「行こう。リサに会わせてやる」
「──どちらさま?」
扉を開けた少年は警戒の色を隠そうともしない。
じろじろとこちらを睨みつけてくる。不審な来客から屋敷を守ろうと、気を張っているのだろう。
「トッド。南の森の樵だ」
「何しにきたの」
「リサと話がしたい。俺ではなく、この娘が」
背中に負ったシシィの呼吸が浅い。重みは感じるのに、どんどん気配が薄くなる。
トッドは焦っていた。
早く会わせてやらねば、間に合わない。
「リサはいないよ。出て行っちゃった。お館様が探しに行ったけど、まだ戻って来ない」
その言葉に、背中のシシィがわずかに反応した。
少年は幼い顔を訝しげにしかめていたが、彼女の様子が尋常じゃないことに気がついたのだろう。おそるおそる口を開いた。
「その子、死ぬの?」
いや、まだだ──シシィはまだ死なない。
反駁する言葉を胸の奥に押し込め、トッドは問い返した。
「リサはどちらへ向かった。教えてくれ。このまま追いかける」
「えっ」
「どっちへ行った」
「そんなん僕は知らないよ、黙って行っちゃったんだもん──待って、ちょっと待ってて。その子そのままだとまずいんでしょ?」
年の割にしっかりした印象の少年は「待ってよ、まだ行っちゃだめだからね!」と念を押し、廊下の奥へ駆けていった。おばあちゃん、おばあちゃんちょっと来て──声を張り上げ、人を呼ぼうとしている。
待つべきか。
どうするべきか。
待てばシシィは助かるかもしれない。だが、痩せた体はもはや凍りついている。待ったところで必ず助かる保証はどこにもない。
それならせめて、望みをかなえてやるべきなのか。
「南……森の方……」
このかすかな声が消えぬうちに。
「そっちに……リサがいる……」
「わかるのか」
「……ん……」
ならば行くべきだろう。
少年には待てと言われたが──待って満足するのは自分であって、シシィではない。
「行こう。リサに会わせてやる」
はっきりした返事は帰ってこなかった。ただ首筋に触れた彼女の呼気で、「うん」と言おうとしたのだと、それだけは伝わった。
屋敷に背を向け、トッドは歩き出した。南だ。そこにリサがいる。
風雪がやわらいだのは、今のうちに進めという天からの啓示と受けとめよう。
世界は白く、そして暗い。
天地の境も分からぬ景色の中を、トッドは進んだ。時々背中のシシィを背負い直し、一歩ずつ。
何度もそれを繰り返す。
シシィ。
おい、シシィ。
まだ死ぬなよ。
リサに会うまで頑張るんだ。
ずっとずっと、どこまでも背負って歩いてやる。
重くなんかない。
やがてどれほど進んだ頃であったろうか──
自分の足音と呼吸以外の何もが聞こえぬ世界に、人の声がした。
最初はかすかに。
やがて、大きく。
おーいおーいと呼んでいる。
トッドはゆっくりと振り返り、目を瞠った──馬が近づいてくる。手綱を引くのはさっきの少年だ。馬にくくった荷台には老女が一人、着ぶくれしてニコニコと座っている。
「行っちゃダメだって言ったじゃん!」
と少年は抗議の声を上げた。
「雪が止まなかったらどうする気だったの? ほら乗って。僕たちこれからお館様とリサを迎えに行くんだから」
背中のシシィは、何も言わない──目指す先が同じなら、きっと腹は立てるまい。
早く早くと少年に急かされて、乗り込んだ荷台にシシィを下ろし、膝の間に抱きかかえる。
リサに会えるぞ。
声をかけたが、血の気のない唇は動かない。
「その子は大丈夫」
聞こえた声に顔を上げる。もこもこに膨れた老女は微笑んで繰り返した。
「その子は大丈夫。死なないわ」
「……なぜ」
「星神様が見ておられるもの」
トッドは答えなかった。揺れる荷台の上で、シシィの青白い頬をずっと見つめていた。
* * *
駆けだしたリサの後を追い、フランツも“光の快速号”の方へと走った。
ヨセフにばあや、そしてシシィと見知らぬ男。
この顔ぶれがどうしてここへ。いったい何がどうなってるんだ。
「シシィ!」
風がやみ、静けさを取り戻した大地にリサの悲痛な声が響く。
「シシィ、シシィ……ああどうしましょう、どうしましょう。ねぇシシィ、目を開けて。私よ、リサよ、わかる?」
まずいんじゃないのか、とフランツは息を飲んだ。
シシィの顔色が悪すぎる。
湯船で暴れてずぶ濡れのまま、砦に連れて行かれてそのままだったのか──だが服が変わっているから、着替えはおそらくしたのだろう。それに、あの隊長が火にあたらせてやらなかったとは考えにくい。
だが待てよ。砦の鉄格子の中にいるはずのこの娘が、どうしてここにいる?
「まさか、牢やぶ」
「あんたがリサか」
フランツの言葉を遮ったのは、シシィを抱きかかえた男だった。どういう関係なのかはわからない。
だが、その声は落ち着いていた。
「会いたがっていた。話してやってくれ」
リサは目に涙を浮かべて頷いた。手袋を外し、一瞥して氷のようとわかるシシィの手をとって語りかける。
「シシィ」
やせっぽちの少女の瞼は、かろうじてうっすらと開いていた。開いているのか閉じることができないのか、定かでない。
「ごめんね。ごめんね。置いて行ったりして」
「……」
「シシィ。私、あなたのこと」
「……サ」
シシィの唇がわずかに動いた。
その場の誰もが息をひそめ、リサは青ざめた唇に耳を寄せた。
耳をそばだて、一度頷き、二度頷く。
「そんなことないわ」と呟いて、また耳を寄せる。
長い。
長いと感じた。
寒さがそう思わせたのか、消えゆくシシィの命の灯がそう思わせたのか──定かでない。
苦しい。
胸が苦しい。苦しくて熱い。
呪いによって生じた乳房が悲鳴を上げている。だがそれはフランツ自身の苦痛ではない。
リサとシシィ、二人のものだ。
この苦しみは、男の体に乳房が育つという混乱は、彼女たちのものなのだ。
二人の娘の混乱が、この不可解な奇蹟をもたらしたのだ。
今はただ静かに横たわり、リサに手を取られているシシィの内側は、常に狂わんばかりの嵐が吹き荒れていたのだろう。
だがその嵐が。
胸を絞るような悲しみが。
永遠とも思えるような嘆きが。
徐々に、徐々に、力を失っていく。
消えて行く。
シシィの命とともに彼女の嘆きも、哀しみも、呪いの乳房もすべて──初めから、何も無かったように。
やがて、リサが顔を上げた。
「フランツさま」
涙で顔中を濡らし、振り絞るように叫んだ。
「シシィを……シシィを助けて下さいまし……!!」
是非もない。
“光の快速号”の背には鞍がついていた。フランツは鐙に足をかけ、馬上に上がって手綱を取った。
「飛ばすぞ!! 皆しっかり掴まれ!」
馬の腹に踵を蹴り入れる。大きく嘶き、“光の快速号”は走り出した。
もうもうと雪煙を上げ、矢のように。
荷台ではばあやが、皆を宥めるように繰り返していた。
「大丈夫、大丈夫……その子はちゃんと、助かります。星神様の御加護がありますよ」
* * *
握りしめたシシィの手は氷よりも冷たかった。
話しかけると、乾いてひび割れた唇がかすかに動いた。
「……サ」
掠れた声がリサの胸を締め付ける。
シシィ。ごめんね。ごめんね。置いて行ったりして。こんなになるまで、放っておいて。
僅かな吐息とかすかな唇の動きを、リサは注意深く見つめた。
声にならぬ声を一言も逃すまいと、息をひそめた。
──リサ、寂しかった。
薄く開いたシシィの目に光はなく、見えているのかどうかもわからない。
睫毛に細かい氷がこびりついて、もう動かせないのだろう。
──嫌われたんだって思った。私がいつも泣いてばかりだから。リサを困らせてばかりだから。ごめんね、ごめん……ぜんぜん、いい子じゃなくて、ごめんなさい。
そんなことないのにと言いかけて、言葉につまる。
自分への執着を強めるシシィを疎ましく感じた瞬間は、無かったとは言えない。
隠したつもりで見透かされていた。
それが余計にシシィを追い詰めたのだと、今ならわかる。
──ねぇ、なんで私のおっぱい大きくならないのかな……なんで私は皆と同じになれないんだろう。
シシィの気持ちをほぐす言葉を、リサは持たない。
だが、一つだけわかることがある。
──星神様も私のことがお嫌いなんだ。だから、リサと、同じになれない……
「そんなことないわ」
神仕えの女たちを、善良な女たちを、星神様は等しく見ておられる。
「まだそのときじゃないだけなのよ。あなただって必ず大人になる。星神様のお声だって必ず聞こえる。御加護はあるわ、あなたにも」
──リサと同じになりたい……
「シシィ」
──リサと、おなじに……
それっきり、シシィの唇から息の音がしなくなった。
視線は虚空に浮いたまま。
指先をリサの手に委ねたまま。
傍らの男に、その身を預けたまま。
やめて。
こんなに後悔するのなら、もっと優しくすれば良かった。一緒に行こうと言えば良かった。だがそれではきっと駄目だったのだ。私が目の前にいてはダメだった。場所がどこでも、私たちが一緒にいては何も変わらない──でも、こんなこと、望んでいなかったのに。
「フランツさま」
リサは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった頬を、拭うことさえ忘れていた。
「シシィを……シシィを助けて下さいまし……!!」
シシィの体を抱えた男の、何か言いたげな視線を感じる。
彼はシシィの何だろう。わからないが、今はそれどころではなかった。
早く、早く。
リサの祈るような思いとともに“光の快速号”は雪原を駆けた。
いつの間にか雪雲は彼方に流れ、黄金色の陽光がその切れ目から斜めに差し込んでいる。
まるでシシィを迎えるために、天から降ろされた梯子のようだった。