに、リサは小さく唇を噛んだ。早くフランツに会いたい。大丈夫だよ、と笑い飛ばしてほしい。
そのとき、激しい音とともに浴室の扉が破られた。
* * *
リサは、私を覚えていない。
リサは、私を忘れてしまった。
シシィは混乱していた。
騒然とする図書館を走り出て、大通りを駆け抜け、めちゃくちゃに走った。
ただひたすらに。
大通りを、雪の溜まったままの細い路地を、曇天の空の下を、駆けた。
どうして。どうして。どうしよう。なんでなの。
やがて息が上がり、暗い路地の狭い軒下に座り込んだ。
「──きみは誰だ」
男の声で問われ、とっさに逃げてしまった。逃げる必要なんかなかったはずなのに。
きちんと言うべきだった。
リサを探しにきました。一緒に帰ります。
そう言うべきだったのに。
「リサ……」
迎えに来たと言えば、リサは一緒に来てくれるはずだった。
一緒に帰れるはずだった。
ぜんぶ思い出して、こう言ってくれるはずだった。
「置いて行ってごめんね、シシィ」
なのに。
なのに。
なのになぜなの。
「あなたのこと、わからないの」
なんでそんなこと言うの。
シシィは悔しさに歯噛みした。リサの唇がフランツさま、と動いたのを、彼女はあの時、見逃さなかったのだ。
ずっと一緒にいた私のことは忘れてしまったのに。
なんでよ。
なんで。
どうすれば、元に戻るの……
途方に暮れ、シシィは座り込んでいた。それがどのくらいの時間だったかはわからない。指先が、足先が、体じゅうが、凍りついて痛い。
やがてその痛みすらあいまいになった頃、小雪が降りはじめた。
──ふっ
とシシィは顔を上げた。
リサはどうしているだろうか。寒さに凍えてはいないだろうか。
「待ってて、リサ」
とにかく行って、会わなくては。
シシィは凍りついた体をゆっくりと動かし、立ち上がった。
少し身動きするたびにじんじんと灼ける様な痛みが走り、自分の意思とは関係なしに体中がガタガタと震える。何日か前、この体を己の肌で温めてくれた男の面影がちらりとよぎったが──それはすぐに、彼方に消えた。
「リサ。今、行くからね」
数時間前の記憶をたどる。「お館様」のおつかいをしていたあの少年は、どっちに行っただろう。
北か。南か。
ほんのわずか逡巡して、シシィは震える体を引きずって歩き始めた。
道を示すものは何もなかったが、正しい方角を選んでいた。
* * *
蒼白な顔のリサを風呂に送り出し、町の警邏隊に行くという館の主を送り出し、ヨセフはようやく一息ついた。
そっと窓の外を見れば、白すぎて黒いような、重い灰色に染まっている。
「おばあちゃん。雪、どんどん降るよ」
晴れていれば、まだ明るい時間だというのに。
「お館様、大丈夫かな」
大丈夫だよ、と答えるゾフィの声はのんきなものだ。
「迎えに行かなくて平気かな」
「およしなさい、おまえが遭難してしまうわよ」
「でもさあ……」
早く帰ってきてほしい。
リサも様子がおかしかったし、お館様だってなんか変だった。怖い顔してた。
出掛けた先で何かあったことは間違いないのだ。
だけどヨセフが聞く前にフランツは出かけてしまったし、リサはゾフィによって風呂場へやられてしまった。
「二人とも、どうしちゃったんだろう」
「そうねえ……」
編み物の手を止め、ゾフィはランタンに火を入れた。
「旦那様、お決めにならなくてはね……あの子の荷物を一緒に背負うのか、どうするのか……」
リサは手ぶらだったよ。
ヨセフがそう言おうとしたとき、扉を叩く音がした。この叩き方は──お館様じゃない。誰か来客だ。
こんな雪の時に誰だろうと訝しんでいると、ソフィがよっこらしょと腰を上げた。
「おばあちゃんいいよ、僕が行くから」
だって玄関は寒いのだ。ここは暖炉の前だからいいけれど、急にあんなキンキンに冷えたところに行って、倒れでもしたらおおごとだ。
ヨセフは玄関に走って行った。
重い扉に手をかけると、ぎぎいと重い音がして、ゆっくり開く。
そこにいたのは、襤褸をまとった見知らぬ少女だった。
* * *
リサを家に送ってもう一度外出し、フランツは警邏隊の砦に赴いた。
旧知の仲であるこわもての隊長は、図書館での騒動をすでに聞いていた。
「なーんで警邏隊にすぐ届けなかったんだよ」
彼が言うのはリサのことだ。身寄りのない若い女が倒れているのを何故知らせなかった、と渋面を作っている。
「だが砦に運んでいたら命を落としていたぞ」
「別に命を助けたのが悪いとは言ってない。その後だって届くらい出せただろうがよ」
「いや、一度ここには来たんだよ。だけどおまえはいなかったし、バタバタしてるうちについ忘れ」
「図書館の館長に聞いたぜ、おっぱいの大きい美人だってな。
どーせあれだろ、砦で寝起きなんかさせたらうちの隊員が悪さするとでも思ったんだろ? 失礼しちまうぜ、うちにそんな不埒な奴はいねえよ」
図星だ……!
だがあくまでなんでもないような顔をとりつくろい、フランツは「それよりも」と咳払いをして誤魔化した。
「いま問題なのは、リサが抱えている事情の方なんだ。詳細は彼女自身思い出せずにいるんだが、どうも何者かに追われているらしい」
「でもよ、図書館に現れたのはふつうの女の子なんだろ?」
「ふつうかどうか私は知らんよ。だがリサは怖がっていた。守ってやらないと」
「過保護だなあ」
「そうだろうか」
「そうに決まってんだろ。たしかに図書館の書棚が全部倒れたのは大事件だよ。今夜は職員総出で片付けだって、館長が頭を抱えてたぜ。だけど女の子が訪ねてきたからって警備の人手を貸してくれというのはなあ」
「無理かい?」
「無理だね」
「そうかあ、困ったなあ……」
フランツは深々と息をついた。
隊長が言うこともわかるのだが、謎の少女と実際相対した印象というものがある。煮えたぎる何かを湛えた眼差しに、リサはひどく怯えていた。
あの少女は必ず、また来る。
フランツは確信していた。
「だがまあ、力になってやれないこともない」
隊長の言葉に、ぱっと顔を上げる。
「隊員は貸せないけどな、俺が行ってやるよ」
「いいのかい?」
「ああ、いいぜ。知ってんだろ? うちのかみさん、赤ん坊産んでまだ実家にいるんだよ。年明けないと戻って来ないからな、それまで俺が泊り込んでやる」
おお、とフランツは声を上げた。
そうだそうだ、そうだった。この隊長の愛妻は少し前から里帰りしているのだった。生まれるの生まれないのといっていたが、そうか年が明ける前に生まれたのか。
「俺はおまえんちに泊まりこんで、おっぱいの大きいお嬢さんをしっかり守る。報酬はばあやさんの作ったご飯と柔らかい寝床、それからおまえんちの立派な内風呂。どうだい?」
「名案だ。ついでに、ヨセフの遊び相手も頼む」
「ちゃっかりしてるぜ」
「お互い様だ。子育ての事前練習だと思えばいいだろう」
「おいおい生まれたのは娘だぞ。だいたいヨセフはもう十二だろ? 娘が十二になる頃には、予習の効果なんか無くなっちまうよ」
そうは言うものの、隊長は楽しげに立ち上がった。
「そうと決まれば早速行こうぜ。あー何年ぶりかな、おまえんちに行くの。途中で酒とつまみ買ってくか。な!」
がははと笑い、フランツの肩をばしんと叩く。
都会の貴族じゃこうはいかない。
うちが田舎の貧乏貴族で良かったな、とフランツは思う。
日々のやりくりはたしかに厳しいが、貴族庶民の垣根を越えた友情がこうしてあるのは、気取りなく自分を育ててくれた両親のお蔭だろう。もちろん貴族としての教育も施されたが、領民の子と遊ぶのを両親は咎めなかった。
その頃この隊長はいっぱしのガキ大将で、一緒に悪さをしては二人して町の大人に叱られたものだ。
自分が領主としてなんとかやっているのは、“悪戯っ子のフランツ坊や”を今でもみんなが見ていてくれるからだろう。
小雪の降る中、四方山話に花を咲かせつつ、彼らは屋敷へと向かった。
帰りつくころには雪は激しさを増しており──その雪が、開きっぱなしの扉から中へと吹き込んでいる。
フランツと隊長は顔を見合わせた。
──何かがあったのだ。
「リサ」
嫌な予感がする。フランツは屋敷の中へと駆け込んだ。