しるし
「りこ、起きてる?」
仕事の片付けを終えたハカルからメールが届いた。ハカルの夜と、あたしの朝は、こうしてときどき重なる。ハカルの夜は、彼のバーが終わってから、眠るまで。夜明けを撮影するあたしの朝と、ハカルの夜が交差するのはこの時間なのである。ほら、携帯が彼からの着信を知らせる。
「りこ、いまいい?寝てた?」
受話器からきこえる、低くてあまやかな声がみみたぶに染みた。
「ううん、起きてるよ。今日はいい朝だね、空がとうめい」
あたしの報告にハカルがもぞもぞ動く気配が伝わる。しゃっ、と音がして、ハカルは息をついた。
「うわ、まぶしー……俺溶けそう」
毎回のことだ。ハカルは溶けそう溶けそうと連呼しながら、深くとうめいな空をみあげる。これはハカルのあさの儀式なのだ。あたしとハカルを、空が毎日つなぐ。
「ねえハカル」
呼び掛けた。ん、と返事がかえってくる。
「あのね、今日、夕方から時計塔広場でお祭りだって」
なるべく静かに聞こえるように、話し掛けた。
「時計ころりん、買ってくからさ、一緒に食べない? 」
ハカルはすこしだけ沈黙した。窓際にさしこむひかりはまだ熱をもたない。情報窓口の予報通りだ。
「りこ、写真撮るんじゃないの? 」
ハカルの訝しげな声が左耳に落ちる。
「撮るよ。昼間の芝桜と、お祭り。でも、ハカルんとこ飲み行きたい。サクラグラマラス」
「サクラグレイスね、いい加減覚えなよ」
ほんとは覚えてる。
サクラグレイスは、桜の季節だけハカルのバー「Moonriver」で出されるハカルオリジナルのカクテルだ。これ目当てで訪れる女性客も結構多い。桜色がグラスの底へむかって薄くなっていく、とろりとした綺麗なのみもの。甘さは控えめで、それほどアルコールも強くない。あたしのグラスにだけ、ハカルは限定の芝桜蜂蜜をのせる。グラスの上の方の濃いピンクに蜂蜜のオレンジが映えて、あたしは思わずシャッターを押したくなってしまう。とろりとのった蜂蜜をくるくるまぜると、それはやさしい夕焼け色になる。ハカルがお店を開ける頃の空のように。 サクラグレイスのひんやりとした心地を舌に思い浮かべながら、あたしはいじわるを続けた。「あたしのはグラマラスでしょー。夕焼け色だし、あたしグラマラスだし」りこ……、とため息がきこえる。「そんなことばっか言ってると蜂蜜のせてやんないぞ」それは困る。あの蜂蜜は、極度の甘党であるあたしのためにハカルが考えてくれたたいせつな思いやりなのだ。そして、ハカルからあたしへのメッセージでもある。「胸んなか確実に落ちてくあなたでいて」 あたしの恋人はほんとうにロマンチックだ。
なんやかやと話をして、電話を切る。そとの写真をとっていたら、お祭りがはじまっていた。時計ころりん、買ってハカルのとこへいこう。
屋台をぶらぶらとあるく。時計ころりんを橘通りで一袋買ったあと、出店をすこしひやかしてハカルの待つMoonriverに向かった。こつん、こつん。ひとがいないほうへ行くにつれて足音が大きく感じる。
繁華街からすこし離れたところに彼のバーはある。灰色のドアをあけると、間接照明に照らされたカウンターが目に入った。
ハカルに時計ころりんを渡してカウンターにこしかける。ハカルが目のはしだけでわらうこの瞬間がすきだ。スツールに腰掛けると、ハカルがサクラグレイスをだしてくれた。お祭りのせいか、お客さんが少ない。ゆったりしながら、出店で中学生くらいの女の子から購入したレザーのアクセサリーのことを思い出した。バッグから包みを取り出して開封する。「ふふ、かわいー……」かもめのチャームがついた、革紐のネックレス。包みには店の名刺が入っている。鳥雑貨bird、という名前だったらしい。地図がはいっていたので、今度いってみよう、と思う。
ゆらゆらとグラスをゆらしてみる。夕日が溶け出したような液体が綺麗に波打つ。店のBGMは店名と同じMoonriverになっていた。いつの間にか時間が経っていたのだろう、この店の客はあたしひとりっきりになっている。
「りこ」
恋人の声に顔をむける。ん?ときくと、ハカルは黙ってBGMのボリュームを下げた。
「一緒に食べよう」
ハカルがさしだしたお皿に、時計ころりんが盛り付けてある。うさぎのピックを2本添えて。多少さめてはいたけれど、時計ころりんはとても馴染んだ味がして、あたしはハカルと目を合わせて目の奥でわらった。
ハカルと出会って、もう七年になる。恋人になって三年、今年の春も、一緒にいられた。
「目と目、って覚えてる?」
唐突にハカルが掠れた声で囁いた。もちろん覚えてる。もとはといえばあたしがいいだしたことだ。あなたの瞳のうつる距離にいるよ、という主張。覚えてるよ、と言うとハカルの顔が一瞬緊張した。
「…あのとき俺は、りこにとんでもないものをおしつけたんじゃないかと思ってた。りこはいつも俺をみててくれるのに、俺はりこの声をきちんときけているかわからない」
実はハカルの右耳は聞こえない。突発性難聴、と言うそうだ。音楽が、とりわけジャズが好きなハカルはバンド活動をしていて、それを生業にしようとしていた。ある日、ライブの直前のスタジオで聞こえなくなったのだと彼は言う。病院に行くのを後回しにしたのがよくなかった。彼の右耳はもう聞こえなくなってしまった。
なおらないと知って、一時ハカルは自棄になった。もし、両方聞こえなくなったら、どうするのか。ギターはもう弾けないのか。……歌えないのか。ハカルは持っていたギターを全部知り合いやリサイクルショップに売り払った。宝物にしていた、K.ヤイリのAY-65という、ハカルが初めて買ったアコースティックギターも、知り合いの女の子にただ同然で譲ったらしい。
あたしは悔しかった。ハカルがそんなふうに自棄になってしまうことも、すきなものをきらいだと言い張るようになったことも。もしもあたしが、目がみえなくなったら、写真が撮れなくなったらどうしよう。考えるとぞっとした。ハカルはそんな闇のなかにひとりでいるんだ、と考えたらどうしようもなくて、あたしは彼のバーに毎日通った。そばにいるよ、と無言の主張をこめて。
そんなときにある噂を耳にした。「夜が明けて時があまり経っていないひかりを毎日浴びると、病がよくなる」あたしはこの噂をハカルがそれとなく耳にするように、常連のお客さんに店内で噂してもらったり、インターネットの掲示板に書き込んだりした。程なく、ハカルはあさの儀式をはじめるようになった。目と目、というキーワードをあたしたちが使いだしたのもこの頃だった。
回想にふけっていると、かたん、と音がして我にかえった。ピックを置いた音だ。ハカルは、なんだか苦しげな顔をしていた。
「ねえハカル、あたし、そばにいるって言ったよ?すきでここにいるの。それは負担とは呼ばないの。ハカルはあたしのことばを、聞こうとしてくれるでしょ」
不安なら。
「不安なら、いまあたしの目をのぞいてみる?」
バッグから「あたしの目」と呼んでいるカメラを取り出した。仕事用のフィルムカメラではなく、プライベート用のちいさなトイデジだ。電源をいれてハカルに手渡す。中に入ってるのは、ハカルのすきなお菓子、一緒にみたい景色、Moonriverの近くに咲く花。このカメラでハカルをとったこともある。見せたことは今までなかったけれど。
一枚一枚写真を表示させるハカルは、ある一枚で手をとめた。薄紅色の可愛い花が球のカタチに集まった花。沈丁花、だ。
「りこ、……これ」
「そうだよ、沈丁花、今年の。」
花言葉を知ってる?と問い掛けると、ハカルはふわりとはにかんだ。
「永遠……」
「そうだよ、それがあたしの目」
息をすぅ、と吸い込んだ。
「ねえ、ハカル」
「待って」
遮られた。
「りこ」
真剣な目が、あたしをとらえる。
「川にうつりこんだ月の道も虹も、結局は消えるし、りこもいつかいなくなるかもしれないけど」
BGMが、とぎれた。
「俺は頑張って時間を持って逃げるから、だから、あの頃じゃなくてこれからを一緒に生きてほしい」
泣きたい。
「それはこっちの台詞だバカ」
思わず、バカ呼ばわりしてしまった。あの頃より今を選んだ彼が愛しかった。水面に波打つ月も花火もみんな飲み干してしまいたい。そしたら永遠にあたしの中で生き続ける。
「今のも可愛いけど、俺はちゃんとした返事が聞きたいんだけど」
ハカルはくすくすわらいながら、あくまでも答えを要求する。息を、吸い込んで。
「うん、一緒に生きる、ずっと」
吐き出した。
「時計塔に誓える?」
「もちろん。時計塔にかけて」
時計塔にかけて、というのは、街に住む住民が古くから使っている、約束の誓いだ。ハカルは安心したように息をほうと吐いた。
「俺も、時計塔にかけて」
約束は、成立した。時計塔がみている気がした。
***
あれから三日後の火曜日、とても晴れた日。あたしは黒い服でハカルの告別式に参列していた。花に囲まれて横たわっているハカルは、顔だけ見れば寝ているみたいだった。
Moonriverはハカルの従兄弟がつぐことになりそうだ。彼のハックルベリィ・フレンド。あたしもMoonriverの手伝いに入ることになるらしい。よく、わからない。
あたしはひたすらぼんやりしていた。ハカルが、いなくなった?二度と会えない?信じられるわけがなかった。そんな永遠は望んでいない。
告別式にはハカルがアコースティックギターを譲ったあの子も来ていた。あたしはどうしようもなくなって、ハカルのギターを見せてほしい、と彼女に懇願した。ハカルのにおいのするものをひとつでもみたかった。
彼女はカナという名前だった。路上で歌を歌っている子らしい。告別式の帰り、Moonriverの事で決めることがあるからとハカルの従兄弟と連絡先を交換し、カナさんのマンションに押しかけた。ハカルのギターは、ソラフグの革を使った高級そうなケースに大事そうにしまわれていた。
「ハカル先輩、りこさんの事すごく気にしてました」
ギターをそっと取り出しながら彼女は言う。
「ここ、みえます?」
彼女はギターのサドルの下を指差した。R&H、と小さなスタンプがさりげなく押してある。
「これって…? 」
「譲っていただいた時にはもうありました。先輩、いつもりこさんの話してたんですよ。ほんといろいろ」
カナさんはふふ、と微笑んだ。
「ねえカナさん」
たまらなくなって切り出した。
「そのギターで、なにか歌っていただけませんか」
カナさんは一瞬驚いたようだけど、そのままギターを構えた。流れてきたのはMoonriverのイントロだった。彼女は歌いだした。そのとうめいな声は朝の空のようだった。唇からメロディーがこぼれる。あの虹のむこうできっとまた会えるね……。涙が、つたった。一度流れた涙はとめどなくて、あたしの頬も心も濡らしていった。
気付いたら彼女も同じように泣いていた。ぽろぽろ泣きながら歌って、ギターが最後のフレーズを奏でたとき、カナさんとあたしは目を合わせて同時に泣き笑いをした。カナさんはあたしとカナさんとのまんなかにボックスティッシュを置いた。
「すみません……」
なんだか恥ずかしくて、だけどなんとなく気持ちが落ち着いていた。あたしは二度とハカルには会えない。声を聞くことも触れることもない。夕焼け色のサクラグレイスも、カウンターの向こうの彼も、もういない。永遠は過去のものだと今更わかった。あたしがいくら生きてももうこんなに色づくことはきっとないだろう。
あの日、渡しそびれたかもめのネックレスを首にかける。
ハカル、時計塔にかけて、だいすきだったよ。