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「私は、リサと申します」

 雪道に、女がひとり倒れていた。

 

 しんしん


 夜空にちらちら雪が舞い、肩に、背中に、うっすらと積もっていく。

 つややかな黒髪に白い結晶がからまって、かすかに輝いた。


 しんしん しんしん


 そこに男が一人やってきた。

 雪を踏みしめ、あたりを見回して──女を見つけ、目を瞠る。


「……こりゃあ大変だ」


 腰の剣を後ろに回して屈みこむ。血の気の失せた頬は青白く、おそるおそる触れた体は氷のようだ。


 だが少なくとも、生きている。


 ならば急がねば。

 男は女を抱え上げた。そしてえっちらおっちら来た道を戻っていく。

 その足跡を、舞い落ちる雪がそっと隠して──




 しんしん しんしん




 ──彼らはまだ知らない。


 倒れていた女は、一人ではないことを。

 同じ時、別の場所で、もうひとり女が斃れていたことを。


 そしてもうひとりの男がそれを抱え上げたことを──彼らはそれを、まだ知らない。





 * * *





 ここに一人の少年がいる。歳は十二、名をヨセフという。


 ヨセフ少年は町の領主の館で暮らしているが、貴族の血というわけではない。

 屋敷での下働きが彼の仕事だ。

 その日も一日の仕事を終え、一緒に暮らす祖母を寝室に送り届け、さて自分も眠ろうかと寝台にもぐりこんで灯りを消した。


 寒いなあ。

 雪、また降るのかな……お館様、遅いなあ。

 今日は何かの式典に出席した後、町の上役の人たちと鉄道のことで寄合があって、そのあと飲んで帰るとか言ってたっけ。先に寝てていいって言われたし、今夜はまだまだ帰ってこないんだろう。


 そんなことを思いながら、ヨセフの意識は眠りの森を彷徨いはじめた。

 ざく、ざく、ざくと遠くから雪を踏みしめる蹄の音が近づいてくるが──気のせいということにして一つ寝返りを打った、その時だった。


「湯だ、湯を沸かせ!」


 バァーンと扉を開き、賑々しく叫びながら館の主が帰還した。

 ヨセフは眠い目をこすりながら、さっき消したばかりのランタンに灯りを入れる。残念、気のせいじゃなかったのか。

 寝台からずるずると降りるが、本当は起きたくない。猛烈に眠い。それにものすごく寒い──きっと玄関開けっ放しなんだ、まったくもう。


「お館様ぁ、フランツ様ぁ……なんですかもう、いったい何の騒ぎ」

「おぉヨセフ、ばあやはおらんのかばあやは。ゾフィ、ゾフィ! おーい!!」


 なにやら大きな荷物を抱え、館の主はどかどかと足音高く入ってきた。思った通り、玄関は開けっ放しだ。体に巻きつけた毛布の端を握りしめ、ヨセフは渋い顔をした。

 なんだなんだ、なんなんだ。もしかして酔っぱらってるのかな、いやだなあ。

 もう勘弁してよと恨めしげな視線を向けると、主は今まさに呼び鈴を鳴らそうとしていた。慌ててもぎ取り、制止する。


「ちょ、やめてやめて! おばあちゃんとっくに寝てるから……」

「なんだおまえ、あったかそうなものを巻いてるじゃないか。丁度良かった、それ貸しなさい。な?」

「あー! お館様ひどい、さむい! わー!」


 取られまいと抵抗したものの、大人の力には敵わない。それでなくてもフランツという人物は恵まれた体躯の持ち主だし、男盛りで力も強い。容赦なく毛布を奪うと、彼の主は背中の荷物を一旦下ろした。

 どさっと重い音がする。

 ランタンを掲げてヨセフは目を疑った。


 荷物の正体は、若い女、のようだった。


「……誰、これ」


 訊ねるヨセフに、フランツは肩をすくめてみせる。


「それがわからんのだよ」

「どっから攫ってきたんですか」

「人聞きの悪いやつだなあ、私は人攫いなんかしないぞ。

 今日、森の近くまで作りかけの線路を見てきたんだがな、そのすぐ近くで倒れていたんだよ。警邏隊の砦よりうちの方が近いし、若いお嬢さんをあんなところに連れて行くのは気が引けるだろ? ゾフィに取りあえずの世話を頼もうと思ったんだがな」


 寝ているんじゃあ仕方ないなあ。

 そう言って頭をかき、女の体を毛布でぐるぐる巻きにする。女の黒い髪が揺れ、がっくりと俯けた顔は蒼白だ。


「この前の雪がまだ残っているというのに、ずいぶんと薄着でな。見て見ぬふりもできず、“光の快速号”に乗っけて連れてきたわけなんだが……これ、ぼーっとしてないで湯を沸かさんか。早く温めないと、指も頬もあかぎれだ。風呂はもうはらったあとか? まだ残っているなら入れてやらなければ」


 そう言うと、フランツは「よいしょ」と女を抱き上げた。式典用の剣を外すのもそこそこに、どたどたと居間へ向かう。


「でも、ちょっとお館さま。あの、“光の快速号”は?」

「自分で厩舎に入っていった。だからほれ、おまえは風呂の準備を頼んだよ、大急ぎで」


 いやーあいつは本当に賢い馬だなあ、快速で走らせたことはないけどな──そんなのんきなことを言いながら、女を暖炉の前に横たえる。

 何が何やら、ヨセフは取るものも取りあえず湯を沸かしに走って行った。


 お風呂に入れるとか言ってるけれど、誰がやるんだろう。

 僕? いやいやまさか。

 お館様? いやいやまさか……


 いくらなんでも、そんなまさか!






 * * *






 火が落ちていても、暖炉の前はまだ暖かい。

 その前の毛皮の敷布に直接腰を下ろし、横たわる若い女をフランツはじっと観察した。

 顔立ちは中々整っている。

 つややかな長い黒髪が印象的だ。

 年のころは……うーん、ちょっとよくわからない。きっと自分よりも年下で、ヨセフよりは年上なのだろう。若く美しい、年頃のお嬢さん。そういった感じだ。

 それにしても、なんだってあんな薄着をしていたのだろう。夏物のような薄衣一枚で雪道に倒れていたというのは尋常ではない。

 何かのっぴきならぬ事情があるに違いない。


 館の主フランツは、この田舎町の生まれである。


 家はいわゆる、地方の田舎貴族だ。

 下働きはばあやのゾフィと孫のヨセフだけ。決して豊かな暮らしではない。

 二親は一昨年、見送った。もう少し長生きしてほしかったが、自分は遅くに出来た子どもだったので仕方がない。

 心残りは父母が元気なうちに跡取りの顔を見せられなかったことだが──ええいそのようなこと、思い悩んだとて仕様があるまい。

 両親は孫を見ずに死んだのでは無いんだし、それどころか、方々に嫁いだ姉たちが子を産むたびに里帰りしていたじゃないか。結果、現時点でフランツには十三人の甥姪がいる──これだけいれば充分だろう。


 三十をいくつか過ぎたこの歳になっても、フランツは独り身であった。

 縁談が無かったわけでは無いが、どれも最後の最後に折り合いがつかず、ここ数年は縁談自体がやってこない。「フランツさま、いい方なんだけど……」と必ず言われるので、いい人であることは間違いないのだが。

 だが、それでも困るわけではない。

 跡取りがなければお家は断絶ということになろうが、甥姪を養子に迎えることだってできるし、彼らが田舎暮らしを渋るのならヨセフだっていいだろう。なにも血縁でなくたって、領地経営は可能なはず。

 もしもそのどれもが叶わぬなら、その時はお国に領地を返すまでのこと。国王陛下は賢明な方だし、議会ともうまくやっている。

 それに現在の懸案である鉄道敷設さえ、自分が現役のうちに完成すればよい。そうすればこの何もない町もずいぶんと便利になって──


 ──いやいや、そんなことは今はよい。


 物思いを中断し、視線を戻す。

 娘ははよく眠っている。窓から差し込む雪灯りに、白い頬が冴え冴えと映る。


「おい大丈夫か。もうそろそろ風呂が沸くぞ」


 声をかけたが目覚める気配はない。


「おーい」


 やはり、目覚めない。

 よほど疲れているのか。雪道で倒れ、体が冷え切ったせいなのか。それとも何か、酷い目に遭ったのだろうか。

 ……

 ……

 ……検めねばなるまい。失礼します。


 娘の体に巻いた毛布を、そっとくつろげる。

 顔に傷はない。

 衣服はやたらと薄く見慣れない形だが、こちらにも破れたような跡はない。すらりと伸びた腕や足にも、痣などは見当たらない。

 よかった、不届きな輩に不届きな真似をされたわけではないようだ。手や足の先は氷のようだが、湯に入れてやれば溶けていくだろう。


 フランツはホッとしたような心持で、女の体にまた毛布をかけた。

 ──かけようとした。

 かけようとして、手を止めた。

 手を止めて、息を飲んだ。


 何も知らぬげに眠る若い娘──その上下する胸元に、息を飲んだ。


「なんという……」


 なんという、美しい胸元。


 たおやかな丸みに、まるで輝くような滑らかさ。

 薄い灯りの下でもはっきりとわかるその大きさは、手のひらには収まらぬであろう。

 横になってこれなのだ。起き上がったらどうなるのだろう、こぼれてしまうのではないか。いやそもそもこの薄衣一枚では、だいじなところが透けてしまうのではないか。

 けしからん。まことにもってけしからん。

 ああよかった、暴漢に遭った痕跡がなくて。


 今度こそ毛布をかけてやろうと、フランツはその端を掴み直した。だが、娘の立派な乳房がそのつもりは無くとも目に入る──いやいや何を見ているのだ御婦人に何とぶしつけな!

 自分を叱り、それにしても大きいおっぱいだなとまた感心し、毛布をかけようとしては手が止まる。

 しばらくそんなことをしていたので、ヨセフが戻ってきたことには全く気づかなかった。


「お館様ー」

「うわッ!?」

「お風呂沸きましたけど」

「そ、そうか」

「ねえお館様、僕やっぱりおばあちゃん起こしてこようかなあ」

「そ、そうか?」

「だって僕やお館様がやるわけにいかないじゃないですか」

「そうか……やっぱりそう思うよな」

「……残念なの?」

「何を言う、失礼な」


 唇を捻り上げてやると「いでででで」と涙目になる。

 ヨセフは年から言っても息子のようなものだし、実際に気安い仲ではあるが、一応は主従の関係なのだ。生意気を言えば当然、おしおきだ。


「いででであにすんれすか、しどい」

「しどいのはおまえの言い様だぞヨセフ。私がいつ残念だと言った。言ってないぞ。言ってないからな?」

「らって、らって、じーっと見てたじゃないれすか。その人のおっぱいを」


 ばれてた!


 捻り上げた唇から手を離す。「いだいしどい」と繰り返すヨセフの声に混じり、「うーん」と小さな呻きが聞こえ──フランツは「はっ」と横たわる女に目を向けた。


「うー……ん」


 形の良い眉をしかめ、ひとつ身震いした後、彼女はそっと目を開けた。

 瞳の色は髪と同じ、夜空の色。しばらく焦点が合わずにいたその視線は、そのうち一カ所で落ち着いた。

 不思議そうな顔で彼女はフランツを見上げ、二人はしばし見つめ合う。すぐ横にいるヨセフの存在を、フランツは一瞬忘れ──そして、


「うぇっ!?」


 と叫んで、娘がばね仕掛けのように飛び起きた。


 ごちんと鈍い音がして、二人がしたたかに額を打ちあったのは、言うまでもない。






 * * *






「ごめんなさい、さっきはごめんなさい」


 そう言うと、娘はぺこぺこと頭を下げた。湯上りの肌がほかほかと上気している。


「私、驚いてしまって……あのう、痛くないですか。こぶになってませんか」


 僕もう部屋に戻っていいかなあ……とあくびを噛み殺せば、主は妙に威厳たっぷりの風情で暖炉の前にゆったりと腰掛けている。

 ヨセフは知っていた。

 うちのお館様が立派に見えるときは、たいてい何かを誤魔化そうとしている時なのだ。

 たとえば自信がないときであったり、不安なときであったり、ようするに心の動揺を悟られまいとしている時なのだ。

 つまるところ若い美人なお姉さんが目の前にいて、どきどきしているのだろう。

 わかりやすいなあ、ともうひとつあくびを噛み殺す。

 もうだめ、すっごく眠い。


「うむ、それでだね、きみ。今日は遅いので我が家で休んでいくといいだろう。来客用の部屋、あったな? ヨセフ」

「ありますけどぉ……」

「ご案内して差し上げろ」

「ふぁい……」

「いえあの、お気遣いなく。すぐに御暇いたしますから。お風呂ありがとうございました。助かりました」


 娘はそう言ってまた頭を下げる。


「早く行かないと──なるたけ遠くに。ご迷惑かけられませんから」


 ……なんで?

 眠い目をこすりこすり主の顔を盗み見る。するとさもありなん、フランツは片方の眉をぴくりと動かして娘に訊ねた。


「この雪の中を? どこへ」

「それは」

「何か事情があるのだろうが、今夜はもう遅い。泊まって行きなさい」

「でも」

「もし良ければ、聞かせてくれないか。何か力になれることもあるだろう」

「……」


 娘は口をつぐみ、視線を泳がせる。「私は」と掠れた声で呟いた。


「私は、リサと申します」


 リサ、と主の声が繰り返した。


「……それしか」


 ほんのりと赤かった頬が、また色を失っていく。

 蒼白に近い顔色で、振るえる体を腕で抱いて、リサと名乗る若い女は声を振り絞った。


「それしか、わからないんです……なんでだろう。どうして」


 そして、力なく項垂れた。

 ヨセフとフランツは顔を見合わせた。なんだかワケありだ、このお姉さん。

 だがそれ以上に、気になることがあった。


 自分の身体をきつく抱き、俯いた若い娘の両腕の間──美しい乳房がぎゅっと寄せられ、くっきりと谷間を形作っている。


 フランツに気取られないよう、ヨセフは小さく息をついた。

 ……お館様、見すぎ見すぎ。




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