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「おっぱいは偉大だな」

 リサと名乗るその娘は初めこそ涙ぐんだりもしていたが、屋敷で過ごすうちに笑顔が増えてきた。


 黒髪をばあやに結ってもらい、良家の子女風にしているのがよく似合う。姉たちが置いていった衣裳を纏い、胸のあたりは苦しそうだが、袖や裾はぴったりだ。

 といっても、ばあやと一緒に炊事場に立つこともあれば、ヨセフと一緒に家中の拭き掃除をすることもある。


「リサはなかなかの働き者ですよ」


 と、ばあやのゾフィが太鼓判を押すほどだ。

 それに昨日など、厩舎で一生懸命馬の背にブラシをかけていた。


「そんなことまでしなくたっていいんだよ。婦人の仕事ではないんだし」


 フランツがそう言うと、吐息を白くにじませて笑うのだ。


「でも、ヨセフの背丈ではてっぺんまで届きませんから。ほら、“光の快速号”も気持ちよさそう」


 言われてみれば、領主家の老馬も大人しくされるがままだ。

 良かったな、と背を叩けば満足げに「ぶるる」と鼻を鳴らす。


 リサはいい子だな。


 もう少し話がしたい。彼女のことを知りたい。仲良くなりたい。 

 自分でなくたって、きっとそう思うことだろう。





「フランツさまー」


 その日もフランツが書斎で書き仕事をしていると、弾むような声がした。

 鉄道工事の書類を脇に置いて扉の方に目をやると、リサが遠慮がちに顔をのぞかせ、なにやらニコニコしている。


「おお、どうした。機嫌が良いな」

「はい」


 頷いて入ってきた両手に盆を抱えているのは、おそらくゾフィに持たされたのだろう。「旦那様とおやつ食べといで」とかなんとか。

 小皿に乗っているのは、昔ばあやがよく作ってくれた郷土の菓子だ。


「ばあやさんとお菓子を作りました。旦那様が書斎にこもっておいでだから、おやつでも食べてきなさいって」

「そうか。ヨセフは?」

「おつかいに。星祭りのお飾りを注文しに行くのだそうです」


 そう言ってお茶を淹れながら「星祭りってなんですの?」と首を傾げる。


 星祭りは、この国の──この国だけではなく、周辺の国々も同じだが──新年の訪れを祝う祭りである。


 家々の門に飾りをつけ、家族そろって星菓子を食べ、『星神様』と呼ばれる女神に新年の幸せを祈るのだ。

 この屋敷も領主の家である以上、その日だけは立派な飾りをつける。フランツも盛装で領民たちの挨拶を受けるのが習わしだ。

 離れて暮らす家族もこの祭りの間は顔を揃え、普段は静かなこの屋敷もそれはそれは賑やかになる。ヨセフは「忙しくって嫌んなっちゃう」などと言っているが、甥や姪と庭で雪遊びをしたり、姉たちからお小遣いを貰えるのは楽しみにしているらしい。

 数日の間、一足早い春が来たかのように町中が華やぐ。

 それが星祭りだ。


 ──そのようなことも、分からなくなるんだなあ。


 記憶喪失とは、一般的な季節の行事さえも忘れてしまうものなのだろうか。

 自分の名前以外の一切を思い出せないこの娘が、フランツには哀れで仕方がない──そんな自分の思いを知ってか知らずか、ニコニコと笑っているのもまた悲しい。


「リサ」

「はい、フランツさま」

「おまえ、遠慮なんかすることないよ。色々と思い出すまで、うちでのんびり過ごしなさい」

「えっ」

「我が家はと私とヨセフとばあやの三人だから、おまえひとりくらいどうにでもなる。気にすることはない」

「でも」


 フランツの言葉に、リサは困ったように眉をよせた。


「でも、そういうわけにはいきません。ここにいると知られてはご迷惑が」

「誰に知られるっていうんだい?」

「あ、それは……」


 えーと誰なんでしょう、と声はしりすぼみに小さくなる。


「早く思い出してスッキリしてしまいたいのに。私、何かに追われてるんでしょうね。きっと逃げてる途中で頭を打って、忘れてしまったんだわ」


 まさか、あの目覚めた時に自分とぶつかったせいじゃないだろうな……そう思ったが、言わずにおく。


 リサを運び込んだ次の日、フランツは町の警邏隊に出向いた。リサという名の若い女の捜索願は出てないか、訊ねに行ったのだ。

 ──結論としては、出ていなかった。

 まさかとは思うが、手配書の人相書きに紛れてはいるまいな。そう考えて目を通してはみたものの、そちらも外れだった。

 人別帳をあたっても、名前と生まれ年の合う人物は見当たらない。

 彼女はこの町の人間ではない。どこからよそからやってきたことは、間違いないだろう。


 そのリサは今、目の前でお茶を飲み、菓子をつまんでいる。いま着ているのは、亡き母が若いころ身につけていたものだ。

 そういえば、母はコルセットが嫌いだったな。

 だからいつもゆったりとした服装で、貴族の奥方というより農家のおかみさんのようだった。

 コルセットは胴にくびれを作り乳房を高く盛り上げる。

 要は男を虜にするためのものだ。だったら男を虜にする必要のある女だけが使えば充分──それが母の持論だった。

 リサにもコルセットは必要ないだろう。たとえ男を魅了する必要にかられたとしても、その乳房は充分立派に張りつめて服を内側から押しあげているし、比して胴回りの華奢なことは折れそうなほどだ。いやいや何をじっくり見ている、仮にも仕事中だというのに!


「そういえば、おまえが着けていた薄衣に何か手がかりのようなものはなかったのかい? 名前や住まいが書いてあったりしなかったかい」

「いえ、特にそういったものは」

「小さい子供なら迷子札を裾に縫い付けてあったりするんだがなあ……」

「あ」

「どうした」


 菓子の粉がついた指をぺろりと舐め、リサはこちらを向いた。髪とお揃いの黒い瞳がきらりと光る。


「あの服、胸のあたりが二枚仕立てになってたんです」

「ほうほう。それならば透けないで済むな」

「その内側にですね、不思議な模様が書いてありました」

「不思議な模様……」

「ばあやさんが『なんて懐かしい、娘時代に見て以来だ』って」

「……」

「ですからあの衣装はきっと、年代物なんでしょうね。きっと誰かが私に下さったのだわ。母や祖母や、きっとそういう人たちが」


 彼女はそう言うと哀しげに目を伏せた。

 家族はさぞやリサを心配しているだろう──なのに、その家族のことさえ思い出せないのだ。

 これほど哀しいことがあるだろうか、いや、ない。

 物思いを反語で締めくくり、フランツはようやく菓子を口にした。

 子どもの頃によく食べた素朴な味だ。

 ばあやのゾフィがそれこそ娘時代から、数えきれないほど作ってきた味だ。


「リサ」

「はい」

「その模様、後で見せてくれ」






 * * *






 屋敷から町の中心まで、ヨセフの足で十五分。

 今日はうすら寒い灰色の曇天だ。雪道を踏みしめながら目抜き通りに出ると、新年の準備をする人々で町は賑わっていた。

 おつかいの内容は決まっている。

 星祭りのお飾りに、ご馳走。それから新年の朝に皆で食べる星菓子を、人数分。いつもの店のいつもの店主に、毎年同じ内容を注文する。


「ヨセフが一人でおつかいとはね」


 商店のおかみはそう言って笑う。


「こないだまで旦那様と手をつないでたじゃないのよ」

「えーっ子どもじゃあるまいし、僕もう十二だよ」

「あら、それじゃあ手はつなげないわね」


 くすくす笑うおかみを少し睨んで、伝票に数を書き入れる。

 お飾りは表門に大きいのを一つ、裏門にも中くらいのを一つ、屋敷の入口にも一つ。小さいのは、それぞれ窓に一つずつ。

 ご馳走は町の人たちにも振る舞うから大量に。

 あとは星菓子。おばあちゃんと、僕と、お館様──あ、リサのぶんはどうしよう。

 無かったら可哀想だから、今年は四人分。


「三人でしょ?」


 と、おかみが覗き込んで口を出す。


「四人でいいんだ。こないだからリサがいるから」

「リサ? 女の人?」

「うん。お館様が連れてきた」

「んまっ」


 おかみは目を丸くする。

 ちょっとあんた、フランツ様のところに女の人がいるんですってよ、と声を張り上げた。店の奥から「そりゃどこの誰だい」と声がかかる。


「どこの誰だかわかんないんだ。頭をぶつけて、名前しか思い出せないんだって」

「ふうん、そうなの。大変ねぇ」

「でも美人だし、悪い人じゃなさそう」

「あらー……だといいわね」

「あとね、おっぱいがすごく大きい」

「んまーヨセフったら!」

「でも一番見てるのはお館様だよ」


 つつもたせじゃねえだろな、とまた店の奥から声がする。

 それが何かはわからなかったが、ヨセフは伝票を書き終えた。控えを大事にしまい、「じゃあ僕もう行くね」と店を後にした。


 雪を踏んで歩くのは楽しい。

 もっともっと降ればいい。

 そうしたらお館様と一緒に、庭先に雪で小さな家を作るのだ。おばあちゃんは寒がりだから来てくれないけれど、今年はリサがいるから、きっと去年よりも楽しいだろう。


 ヨセフはわくわくしていた。

 だから、気付いていなかった。


 彼の言葉は聞かれていた。

 彼の姿は見られていた。


 弾むような足取りのヨセフの後姿を見送り、小柄な人影がぽつりと呟いた。


「……リサ」


 声は曇天に吸い込まれて、消えた。






 * * *






 リサが纏っていた薄衣を裏表に返す。

 婦人の衣装をいじることなどついぞなかったので、なぜか後ろめたいような気持ちになる。

 いやいや、やましい考えがあってのことではないのだから、後ろめたさなど感じる必要はないのだ。

 堂々とやればよい。


 かくしてフランツは、裏表に返した衣装を「ばっさー」とテーブルに広げた。


「なるほど、これがその模様か」


 顎に手をあて、ふむと考える。

 それは極めてシンプルな図形であった。

 まず大きな丸が一つあり、その中央に指で輪を作ったくらいの小さな丸がある。さらにその真ん中には、指先ほどの塗りつぶされた丸があった。

 その三重の丸が、胸の部分に左右に二つ──これではまるで、あれだ。


「おっぱいだな」

「おっぱいですよ、旦那様」


 聞かれてた!


 びくりと跳ねた心臓を押さえて振り向くと、揺り椅子にもたれながら老女が編み物をしている。ばあやのゾフィだ。 

 ああ驚いた、気配が無いのでわからなかった。


「それはね、昔っからあるおまじないなんです」

「お……おまじない?」

「そう。おっぱいが大きくなるようにっていう、女の子のおまじないです。

 あたしの周りじゃ皆やってたんですよ。裏地にこうやって模様を描いて……そのうち見かけなくなったから、まあ廃れちゃったんでしょうねぇ」


 のんびりと編み棒を動かしながら、ゾフィがにっこりと笑う──そういえば、ばあやのおっぱいはかなり大きい。やはりおまじないの効果だろうか。


 ゾフィは元々、フランツの父の乳母であった。

 以前は別の大きな町で、工場勤めなどをしていたらしい。しかし数十年前、ヨセフの祖父と結婚したのを機にこの町に移り住み、縁あって領主家の乳母をつとめることとなった──それよりまえの“娘時代”となると、これはもう太古の昔過ぎて想像もつかない。


 今は背も腰も曲がりずいぶんと小さくなってしまったばあやだが、彼女の乳がなければ自分の親は育たず、ひいては自分も育たなかったのだ。

 そう思うと、不思議なものだ。


「おっぱいは偉大だな」


 その大きさは様々であろうが、一様に有り難いものである。

 なにしろ、自然とそちらに目が行く。

 もっと言うと手を伸ばしたくなる。

 手を伸ばしてその重みを直接確かめたい、そんな気持ちになる──もちろん時と場所は選ぶし、相手だって選ぶのだが。

 おっぱいなら誰のでもいい、というわけではない。


「リサはこの服を“母や祖母から頂いた年代物では”と言っていたが、そうなんだろうな。彼女の家ではまだこのまじないを続けているんだろう」


 するとばあやは仕事の手を止めた。


「違うと思いますけどねぇ」

「なにがだい?」

「たしかに年代物かもしれませんが、あの子の家で、というのは違うでしょう。『家』には違いなくても、ふつうの『家』じゃあないですよ。その服は神仕えする娘の衣装ですから」


 聞き慣れない言葉に、フランツは首を傾げた。おうむ返しに「神仕え?」と訊ねると、ばあやはまたにっこり笑った。


「ええ、神仕えです。それこそ、見かけなくなってもう随分経ちますけどねぇ……リサはきっと、どこかの『神の家』の娘ですよ」

「ふうーん」


 その時ヨセフが戻ってきて、話はそこで一旦終わった。






 * * *






「……リサ」


 呟いた声は、若い娘のものだった。


「すごく寒いよ、リサ」


 あの日からどのくらい時間が経っただろう。

 自分を置いていなくなってしまったリサは、どうやらこの町の領主の館に身を寄せているらしい。


「迎えにいくからね」


 白い呼気が大気に溶ける。

 足先がじんじんと痛い。

 でもそんなの全然平気だ──なんともない。


 だってもうすぐ、リサに会える。そしたら二人でおうちに帰ろう。


 そうすれば何もかも、元通りだ。




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