「リサ、連れて帰ってきてねー!!」
リサが行ってしまった。
誰も止めなかった。
「ねぇ、おばあちゃん」
「なあに?」
「リサ、だいじょうぶかな」
行かないでと言いたかった。行ったらだめだと言いたかった。
それなのに、どういうわけか声が出なくって──その間にリサは一人で行ってしまったのだ。
無力なのはヨセフだけではなく、大人ふたりも同じだった。
フランツでさえ、呆けたように突っ立ったままだったのだ。
「リサが心配?」
「うん」
「だいじょうぶ。星神様がお守り下さるから」
ゾフィはそう言うと、編み物の続きに取り掛かった。
居間の明かりがゆらゆら揺れる。本当なら、まだ明かりをともすような時間ではないはずなのに。
ヨセフが窓の向こうに目をやった。
「でもさ、雪が降ってるんだよ」
「いつかは止むわ」
「風も出てきたみたいだよ」
「暖かい恰好で行ったから、だいじょうぶ」
「でも」
ヨセフは口を尖らせる。
「でも──行ってほしくなかった」
おばあちゃんはこの間から、なにを一生懸命作っているんだろう。
ゆったりと揺り椅子に腰かけたゾフィの姿が、ヨセフにはのんきすぎるように見えるのだ。
あんなことがあったばっかりなのに、どうしてすぐいつも通りになれるんだろう。編み物なんかしている場合じゃないと思うのに。
「リサ、きっと連れて行かれちゃうよ、あのシシィって人に。忘れてたことぜんぶ思い出したら、きっともう戻ってこないよ」
急に不安が湧きあがる──そうだ、きっとリサは戻ってこない。
だって気持ちの強さが違うもの。
そりゃ僕らだってリサと一緒にいたいけど、三人の気持ちをぜんぶ合わせたって、あのシシィって人にはきっと敵わない。
だからリサは戻って来ない。シシィと一緒に、行ってしまう。
「怖いの?」
うん、とヨセフは頷いた。
だいじょうぶよ、とゾフィは笑ってみせる。
「きっと何もかもうまく行って、みんなで星祭りを祝えるわ。慈悲深い女神さまが、みんなみーんな、見ておいでだから」
「本当に?」
「本当よ」
「おばあちゃんにはわかるの?」
「ええ」
「なんで?」
「それはね……」
編み物の手を止め、ゾフィはヨセフを手招いた。耳を貸すよう言われ、頬をよせた丁度その時──
何か言いかけたゾフィを遮るように、どたどたと大きな足音がした。
「ばあや、ヨセフ、ちょっと出かけてくる!」
あわただしくやってきたのは、この家の主だった。
常より念入りな防寒具に身を包み、もこもこどころか真ん丸だ。
これから雪の中に出陣する──そんな出で立ちのフランツに、ヨセフは驚いて声を上げた。
「お館様、リサを追いかけるの?」
さっきはぼーっと突っ立って引き留めもしなかったのに!
そう言いかけて、思わず口を閉じた。こちらを見て頷いたフランツの目に、なみなみならぬ決意がみなぎっている。
お館様、本気だ──本気で、リサを取り返そうとしてる!!
「ああ、追いかける。
今ならそんなに遠くない、ぱーっと行って、ぱーっと戻ってくるからな。おまえたちは留守番だぞ、いいな」
「うん」
「風呂、沸かし直しておいてくれ。温かいスープなんかあるともっといいんだが頼めるかな、ばあや」
「ええ、ええ」
よし、と気合を入れるように頷いて、真ん丸のフランツは毛皮の帽子の紐を締めた。
「それじゃあ、行ってくる」
そのときヨセフの目には、フランツの姿が輝いて見えた。
いつも何となくぼーっとしてて、時々とんちんかんなこと言って、しっかりしてるんだかうっかりしてるんだか定かじゃないけれど──もしかするとうちのお館様、本当はすごく頼もしいのかも!
「お館様ー!」
遠ざかる背中に向かって、ヨセフは大きく声を張り上げた。
「リサ、連れて帰ってきてねー!!」
フランツは片手を高く上げてそれに答えた。
良かった。これで大丈夫。
きらきらと急に心が浮き立ってくる。
何もかもうまく行くような、そんな気がしてくる。
この雪だって遠からず止むだろう──そのように思えてくる。
ヨセフはうきうきと仕事に戻り、ゾフィも「ヨッコイショ」と居間から炊事場に移動した。
お風呂、あっためておかなくちゃ。きっとリサはぶるぶる震えながら凍えてる。すぐ入れるようにしておかないと。
そして──
その準備が終わらぬうちに、表の扉が激しく叩かれた。
「帰ってきた!」
ヨセフは廊下を駆けた。
「おばあちゃん、僕出るから!」
お館様すごい。ほんとにぱーっと行ってぱーっと戻ってきた。
息を切らし、喜びに頬を上気させながら、ヨセフは扉を押し開いた。
「お館さまお帰りなさい、リサは……」
「──リサはいないのか」
風雪とともにやってきたのは、見も知らぬ大人の男だった。
ヨセフは顔をこわばらせ、思わず後ずさった。
「誰」
と訊ねようとして息を飲む。
男はその背中に人をおぶっていた。だらりと下げた細い手、びっしりと氷がついた黒い髪──シシィ、とヨセフは呟いた。
声は外から吹き込む風に、すぐにかき消された。
* * *
リサは途方に暮れていた。
雪まじりの風が頬を叩く。
どうしようと呟いても、聞こえるのは風の音ばかり。
──寒い。
足先がじんじんと痛んで小刻みな震えが止まらない。とても暖かい恰好をしているはずなのに。
戻るべきだ、と頭の片隅で声がする。
戻らなくては死んでしまう。
凍りついてしまう。
だが、引き留めるなと言って出てきたのは自分なのだ。
シシィと話をする──そう言って出てきてしまった。おいそれとは戻れない。
「シシィ……」
シシィに会わなければ。
途方に暮れて、辺りを見回す。
ここは何処なんだろう。
建物が一つも見当たらない。もしかしたらあるのかもしれないけれど、斜めに吹きつける雪が視界を覆って、遠くが見えない。
なにもかも、まっしろだ。
こっちに行けばシシィに会える──そう思って、歩いてきた。
その時はたしかに確信していたのだ。
なんであんなに自信があったんだろう。星神様の思し召しだったのだろうか。
でも、こんなところで我に返るなんて。
どうしよう。
じわりと視界が滲みかけ、ぐっとこらえる。
泣いてはだめ。
泣いてはだめ。
きっと睫毛が凍ってしまうし、濡れた頬だって酷いことになってしまう。
「……シシィ……」
胸が苦しい。
リサは背中を丸め、しゃがみこんだ。
後悔が雪崩のように押し寄せ、全身を飲み込んでいく。
あの子もきっとこんな気持ちだったのだ。同じ気持ちで、雪の中を彷徨ったのだ。
一人になることをあんなに恐れていたのに。
さぞ心細かったろう。
さぞ寂しかったろう。
フランツを自ら遠ざけた自分が、いまこんなにも苦しいのだ。眠っている間に置き去りにされたシシィは、どんなに嘆いたことだろう。
「ごめんね」
呟く唇も、凍って乾いて割れてしまいそう。
「ごめんなさい」
きっと罰が当たったのだ。
シシィにした仕打ちが、こうして我が身に返ってきたのだ。
このまま凍えて死ぬのだわ。
雪が、風が、容赦なく体温を奪う。
かじかんだ手足がぎりぎりと痛む。
ここが町の中なのか外なのか、もうそれすらもわからない。それでもいつか雲が途切れて明るくなれば、誰かが見つけてくれるだろう。
私がここで死んだら──皆どうするかしら。
シシィは、また狂乱のるつぼに陥るだろう。
ヨセフとゾフィは、悲しげに眉をひそめるだろう。
フランツは──フランツさまは、どうなさるかしら。
「フランツさま……」
優しい方だから、きっとご自分をお責めになるだろう。呪いの跡を見せたこと、私を引き留めずに行かせたこと、きっとひどく悔やまれるだろう。
「フランツさま……」
すてきな方だった。
優しい方だった。
とても気さくで、朗らかで、大らかな笑顔の方だった。
「リサ」
私を呼ぶときに、目を細めて微笑むのが好きだった。
「リサ」
私を見つけてくれたのがフランツさまで、本当によかった。
たくさん迷惑をかけてしまったけど。
今もこうして迷惑をかけているけれど。
もしも──もう一度お目にかかることが出来たなら……
「リサ」
名前を呼んでくれるだろうか。
あの日のように、しっかり抱えて連れて帰ってくれるだろうか。
さっきから震えが止まらない。
寒さのせいだろう。
後悔のせいだろう。
私はここで死ぬのだろう。
「フランツさま……」
幻が見える。遠くであの人が手を振っている。
そんなはずないのに。
そんなこと、あるわけがないのに。
きっと死に際に、一番ほしいものが見えているだけなんだ。だって、私はもう、ここで──
「……リサ!!」
──呼ばれた?
はっ、とリサの意識は覚醒した。
風が一瞬途切れ、目をこらす。
あれは──幻じゃない。本当のフランツだ。来てくれた。探しに来てくれた。私を迎えに来てくれた!
「フランツさま!!」
叫び、リサは駆け出した。新しい雪に足を取られ、向かい風に体を押し返され、何度も転びそうになりながら。
「フランツさま、フランツさま、フランツさま」
泣いてはだめ、と心に決めたのに。ものの五分と経たぬうちに自ら誓いをやぶってしまった。
でももう無理、我慢できない。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい!!
「フランツさまぁ!!」
「リサ!!」
力強い腕に抱きとめられ、リサはそのまま崩れ落ちた。
* * *
「引き留めるなと言われたけれど、来てしまったよ」
そう言うと、リサは腕の中で「はい」と頷いた。
「帰ろう、ヨセフとばあやが心配している。約束しておくれ……もう二度と、一人で出て行ったりしないね?」
しゃくりあげながら、リサはまた「はい」と頷いた。
実際のところ上手く声が出ず「あ゛い」と聞こえたが、もうそれすらも愛おしい。
よかった、よかった。ああよかった。
風がきつくなりはじめ、リサの足跡を一瞬見失ったときは胆が冷えたが──しかし、フランツには予感があった。
リサは南に向かった。足跡が町から離れた時に、そう頭の中に閃いたのだ。
南には森がある。
森の奥には、『神の家』がある。
リサはそこに住まう神仕えの娘なのだ。道など分からずとも、導かれるようにそちらへ向かうだろう。
──あるいは、導かれたのはフランツであったかもしれない。
彼女の影を遠目に見つけた時、予感は確信に変わった。
あの場所は、忘れもしない。
初めてリサを見つけた場所だ。
工事中の線路が雪に埋もれている、その隣で初めてリサを見つけたのだ。
「フランツさま、私、私」
「うん、うん」
「ご迷惑を、おかけし、ぐすっ、たくさん、たくさん」
「いいんだよ、気にしないことだ」
「皆様に甘えて、ばかり」
「今さら何を……甘えてくれていいんだ。遠慮はおやめ」
おおよしよし、とフランツはリサの頭を撫でた。頭につもった雪を払いのけ、自分が被っていた帽子を乗せる。
そしてリサの顎の下で紐を結んだ。
とにかく、無事でよかった。本当によかった。
リサが出て行ったとき、でくのぼうみたいに突っ立ってるしかなかったのが信じられない。あれはいったい何だったんだろう。
「リサ」
もしもあのまま呆けていたらと思うと、ぞっとする。こんな雪の中を一人で送り出すなんて。
永遠に彼女を失っているところだった。
そうならなくて、本当に良かった。
「なあリサ、うちに来ないか」
安心したせいか、言葉は自然とこぼれ出た。
リサがはっとしたように顔を上げる。
「おまえさえ良ければ、うちにおいで。迷惑だなんて気にしてはいけないよ。そんなふうには思ってないし、おまえの抱えた荷物が重くて大変なら、私も一緒に背負って歩こう」
フランツの腕の中で、リサは目を丸くして聞いている。
ちょうど風が弱くなってきた。勢い任せの言葉を天から許されたような、そんな気持ちがする。
こんな時にこんな場所で言うことではないだろう。
本来ならきちんと形をととのえ、もっと準備をしてから臨むべきだろう。
だが今言わずにいつ言うのだ。
言ってしまえフランツ。このような婦人には、今後二度と出会えるまい。
「うちにおいで、リサ」
リサの頬に、ほのかに朱が差した。黒い瞳に、じわっ、と涙が浮かぶ。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女は何度もうなずいた。
「わ、わた、私も、ぐすっ……そ、そうしたいです! い、いっぱいお仕事、します。おうちの、中のこと。ばあやさんの、お手伝い。いっぱい!」
そう言って「う、う、ひっく」としゃくりあげる。
なんて健気でいとおしいのだろう──だが「いっぱい仕事する」という返事はおかしくないか。
どうやら言葉の行き違いがあったらしい。きちんと訂正しなくては。フランツはリサの肩に手を置き、しっかりと瞳を覗き込んだ。
「違うんだよリサ、使用人として来てほしいわけでは」
「構いません、少しでも御恩が返せるなら」
「いやいや、そういうことではなく」
「私、みんなが大好きです。本当に良くしてくださって、ヨセフも、ばあやさんも、フランツさまも」
「そ……それはどうも、ありが」
「大好きです。本当です。あなたがどんな体でも……フランツさまっ!!」
そうだった!
リサは自分の胸に顔をうずめている。
そこには男の体にあるまじき柔らかな乳房が隠されているのだが──ああーそうだ、そうだった。一瞬忘れていたけれど、男なのにおっぱいが育つ呪いをかけられてしまったのだった。
どうしよう。
うわあああ、どうしようこれ本当に!
フランツはリサを抱きしめながら、おろおろと視線を泳がせた。
雪はいつしか止んでいた。
目を凝らせば向こうの方に、自分の屋敷が見えている。足元には、作りかけの線路がわずかに顔を出している。
そうだ、あの日と同じだ。何もかもがここから始まったのだ。それがこんなふうになるとはなあ……
ある種の感慨を抱いたとき、屋敷の方に雪煙が上がった。
何かが近づいてくる──もしかして、あれは。
「“光の快速号”……!」
それは荷車を引いた領主家の老馬だった。
荷台には人が固まって乗っている。そのうち一人がぶんぶんと手を振り、かすかに叫んでいた。
「おーやーかーたーさーまー!」
おお、とフランツは手を振り返した。
手綱を掴み、手を振っているのはヨセフだった。よくよく見れば、なんとばあやもいるではないか──それだけではない。毛布でぐるぐる巻きになっているあれは、もしかして……
「……シシィ?」
フランツよりも早く、リサが気づいた。気づいて、ゆらめくように立ち上がった。
やはりそうだ、ヨセフとばあやとシシィがこちらに来る。シシィを膝の間に抱えているのは見知らぬ男だが、あれはいったい誰なんだろう。
はたしてどういういきさつがあったのかと、フランツは首を傾げた。
その横をすり抜け、リサが駆けだした。
「シシィ!」
息を切らせ、よろめきながら。
ただひたすらに、駆けていった。