「迎えにいくからね」
年の瀬を迎え、町は賑わっていた。
「すごいね」
後ろから聞こえるシシィの声も、いつもりより華やいでいる。
「この通り、ぜんぶお店なの?」
「ここが目抜き通りだからな」
「すごい。見てあれ、なんだろう。あのぶら下がってる変なの」
「魚の干したのだろう」
北の海で獲れる大きな魚の干物を見て、シシィは目を丸くしている。指で突こうとしてるのを「やめろ」と諌めると、「これ美味しい?」などと訊ねてくる。
「酒の肴だよ」
「なーんだ」
「千切って汁ものにでもすれば、おまえだって食べられる」
「じゃあ買ってこうよ!」
「二人には多すぎるだろ」
するとシシィは口を尖らせた。だがすぐにしょんぼりと肩を落とす──そうだよね、勿体ないもんね。じゃあいいや、ごめんね。
「……明日、切り分けたのを買って帰ろうな」
「やったー!」
ぜいたく品をねだられたわけではないのだ。魚の一切れくらい、買っても罰は当たるまい。
きょろきょろと落ち着かないシシィを連れて、大通りを歩く。
「町は初めてか」
「もっと子どもの頃に来たことあるけど、あんまり覚えてないんだ。星祭りのご祈祷に呼ばれたと思うんだけど、まだ小さかったから」
それはおそらく、リサとシシィの他にも神仕えの女がいた頃のことだ。
浮足立つシシィに「はぐれるなよ」と声をかけ、まずは馴染みの商店へと向かった。軒先に荷を下ろして声をかけると、奥から店主が顔を出す。
店主はシシィを見ると、訝しげに眉をひそめた。
「トッド、おまえの内儀さんか。ずいぶん若いな」
「そういうのじゃない、拾ったんだよ。行き倒れだ」
ふうんと店主は鼻で返事をして、彼らはそのまま商談に移った。
下ろした荷を運び込み、中を見せる。上等の太く長い炭、火付けに使う細い炭。一箱いくらで勘定し、手にした現金収入でささやかな年越しの準備をする──肉、魚、野菜、それに酒。
積んできた荷よりも多い土産を持ち帰れたら、上出来だ。
「星菓子、どうするんだ」
算盤をはじきながら店主が訊ねる。開けた炭の箱をまた閉じながら、トッドも答えた。
「菓子はいらないが酒をもらっていく。あとは干鱈、切れ端でいい」
「あの子にゃ酒や肴より、菓子のがいいんじゃないのか」
言われて表を見ると、シシィは店先に飾られた星祭りの飾りに見入っていた。退屈かもしれないが、もう少し待たせておこう。
その横をすり抜け、少年がひとり入ってきた。どこかの家のおつかいなのだろう。応対に出た店主の妻と、何やら話が弾んでいるようだった。
シシィは大人しく店先に佇み、少年とおかみのやりとりをぼんやりと聞いていたが──しばらくすると、フラリと通りに出て行った。
「おい、シシィ」
声を上げたが耳に入らなかったのか、すぐには戻ってこなかった。
まあいいだろう。
あいつは大人じゃないが、迷子になるほど子どもでもない。町を見て回るくらい好きにすればいい。
「……星菓子、小さいのでいい。二つくれ」
* * *
トッドの用事はまだ終わらない。
店先の飾りを見上げ、シシィは遠い日に想いを馳せた。
あのころ『神の家』には他にも何人か女がいた。
新年が近づくと周りの町々から声がかかり、ご祈祷に出向くのが毎年の習わしだった。幼かったシシィもリサに手を引かれ、それについていった。
もちろん子どもだったから何を手伝えるわけでもなく、ただ見よう見まねで手を合わせ、なんとなく神妙な気持ちで頭を下げた──それしか覚えていない。
いや、他にも覚えていることがある。
ご祈祷の後にもらった星菓子のことだ。白くて丸くてすべすべで柔らかい。てっぺんに赤い小さな果実の飾りがあって、上から粉砂糖が振るってあった。
一人で二ついただくのが正式らしいけれど、その時はリサと一つずつ分け合って食べた。
「甘いね」
「美味しいね」
「柔らかぁい、リサのほっぺみたい」
「うふふ、シシィのほっぺみたい」
今ならきっと、「リサのおっぱいみたい」と例えるだろう。本人が聞いたらどんな顔をするだろうか。
笑うだろうか。
それとも顔をしかめるだろうか。
「四人でいいんだ。こないだからリサがいるから」
そんなことを考えていたせいか、シシィの耳はその声を逃さなかった。
見も知らぬ少年の声を、きちんと拾っていた。
「リサ? 女の人?」
「うん。お館様が連れてきた」
はっとして耳をそばだてる。
この子、今リサって言った。お館様が連れてきたって。
少年の相手をしていた店のおかみが声を張り上げる──ちょっとあんた、フランツさまのところに女の人がいるんですってよ。
フランツさま。
その人のところに、リサがいる。
店の奥から「そりゃどこの誰だい」と声がかかり、また少年が口を開いた。
「どこの誰だかわかんないんだ。頭をぶつけて、名前しか思い出せないんだって」
「ふうん、そうなの。大変ねぇ」
「でも美人だし、悪い人じゃなさそう」
「あらー……だといいわね」
「あとね、おっぱいがすごく大きい」
「んまーヨセフったら!」
「でも一番見てるのはお館様だよ」
つつもたせじゃねえだろな、とまた店の奥から声がする。
シシィの心臓は高鳴り、小さな胸の奥に震えが走る。「じゃあ僕もう行くね」と店を出た少年の腕を、思わず掴みそうになる。
なのに体が動かない。
どういうこと。
今の話はどういうこと。
名前しか覚えてないって、どういうこと。
美人で、おっぱいが大きくて、名前はリサ──もしかしたら別人かもしれない。私が探しているのとは違うリサかもしれない。
でも、でも、でも、きっと今のは、今言ってたリサは、私のリサだ。
私のリサだ!
「待って!」
小さく叫び、店を出た。さっきの少年は弾むような駆けるような足取りで、もうだいぶ先の方にいた。
どうしてだろう。
どうして足が動かないの。
追いかけなくては、急いで追いかけなくてはいけないのに。
「……リサ」
呟いた声は曇天に吸い込まれて、消えた。
* * *
商談を終えて店から出ると、シシィは表通りに呆然と突っ立っていた。
きっとまたリサのことでも考えているのだろう。
この娘がぼんやりしている時は、たいていそうだ。
「炭、いい値で売れた」
そういう時は、なるべく関係ない話をする。
「いつもより上等な年明けになりそうだ。酒、この前ほとんど飲みきったから買い足しておく。野菜も。干鱈も小さいやつを入れといてもらうからな」
過去にまつわる話ではなく、なるべく先の話をする。
「今夜は町に泊まって、明日早めに出るぞ。店のおやじが品物の受け取りは朝でいいと言ってくれた」
シシィがリサのことを考えないように。
「そういえば、久しぶりに星菓子を買った。二人分だが、もしもおまえが食べたければ両方」
「リサがね」
──またか。
「リサがね、トッド。この町に」
思わず舌打ちしかけ、すんでのところでそれを押さえる。
ようやくこちらを向いたシシィの目に、憔悴の色が浮かんでいる。
唇が、震えている。
「この町にいるんだって。フランツって人のところにいるんだって。さっき男の子が言ってたの」
「……それは本当に、おまえの探してるリサなのか」
「リサだよ。私のリサだ。だって言ってたもん、おっぱい大きい美人だって言ってたもん。どうしようトッド、私どうすればいいんだろう。追いかけられなかったの。追いかけられなかった」
「シシィ」
「ねぇ知ってる? フランツって人のこと知ってる? お館様って言ってたからたぶん偉い人だよ。その人のところにリサがいるんだ。リサが。どうしようトッド、どうすれば」
「いいか、シシィ」
両手で細い肩を掴む。覗き込むように、目線を合わせる。
「よく聞け。今夜は町に泊まる。リサのことは明日だ」
シシィの唇が「だけど」と動く前に言葉をかぶせる。
「あと一刻もすれば日が暮れる。行くぞ」
──だけど、って言うなよ。
目線で念を押すと、血の気の少ない顔でシシィは頷いた。そのことにホッとする。
もしも「だけど」と言われたら。ついてくることを拒まれたら。
きっと手を上げていただろう。
白い頬を張り飛ばしていただろう。
そのリサは別人だ、忘れろと怒鳴りつけていただろう。
理由などわからない──何故こんなにも苛立つのかがわからない。
宿を取り、一番安い大部屋に寝台を二つ確保する。
大部屋が空いていて良かった。
もしも個室しかなかったら。
もしも寝台が一つしかなかったら。
何をしたか、わからない。
* * *
安堵と苛立ちでがんじがらめになったまま、男はようやく眠りについた。
荒々しい寝返りが落ち着き、その胸が安らかになった頃──シシィはそっと体を起こした。
「……リサ」
静かに上着を羽織り、靴を履く。足音を立てないように部屋を出る。
「すごく寒いよ、リサ」
空からちらほらと白いものが落ちてくる。行くなら今だ。雪が激しくなる前に。
「迎えにいくからね」
白い呼気が大気に溶ける。
足先がじんじんと痛い。
でもそんなの、全然平気だ。なんともない。
だってもうすぐ、リサに会える。会えばきっと、思い出してくれるだろう。
私のこと、リサ自身のこと。
ずっと一緒にいたんだから、絶対に思い出してくれるはず。
そしたら二人でおうちに帰ろう──そうすれば何もかも、元通りだ。
一度だけシシィは振り返った。
自分を拾った男のことを、奇妙な関係の男のことを、束の間考えた。
いい人だったな。
その一言で物思いをしめくくり、誰もいない大通りを歩き始めた。