Ⅰ 帝国が滅びました
久しぶりの投稿です。
[ I ] 帝国が滅びました
帝国暦888年。カピパラ帝国滅亡。
属国の一つであったコ・アーラ国に急襲され、帝都カンガルは3日と保たずに
灰塵に帰した。皇帝と皇妃は僅かの手勢を引き連れ、辛くも難を逃れ、皇帝の
生国であるウォンバット国に居を移した。しかし、皇城にいた者の多くは
敵の刃に貫かれるか、炎に巻かれるかして無残にも命を落とした。
皇帝の寵妃といわれたツユクサも死出の道を辿るところであった。
彼女は信頼する警邏隊長に生後間もない我が子、皇帝の御子を託すと
自らは敵の目を欺くために断崖絶壁から身を躍らせ、大河にその命を捧げた。
…はずなのですが、ズタボロになっても助かってしまいましたよ。
激流にドンブラ流され、気が付けば隣国ワラビで拾われていました。
愛しい陛下に一刻も早く会いたい?
いえいえ、これであの人とも…縁が切れた。所詮は儚いご縁でした。
子どもたち(3才王女と0才王子)のことは心配ですけど、皇妃さまが
いてくださるから何とかなるはず。
お母さんは星になりました、ということで。
遠くから君たちのことを見守っているよ。
元気でいてね。
帝都が燃えて、皇城はもちろん実家も消滅。
旦那さまと子どもたちとは生き別れ。
悲惨といえば悲惨だけど、この身は大した後遺症もなく生き残った。
助かった命をどう使うか。
寵妃ではなく、別の人生を歩いてみようか。
まだやり直せるはず。まだ19才だもの。
もともと皇室なんて縁のない庶民だもの。
別の、もっと普通の、もっと平凡な人生を願ってみても…良いよね。
“あの人”を許して、さもなければ忘れて、別の人生を歩いてみようか。
*** *** *** *** *** ***
意識を取り戻し、寝台から起き上がれるようになるまで1週間。
いつまでも続く微熱や、咳がようやく収まりを見せるのに、次の1週間。
平常食を摂り、自分の身の回りのことができるようになるのに、更に1週間。
酷い有様で倒れていた“彼女”が何とか普通の暮らしを取り戻すまで約1カ月。
そうして命を助けてもらったお礼にと、下働きの真似ごとをするようになるまでに
回復した。今では肩の所でプッツリ切りそろえた赤毛を忙しなく揺らしながら
クルクルと動き回っている。快活な声が薄く開いた扉の向こうから響いてくる。
「…それで、クローヴァ、彼女のことはどうするおつもりなのですか?」
手元が疎かになっていたのが丸分かりだったのだろう、傍らに立っていた補佐役が
尋ねてきた。こちらが朝から碌にモノも言えず、食べられずにいるのを知っている
くせに底意地の悪い奴だ。
「くどいようですが、ただの使用人として彼女をライアンに連れていくのは
無理がありますよ。わたくしども商隊が懇意にしている地方の町や村の長に
預けるのが得策だと思いますが」
「…分かっている」
分かっているが、手放したくない。そう自分の心が叫んでいる。
嵐が過ぎ去ったばかりの大河の畔で倒れていた彼女を見つけたのはクローヴァだった。
行きがかり上助けたとはいえ、厄介な拾いモノをしてしまったとその時は思った。
平時であれば、近くの診療所にでも身柄を預け、役所に通報して終わり
…となるのだが、時機が悪すぎた。
大河の上流にある、いや「あった」カピパラの帝都では今も混乱が続いている。
身元不明の若い娘を任せられる場所など直ぐには見つからなかった。
そこで、つい、意識を取り戻すまで、動けるようになるまで、
行き先が決まるまで…と面倒を見ている内に、思いがけず時が経ってしまった。
そして…ええい、はっきり、認めよう。認めてしまえ。
情が湧いてしまったんだ。それも恐らく、クローヴァの方だけ一方的に。
「まぁ、不幸な過去のある貴方がよ・う・や・く異性に関心を持ってくださった
ことを本来であれば喜ぶべきなのでしょうが。しかし、彼女の場合は…」
「ネチネチと煩いぞ、グラス。別に女に関心がなかったわけじゃない。
寄って来る奴らが揃いも揃って魔女や妖怪、鬼畜の類だったから我が身を守る
ために自衛するしかなかっただけど」
「それも分かりますけれども」
グラスは、元上司の曾孫であり、現上司であるこの青年が複雑な家庭環境の下で
育ったことを熟知していた。曾祖父の何番目かの妻や、祖父の何十番目かの愛人、
さらには義理の伯母やら従姉やら異母姉らに受けた仕打ち。その悲喜劇の数々は
クローヴァ青年をすっかり女嫌いにしていた。哀れなりの一語に尽きる。
「しかし、彼女は“訳あり”ですよ。
側に置くのは、双方にとって危険が伴うのでは?」
「…分かっている」
グラスの忠言が耳に痛い。クローヴァが助けた女性は“カンナ”と名乗ったが
偽名であることは直ぐに知れた。本人は気を付けているつもりのようだが、
名前を呼び掛けても反応が遅いことが時々あるのだ。
しかも、帝都に住んでいた一庶民と言いながら、助けた時に着ていたものは
上質の絹物。河に流された時についたであろう無数の擦過症は別にして、指先も
爪も日々丹念に手入れされた貴婦人のものであった。
そして何より、起き上がれるようになってすぐに髪粉を乞い、腰まであった
艶やかな黒髪を自分でばっさり切り捨てては、派手な色合いの赤毛に
染め変えてしまっていた。
怪しい…どこを取っても怪しさ満載の女性ではあった。
「こちらで果たすべき仕事は全て終えました。
のみならず、帰還が予定より、1週間以上も遅れています。
本当ならとっくにライアンに戻っていて良い頃ですよ」
「分かっている!」
「分かっているなら、どうするつもりかお聞かせ願えませんか。
悪知恵だけはよく回る貴方のことだ。何か策を考えているのでしょう?」
膠着状態にイラついて年下上司と年上部下は互いに声を荒げる。
女嫌いは別として、クローヴァが有能なことはグラスも認めているところだ。
そうでなければ、いくら元上司の曾孫とはいえ危険な職務に協力したりはしない。
「明日の昼にもここは引き払う。皆にそう伝えてくれ」
「彼女のことは?置いていくのですか?どこかに預けていくのですか?」
クローヴァが助けた女性はけっして悪人ではない。
それはグラスにも分かっていた。
少しでも恩返しになればと一生懸命働く姿は健気ですらある。
しかし、“訳あり”はこちらも同じなので、いつまでも一緒にいられては困るのだ。
「…する」
「は、何ですって?」
珍しく口ごもったクローヴァにグラスは聞き返す。
「カンナに求婚する!妻を伴ってライアンに帰国することにすれば、
誰も文句ないだろうっ!」
「はぁあああ?貴方はまた何を馬鹿なことを…!」
グラスの声がひっくり返る。
クローヴァは反論は許さんとばかりに、椅子を蹴って立ち上がるとそのまま部屋
を飛び出した。どうやらそのまま求婚に行ったらしい。
あの調子では階段を降りるやいなや、周囲の目も気にせず自分の途轍もなく無謀で
愚かな計画を実行に移すだろう。
「何ということだ…」
グラスは足に力が入らなくなり、へなへなと床に崩れ落ちた。
直ぐに追いかけて羽交い締めしてでも、後頭部を鈍器で殴ってでも主を止めるべきだ、
そう理性は告げている。しかし、なぜかそれができない。
クローヴァの悲惨な過去を知るだけに、ようやく芽生えた恋らしきものを応援して
やりたいという気持ちがほんの少し。
軟弱そうな外見に似合わず曾祖父譲りの頑固さを持っている青年に今は何も言っても
無駄だという、諦めの気持ちが少し。
残りは、もうどうにでもなれというヤケッパチの気持ち。
口酸っぱく忠告はしてやったのだ。
彼女の指につい最近まで指輪が嵌っていたことに気がついているのかいないのか。
あとは当って砕けろ、というものだ。
*** *** *** *** *** ***
自治都市ライアンから来た商隊を仕切るのはまだ20代半ばの青年であった。
灰色の髪も薄青の瞳。整った顔立ちをしているものの、華やかさはない。
ひょろりとした長身。筋肉隆々の護衛士たちの中に交れば軟弱にも映る。
しかし、その外見はともかくとして、彼は商隊の長として一目置かれる存在だった。
亡き曾祖父の威光には及ばぬものの、50余名からなる商隊を束ねる統率力が
クローヴァには確かに備わっていた。
ウチの隊長はちょっとボンヤリ見えるけど、あれでなかなか決断力あるんだぜ~
ウチの隊長はちょっと弱っちく見えるけど、あれでなかなか実行力あるんだぜ~
ウチの隊長は…以下、略。
隊員から良い意味でいじられ、親しまれ、信頼されているクローヴァは人生初!
とも云える勝算の全く分からぬ挑戦をしようとしていた。
明確な構想なく動くなど一流の商人にはあるまじき愚行であるが、
彼なりに最善を考えた結果である。
「カンナ、突然で済まないが、俺と結婚してライアンに行ってくれ!」
直球である。速攻である。
商隊で貸し切りにしていた町の宿屋で昼食の準備を手伝っていた彼女は
あわや両手に持っていたお盆ごとその上の料理を取り落とすところであった。
「はぁ?クローヴァ様、一体何を…」
“突然で済まないが”と前置きされたとしても突然すぎる。
まずは料理を手近な卓へ避難させ、意味不明の求婚を仕掛けてきた命の恩人に
向き直った。
しかし、外野が多過ぎるのは問題だった。
なにせ食堂には続々と隊員が詰めかける時間である。
「うわ、クローヴァ様、いくらなんでも早すぎ…」
「いきなり求婚って、真剣かよ」
お昼時でざわついていたはずの室内がさっと水の引くように静まりかえり、
次いでひそひそ声だけがそこかしこで交わされるようになった。
色素の薄いクローヴァの瞳が珍しく強い光りを放っていて誰も冗談と笑い飛ばせない。
「あの、クローヴァ様」
命の恩人に向かって伸ばしかけた手をがしっと握りこまれ、カンナは固まった。
「このまま君をこの町に残しておくのも、どこかに遣るのも心配なんだ。
俺の側にずっと居て欲しい」
あまりにも真っすぐな告白に、その場にいたクローヴァを除く全員が赤面ものである。
誰しも自分たちの隊長が女嫌いであることは知っていた。
グラス副長からそれとなく過去の不幸な事情についても匂わされてきた。
だから素姓の知れぬ、とはいえ、気立ての良い娘に我らが隊長が好意を抱く
ようになったというのはまぁ、良い傾向だ、と皆して思っていた。
しかし、出会ってまだ1カ月と少し。付き合いらしい付き合いもなく、
相手の気持ちも事情も碌に確かめずにイキナリ求婚。
極端に走った青年隊長に一同啞然呆然である。
「ちょ、ちょっと、皆さん、すいません。貯蔵庫をお借りしますね!」
それでもいち早く衝撃から立ち直ったカンナが、慌ててクローヴァを厨房の奥に
ある貯蔵庫に引き摺っていき、ばたんと重い扉を閉じた。
「聞き耳立てないでくださいね!」
そう叫んだカンナに、隊員の一人が「へい、姐さん」と返した。
誰が姐さんだ!誰が!と反論する余裕はしかしカンナにはなかった。
*** *** *** *** *** ***
「…で、どういうご事情なのですか、クローヴァ様」
貯蔵庫の扉を閉めるやカンナは強面を作った。
隊員の前では無邪気な町娘を極力装ってはいるが、これまでの人生19年。
それなりに山あり谷あり。いや、それなり、どころではない。
普通の娘ではまず経験できない艱難辛苦も数知れず。
命の恩人である青年に突然謎の求婚をされて固まるも我に返った後はす早かった。
まずは相手の思惑を突き止めるのが先決だ。
「事情も何も。俺はカンナに嫁になって欲しいだけだ」
「ご厚意はありがたく思いますが、無理です」
速攻の求婚に速攻の拒絶を返す。
「無理?なぜだ?身よりがないと言っていただろう?」
結婚の障害となる者はいないだろうという意味で尋ねたのだが、
カンナの眉がきりりと吊り上がった。
「確かにそう言いましたが、別れた旦那と子どもたちがいます。
ようやく縁が切れたところなので、結婚はもうこりごりなのです」
わざとやさぐれた態度で赤く染めた短髪を掻き上げる。
離婚歴あり、子持ちとくれば敬遠するだろ、そう計算して敢えて“真実”を告げる。
「その…子どもたちというのは、今は別れたご主人の元に?
まだ幼いだろうに母親がいなくて大丈夫なのか」
何の心配か、クローヴァは予想外のことを質問して来る。
確かに一人は3歳。まだまだ母親が恋しい年である。
そしてもう一人は生まれて6カ月。まだまだ母親の乳が必要な年である。
クローヴァの声に少しも険しさはなかったが、非難されているような気がして
カンナは少しだけ息を詰めた。
「別れた旦那はともかく、子どもたちの元に帰りたくはないのか君は?」
帰りたくないか…そう問われて、瞼の向こうに幸せだった“家庭”を思い出す。
けれども帰る場所はもはやこの世に存在しない。“あの人”が作ってくれた
彼女のためだけの温かい場所は帝国滅亡とともに消失した。
「帰る場所なんてない、です。
子どもを捨てた酷い女だと思われるかもしれませんが、
“あの人”…旦那様にはちゃんと本妻さんがいますから。本妻さんには
自分の子どもがいないので、妾の子どもでも可愛がってくれていて。
…だから私はいなくてもいいんです」
私はいない方がいいんです。
そう呟いたカンナをクローヴァは力強く抱きしめた。
「済まない。辛い話をさせてしまって。君を苦しめたい訳じゃない。
そうだな、こう考えてくれないか。
これから俺たちは商隊の本拠地がある自治都市ライアンに戻ることになる。
男所帯の隊に、何の理由もなく女性である君を一人連れ帰ることはできない」
「ご迷惑をおかけするつもりはありません。この町でお別れを…」
「そうすると俺はライアンに戻るなり、雨霰と降り注ぐ縁談話の集中砲火を浴びる
ことになる。死んだ曾祖父があちらではそれなりに有名人で、俺自身はともかく、
金と名誉を手に入れたい連中が後を絶たなくて、正直困っている」
「私を…弾よけに使いたいということですか?」
「異国から器量好しで働き者の嫁さんを連れて帰って来たってことにしてもらえば
ありがたい。もちろん、体裁だけ整えてくれれば無体なことはしない」
クローヴァの温かい腕に包まれつつ、カンナはうっとりしそうになる自分を
叱咤しつつ現実的な算段をつけた。
実のところ、この偽装結婚は渡りに船であった。
彼女の遺体が見つからない以上、捜索の手が完全に止むことはないだろう。
生存がほぼ絶望視される状況でも一縷の望みがある限り、“あの人”は諦めない。
けれども自分はもはや“あの人”の側にはいられない。
帝国が滅びた今となってはもはや。
そして子どもたちが無事に生き延びるためにも過去の自分は消さなければならない。
商隊長の妻として自治都市ライアンに入ってしまえば。そして目立たぬように
息を潜めて生きてゆけば、数年は誤魔化せるかもしれない。
「いいんですか?私は“訳あり”ですよ」
「“訳あり”はこちらも一緒だ。承知の上で、俺は君に、カンナに頼んでいる」
「…下心はなしで?」
「うっ、それはある。大いにある。傷心の君に漬け込みたい気は満々だ。
だが、意に添わぬことはしないと約束する。絶対だ」
ふふっカンナの口から笑い声がもれた。
商人として計算高い所もあるはずなのに、正直過ぎるクローヴァの返事がおかしい。
「私は貴方を利用しようとしている悪い女ですよ?」
「それを言うなら、行くあてのない君に恩人顔する俺も相当悪い男だ」
「それでは取引成立ですね。ライアンでも御厄介になります」
「これからも宜しく、奥さん」
すかさず唇を寄せてきたクローヴァに、何をするんだとカンナは鉄拳を見舞った。
ぶりぶりして貯蔵庫を出てきたところで、食堂には隊員一同が勢揃いしていた。
皆、成り行きに興味津津という態度を隠さない。
顎を押さえながら遅れて出てきた隊長は周りの期待に応え、カンナの腰を
引き寄せると高らかに宣言した。
「嫁ができたぞ。よろしく頼む!」
次の瞬間、宿屋には隊員一同の雄たけびが轟いた。
ねぇ、“あの人”を許して、さもなければ忘れて、
別の人生を歩いてみようか。
カンナという女の、別の人生を。
元寵妃、帝国滅亡を機に旦那とも子どもたちとも決別して
セカンドライフをスタートす。早くも変なの(クローヴァ)に捕まって
ますが、まだこの時は己の男運のなさを彼女は知りません。