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3/12

「リサというのは誰だ」

 ヨセフの「わくわく」が空に届いたのだろう。

 少年が屋敷に戻ってから雪が降り始め、一晩明けると庭を新雪が埋め尽くしていた。


「雪で家を作るからね、出来上がったら呼ぶから!」


 そう言って雪靴を履き、飛び出して行く。

 手を振って見送り窓から外を見れば、庭にはすでに館の主がいた。スコップを手に玄関から表門まで、一生懸命道を作っている。


「雪の家にお呼ばれするんなら、あったかくしてお行き」


 とゾフィが笑う。


「靴下も三枚くらい重ねてお行き。ほら、毛糸のぱんつもあるからね。外套は奥様が使ってらした羽入りのいいのがあるから、着ていきなさい」


 ああでも、奥様のよりお嬢様方のが良いかしら。リサは若いしそっちの方が似合うかもしれないわ。


 ばあやはそう言って衣裳部屋の奥へと布の滝をかき分けていく。

 リサはまた窓の外に目をやった。

 道の両脇に積まれた雪に、歓声を上げながらヨセフが体じゅうで突っ込んでいく。雪かき貴族は作業の手を止めて、おおきく笑った。

 両手を胸の前で組んで、リサはほうっと息をついた。乳房が大きいので、組んだ両手をその上に乗せるような形になる。


 フランツさま……すてき……


 なんといっても、親切だ。

 それに貴族であるのに気取った感じが全然しない。それでいて領主のお仕事は真面目にこなしていらっしゃる。よく笑うし、出したお食事は「美味しい美味しい」と食べて下さるし、力仕事は手伝って下さるし。

 見た目もかっこいいのだ。他の人がどう見るかは知らないが、かっこいい。少なくともリサにはそう見える。

 背がすらーっと高くて肩幅が広くて、男らしくてたくましい。武人でなくとも貴族は皆、騎馬や武芸をなさるのだと言ってらしたっけ。


「いやいや、私は剣も馬術も苦手だったんだよ。“光の快速号”ものんびりした馬だからね、百年も前ならさぞかし困っていただろうなあ」


 そう言って「ははは」と笑い飛ばせる御気性が、一番すてき。


「大昔なら王都の華やかな騎士を志したかもしれないが、そういう時代でもないからね。この町にももうすぐ鉄道が来て、色々便利になるだろう」


 ご自分の町を良くしようと頑張ってらっしゃるのが、本当にすてき。

 なのに窓から見えるお姿はモコモコと着ぶくれて、頭にばあやさんが編んだ毛糸のお帽子を被っておいでなのが、これまたかっこいいのに可愛らしい。


 ああ……フランツさま、すてき、可愛い、かっこいい。


 誰かに「フランツさまってすてきなの!」と力説したい。

 だけどヨセフは「そうかなあ」って言いそうだし、ばあやさんは忙しいことが多いから「フランツさまって! すてきですよね!」と後ろについて回って声を張り上げなければならないだろう。だめだめ、ご本人に聞かれてしまったら恥ずかしいもの。

 リサはもう一度ほうっと息をついた。


「あったかくしないとね、とくにお腹は冷やしちゃいけないよ。手先や足先もね、しっかりくるんでやらなくちゃ。しもやけは治ったの?」

「はい、おかげさまで」

「それは良かったねぇ。そうそう、雪の家に敷布を持って行きなさい」

「はい」

「体の芯は動かせば暖かくなるけどね、お尻やおっぱいは一度冷えるとなかなか温まらないから。敷布の上にクッションを敷いて、その上に座りなさい」


 とにかく冷やさないこと! とばあやは繰り返す。

 フランツよろしくモコモコにされ、両手に敷布やらクッションやらを抱え、リサは借り物の雪靴で庭に出た。空気にさらされた頬だけがひやりと冷たい。

 昨夜この町に雪を降らせた厚い雲は、どこかに流れて行ったようだ。

 晴天の眩しさに目を細めると、ざくざくと足音を立ててフランツが寄ってきた。


「おぉ、ばあやはまた随分着せたんだな。歩きづらいだろうに」

「あったかいです。たくさん借りちゃいました」

「そうかそうか。合うのがあって何よりだ」


 これを敷けば完成だな、と言ってフランツはリサの両手から荷物を受けとり運んで行った。手袋越しに指先が触れ、かすかに鼓動が高鳴ったあと、頬が緩む。


「うふっ」


 思わず笑みがこぼれる。フランツが不思議そうな顔でこちらを見たが、それすらも嬉しい。


「機嫌がいいな」

「はい。楽しくて、嬉しくて」

「そうかそうか」


 フランツも笑った。雪の家からヨセフが顔を出し、早く早くと二人を呼んでいる。


 リサは幸せだった。

 何一つ思い出せないし、どこから来てどうしようとしていたのか何もわからないけれど、ずっとこの屋敷で暮らしていけそうな、そんな気がした──だけど、心の片隅で囁く声があるのも確かなのだ。


 ここでは近すぎる。

 見つかってしまう。

 見つかってしまってはお終いなのだ。

 だから早く、行かなくては──





 * * *





 フランツとヨセフが暮らしリサが辿り着いたその町は、南に深い森を有していた。


 雪のない時は『黒い森』と呼ばれている。

 近隣の国々にまたがって流れる大河の、その水源を抱く豊かな森だ。冬でも葉を落とさぬ常緑の針葉樹が立ち並び、遠目に見ると真っ暗な影が町に迫っているように見える。

 しかし雪が積もれば森はその姿を変える。

 数か月の間だけ黒い森は『銀の森』へと生まれ変わるのだ。 




 その銀色の森の奥深くで、一人の男が行き倒れの娘を拾った。




 はじめは気のせいかと思った。

 だが森をよく知る男の目は、わずかな異変に素知らぬふりを出来なかった。

 ──雪に埋もれるようにして人が倒れている。それもまだ若い、おそらくは女。


「おい」


 声をかけたが返事はない。揺り動かしても、ぴくりとも動かない。

 黒い髪がかかったその頬は、雪よりも白い。


「おい。生きてるか。おい」


 指先の色は変わり、心臓の音は弱っている。

 身に着けているのは夏物にしても薄すぎるような簡素な衣服。

 男は知っていた。

 決して信心深いわけではないが、知っていた。

 この薄衣は、森の奥のさらに奥『神の家』に住まう娘の衣装だと。


 ──助けなければ。


 なぜそう思ったのかは、わからない。

 目には映らぬ何かの導きがあったとしか思えない。

 あるいは、神仕えの娘を見殺しにして何か神罰があっては良くないと、心のどこかで思ったせいかもしれない。


 背に負って歩き出し、森の奥の自分の棲み処へと担ぎ込んだ。

 火を熾し、雪に濡れた娘の衣装を剥ぎ取り、自分の服も脱ぎ捨てる。氷のような体を裸の胸に抱え、ありったけの毛皮や毛布にくるまった。

 娘の冷えきった手足をさすりながら、男は酒を煽った。喉が焼けるような強い酒に、体の内側が火照っていく。


 早く、早く温まれ。

 今ならきっと、まだ間に合う。


 どんなに火を焚けど、抱いた体の冷たさに自分の体温も奪われる。意識を手放しそうになるたびに酒瓶に手を伸ばす。

 娘の体は細くしなやかで、白い。肉付きが少なく少年のようだったが、艶やかな黒い髪が「私は女だ」と小さく主張していた。


 そうして一晩を明かした後、娘はうっすらと瞼を開け、男の腕の中で掠れた声を上げた。


「……リサは?」


 そのあと一糸まとわぬ自分の姿にぎょっとしていたが、騒ぎはしなかった。助けられたということをすぐに理解したのだろう。


「ずっと眠り続けていた」

「……」

「指先に凍傷があるが、それほどひどくはない。しばらく大事にしているといい」

「……」

「リサというのは誰だ」

「……」

「おまえの名は」

「……シシィ」


 そうか、と男は呟いて、裸の娘を抱いたまま名乗りを返した。


「俺はトッドだ」


 それが二人の、奇妙な出会いだった。






 * * *






 トッドという名のその男は、この森に住む樵であるらしい。


 目覚めた時にお互い裸だったのは息を飲んだが、何かされたような形跡はなく、何かするような男ではないこともすぐにわかった。


「『神の家』から来たんだろう、シシィ」

「うん」

「神仕えの娘が星祭りを前に、なぜあんな雪の中にいた」


 冬の間は炭焼きなどをしているというその男の後を、シシィはついて行く。


「リサがいなくなったから」

「おまえの仲間か」

「そう」

「はぐれたのか」

「……そう」


 トッドが炭焼き小屋の窯に火を入れた。やがて煙が立ち昇り、それが喉にしみてシシィは咳き込んだ。


「だから、私、行かなきゃ。リサを、げほっ、探さなきゃ」

「行先は?」

「わから、ない」


 あの日あの夜、銀の森が星明りに輝く中、リサの足跡を辿ってシシィは歩いた。

 必死だった。

 今ならまだ追いつける、今ならまだ追いつける、自分にそう言い聞かせながら歩き続け──しかし舞い始めた雪は非情だった。

 リサの足跡を覆い隠し、容赦なく体温を奪い、雪溜まりに足を取られて転倒し、その後のことは何もわからない。

 

 気づいた時には、トッドの腕の中だった。


「行先、聞いていないのか」


 うん、とシシィは頷いた。頷こうとして、また咳き込んだ。

 だってリサは、黙って行ってしまった。

 理由も行先もわからない。

 ずっと一緒だったはずなのに、これからもずっと一緒だったはずなのに、一人だけ先に大きくなって、私とは違う生き物になって、突然いなくなってしまって──だから、私は、一人ぼっち。


「おまえと同じように行き倒れているんじゃないか、そのリサも」

「……星神様がお守りくださるから」

「星神様の御加護か」


 呟き、男は窯に火をくべる。


「おまえにもそれがあったんだろうな。そうでなきゃ雪に埋もれてそのままだ。俺がおまえを連れて帰る気になったのも、星神様の御加護の賜物だろう」


 そうかな、と心の中で反駁する。

 星神様の御守りは、私には届かない。だって、私には星神様の声が聞こえない。

 もしも御加護があるのならリサは出て行ったりなんかしなかったし、この体だって、リサと同じようになってるはずなのに。

 私にも御加護を下さるような優しい神様なら、私からリサを取り上げるようなこと、決してしないと思うのに。


「私、星神様なんて信じてない。星神様は何もしてくれない」

「信じていないのか。おまえは『神の家』の娘だろう」

「あそこには私とリサしかいなかった。昔はもう少しいたけれど、私たち二人っきりだった──でも、リサがいなくなって私は一人ぼっち」

「そうか」

「そう」


 トッドは何か言いたげにシシィを見たが、口にすることなく作業に戻っていった。

 シシィも黙って男の作業を見つめていた。


 男の作業を見つめるふりで、リサのことを考えていた。





 * * *





 それから幾日か、二人は寝食をともにした。


 シシィは「私は一人ぼっち」と言ったが、トッドこそ一人だった。森の奥の樵小屋に一人で暮らし、もう何年になるだろう。

 少年の頃に両親を相次いで亡くし、兄弟たちは町に出て行って、自分だけが森に残った。

 家族を持ったことはない。

 誰かと暮らすということが、想像がつかない。


「さむいね」


 だからシシィという神仕えの娘に、どうしてやれば良いのかわからない。


「そうだな」

「火を焚く? もったいないからやめる?」

「焚けばいい。炭を使え」

「だって炭は売るんでしょ。薪でいいよ」


 シシィは細い腕を伸ばし、小さな暖炉に薪をくべる。

 服は男からの借り物で、だぶだぶと裾が余っている。

 歳を訊ねたら十六だと言っていた。本当かと疑って見せると、「本当だよ」と拗ねたように口を尖らせてみせる。


 十六でその体か。


 口には出さなかったが、すぐに本人が言った。


「いま、十六にしては貧相だって思ったでしょ」

「……まだ何も言ってない」

「ほらやっぱり。私の服を脱がせたとき、がっかりしたでしょ」

「何も思わなかった」

「うそ」

「なぜうそだと思う」

「だってリサは」


 またリサか。


「リサはすごいんだもん。十四のときには、もう大人だった。おっぱいだってすごく大きいんだよ。私とはぜんぜん違う。だって私は、こんな」


 ──おまえはおまえだよ、シシィ。


 そう言ってやるべきだったろうか。

 だが、そのときトッドは何も言わなかった。

 何も言わず、火を熾して焚き木をくべた。






 * * *






「しばらく帰らない」


 そう言いながら男は出かける支度を始めた。


「なんで。どこ行くの?」

「炭を売りに行く。ぜんぶ売れたら帰ってくる。食糧は充分だ。水も焚き木もある。シシィ、俺が帰るまで」

「私も行く」

「……」

「私も行く。連れてって」


 一人で暮らす男の持ち物は少ない。

 当然、シシィのぶんの外套はない。足に合う雪靴もない。

 樵小屋の奥から探し出したボロボロの一足は、無いよりはましな程度の代物だった。十年以上前、トッドがまだ少年だったころのものらしい。

 歩けば歩くほど雪が染みて冷たいが、大人しく待っている方がシシィは嫌だった。


「寒いぞ。町に着くまで野営もするし」

「ちゃんとついて行く」

「もし行き倒れたら」

「その時は置いてって」


 束の間、男は沈黙し──ふっ、と息をついた。


「……わかった」

「ほんとに!? いいの、やったあ!」


 心が浮き立ち、シシィは飛び跳ねて喜んだ。

 男はわずかに目を細めた。雪に跳ねた陽の光が、目に入ったときのように。


 『銀の森』の中を、二人は歩く。


 信じられない量の荷物を背負った男の後ろを、シシィは黙ってついて行く。

 男の作った足跡を踏みながら、じっと黙って歩き続ける。

 トッドが時々こちらを振り返るので、その時は「だいじょうぶ」と唇を動かした。すると男は前を向き、また黙々と雪の中に道を作りながら先を進んだ。


 夜は木々の間に天幕を張り、中に毛布を敷いた。出会った時のように二人でくるまり、眠るまでの僅かの時間、話をした。


「シシィ」

「なあに」

「嫌じゃないのか」


 寒さも長時間の歩行も、苦ではない。

 町に行けば、きっとリサに会える──その予感でシシィの薄い胸は高鳴っていた。


「ぜんぜん嫌じゃない。ありがとう、連れてきてくれて」


 シシィはそう言って、ひとつ寝返りを打った。男に背を向けて「おやすみ」と言ったとき、強い力で引き寄せられた。


「ほんとうに、嫌じゃないのか」

「嫌じゃないよ」

「そうか」

「なんでそんなこと聞くの?」


 答えを待ったが、返ってこなかった。

 男の腕はしばらくの間シシィを捕まえていたが──そのうち離れていき、彼女はひとつ欠伸をした。


 おやすみ、と言われたような気がするが答えられなかった。

 眠りの森の外側から、ぼんやりと聞こえただけだった。




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