第四章《慟哭》:ANOTHER SIDE(2)
凍り付いたのは空気だろうか、時間だろうか。死んでみるか、そう動いた小さな唇は今日の天気を問うように軽い。
先に動いたのはサブナックだった。逡巡の後、ゆっくりと拳銃から手を離す。一瞬で自由の聞かなくなってしまった手足に、これ以上何を命じようとも無意味だったのだ。
彼はその一瞬で悟っていた。否、気付くのが遅すぎたのかもしれなかった。
敵う相手では、ない。
「冗談だよ……貴方を殺しちゃったら、伝言してくれるひとがいないじゃない」
笑った少女は酷く綺麗だった。その儚い笑みに再びサブナックは既視感を覚える。体を内側から押しつぶされるような、この感覚。もう忘れてしまった、忘れようとしていた昔に。
(ああ、そうか)
なんて巡り合わせだろう。静かに呟いてサブナックは目を伏せた。
この世のなんて無情なことか。目の前にいる少女の力は、彼女自身を滅ぼしてしまう強さだ。そうをサブナックが感じ取れるのは、彼自身が少女のような人間を過去に見ていたからだった。
そのまま目を閉じて想う。こんな風に諸刃の剣を掲げていた人間を、俺は。
「……お前の生き方は、間違ってる」
「何故そう思うの?」
少女のいらえは心底不思議そうだった。切なげに眉根を寄せたサブナックは、思い浮かんだ過去に思いを馳せる。
――彼にもかつて、カーマロカ所属を決定づけた出来事があった。“あの日”以来ずっと、彼は己の正義を信じて生きてきたのだ。それは祈りにも近い、ただ一つの。
「人には、進まなければならない道が――踏み入ってはならない道があるんだ」
今日まで彼を突き動かしてきたのはその信念だけだった。正直な話、カーマロカという組織自体に彼が特別な思い入れを持っているわけではない。彼が組織の中で関係を持つ人間といえば、ユリシーズぐらいのものだからだ。
説得の効く相手ではないだろう。わかっていてもなお、サブナックは言葉を止められなかった。少女の声を聞く度、その目を見る度に、悔いたはずの過去や消えたはずの痛みが止まることなく甦ってくるのである。
それは贖罪か懺悔か、わからなかったけれど。この闇色の少女を救いたいと思っていることに、青年は気が付いた。
「……考えろ。お前の生きている道は、本当に正しいか? 人間として、」
「正しくなかったら」
少女の唇が、美しい弧を描いた。長い睫毛に縁取られた瞳がすっと細くなる。
「それが、何?」
「……っ! お前は……!」
自分は何をしているのだろうと頭の隅で青年は思う。このまま会話を続けるのは危険だとわかっていた。いつ少女の気が変わって、彼の命を奪わんとするかもわからない。
しかし彼には少女をこのままにしては置けなかった。過去の経験が、彼を突き動かしてきた後悔の念が言葉を紡ぐ。少女の道を正せと、彼に命令するのだ。馬鹿げた行動をしていることぐらい、とうに気が付いていた。
(……させて、たまるか)
サブナックは声を荒げる。なんとしても少女に、自分の話に耳を傾けてほしかった。
“あいつ”の二の舞を、させてたまるか。
「もう止めろ。こんな生き方をしていたって、人間は幸せにはなれないんだ……!」
「人間じゃないって言ったら?」
「人間だ!! お前はこのまま一生こうして過ごすのか? 光の下に、戻ろうともせずに、ずっと、」
「ひかり、」
ことりと首を傾げた少女の、動きが不意に止まる。闇色の瞳がぐらりとひとつ揺らいだのを見て、しまったと思ったときにはもう遅い。サブナックに向かって、刺すように少女の声が弾けた。
「――光なんて、最初から無かった……!!」
路地裏いっぱいに響き渡る悲鳴じみた音、びりびりと震える空気。余韻を存分に残したそれがおさまり始めた頃、少女がはっとして叫び声をあげた自らの口を塞いた。
サブナックはそのまま俯いてしまった少女の方へ歩み寄る。声を荒げたことなど久しかったのだろう、黒髪を揺らしてただ佇む彼女は、脆く儚く見えた。
(……どうして)
青年の顔が痛ましげに歪む。こんな少女が、どうして。どうしてこんなふうに、こんな世界で。
「……来ないで」
震える声にサブナックは歩を止めた。視線を向ければ、少女はこちらに自虐的な笑みを浮かべる。それは彼女が初めて見せる、感情の色だった。
「せっかく、我慢してるのに。来たら本当に、殺しちゃうかもしれないじゃない……」
「お前――」
「……本当は」
少女は笑んだ。無理矢理笑顔を作っているのが痛い程にわかる。切なそうに歪められた瞳の奥だけが、笑顔と同化しきれていなかった。
「本当は、すぐにでも殺しに行きたかった。初めて出会ったときに殺しておくべきだった。……なのに私は古い約束に縛られて、今を失うのが恐くて――そして大切なものを奪われた」
少女はそっと目を伏せる。閉じられた目蓋が僅かに震えていた。泣くのだろうか、とサブナックは思う。けれどその瞳から雫が零れ落ちることは、終ぞ無かった。
「恨んではいないわ、悔しいだけ。だって私が弱かったせいだもの」
悲しいっていうのは、よくわからなかった。
言いながら少女が果敢なく笑う。だってわたし、にんげんじゃないの。
「人間って酷い生物だと思わない? 狡くて汚くて、いつも自分が綺麗で可哀想だと思ってる。弱いくせに蔓延って、まるで世界の中心みたいに振る舞うのよ」
それでも、と。か細く消え入りそうな声で。
「ヒトであれたら良かったと、考えたこともあった……」
「――なんで、」
何でそんな切ない笑顔で、そんなことを言うのだと。サブナックは叫びだしたい衝動に駆られた。まるで自分は本当に人間ではないかのような、そんな言い方を何故。
同時に、あの少年と出会った日のことを思いだす。目の前少女は皮肉なほどに、ユリシーズと似ていた。
――ねぇ、お前は僕が人じゃなくても、傍にいてくれる?
「馬鹿だよね。もうとっくに受け入れたつもりでいたのに――約束に縋っていたかったの。きっとまだ私は、『ヒト』でありたかった」
失うまで忘れていたのだ、と少女は笑った。彼女は笑みを崩さぬまま語る。
わたしには このせかいがあるだけで しあわせだったのに。
「光なんて最初からなかった。私には仲間と過ごしてきた闇だけが全てだった。それは私にとって光より、ずっとずっと暖かくて」
喪くしたくなんて、なかった。
少女は祈るような仕草で胸に手を当てる。何かをひどく悔いているように青年には思えた。
――覚悟は、できていたのに。そう呟いた声はあまりにも小さくて、サブナックまでは届かなかったけれど。
サブナックが黙りこくっていると何を思ったのか、今日は反省を兼ねて一人で来たのだと少女は告げた。
それに苦い視線をやりながら、彼女をこんなにも追い詰めたものは何なのかと青年は思考を彷徨わせる。
答えなど出るはずはなかった。けれど何とかして、彼は少女を理解したかったのだ。
「お前の生き方は、いつか自分に牙を向く」
「構わない」
少女は頑なだった。なんて、歯痒い。サブナックは唇を噛み締めながら思う。
(……もし、)
もしも、だ。少女の伝言の先が仮にユリシーズだとしたら。あの少年は、彼女に何をしたとのだろう? 少女の逆鱗に触れるようなことを何か、しでかしたというのだろうか。
そこまで考えて青年は再び唇を噛んだ。ユリシーズならばやりかねないと気が付いてしまったのだ。
「何が、あったんだ」
切れてしまったのか血の味がする口内から出たのは、余りにも陳腐な問いかけだった。それに少女はゆるゆると、静かに首を横に振る。
「何も」
「じゃあ、どうして……!」
どうしてそんな生き方をするんだ、と。問い掛けたその先で微笑む少女は、ただ悲しい影を落とした。
「――何も。何もないわ。この世界を変えるようなことは、何一つ」
その自らを嘲るような笑みにサブナックの胸が鈍い音を立てて痛んだ。
底知れない闇と強さ、純粋な脆さ。アンバランスなこの少女は、壊れかけた世界の縮図のようだと思う。
サブナックは淡い笑みを浮かべ続ける少女に手を伸ばした。そうせずには、いられなかったのだ。
「……やめて、」
少女の表情が一変する。鋭い眼光の奥で何かが震えた。
「……殺しちゃうよ」
「できないんだろ」
青年はその動作を止めなかった。止められなかった。
彼女はあまりにも悲しく弱い存在だと、漠然と彼は思う。これが自分のエゴだとしても救ってやりたかった。そして少女は、何よりも似ていたのだ。
サブナックが遠い昔に失った大切な――――たいせつだった、ただ一人の。
「……来ないでって」
青年の指先が、少女の白い頬に触れる。
「―――言ってる、じゃない……っ!!」
――瞬間、何かが爆ぜたような音が響き渡った。
サブナックは咄嗟に少女から手を離しその場を飛び退く。同時に目の前から映像が消え失せた。
「――っ! 何だ!?」
出所のわからない衝撃に体を襲われて鼓膜が震える。同じくびりびりと振動を伝える空気。少女が居るであろう場所から煙が立ち昇り、視界が白く霞んでいた。次いで、焼け付くような熱と湿気が青年の喉の奥まで流れ込む。煙に触れた体の部分が僅かな水気を帯びた。
……これは、
「水蒸気か――?」
少女は何処にいるのだろう。サブナックは遮られた視界の中で必死に目を凝らすが、すぐにそれは無駄な努力だと悟る。仕方なく掌で煙を扇ぎ、なんとか視界を取り戻そうと躍起になった。そうしているうちに白い煙――霧と言うべきかもしれない――は徐々に薄くなり、やがてはっきりと辺りの物を確認できるまでになる。
「……何なんだ、一体」
開けた視界の中で、サブナックは目を瞠った。
――爆心地に少女の姿はない。今だに僅かな熱と蒸気を吐き出すそこにあったのは、クレーターの様に大きく陥没したアスファルトの地面だったのだ。ぬらぬらと光沢を放つその場所はまるで溶解し、蒸発してしまったかのような。
*
「くそ……っ! どうなってる」
悪態を吐くのは本日何度目になるだろうか。
あの後サブナックはいなくなった少女の行方を探し続けたが、彼女の姿は一向に見つからなかった。まさに文字通り、消えてしまったのである。
その代わりのようにただ一つ、サブナックが見つけたものがあった。それは。
「……やられた」
少女と彼が話していた場所から百メートルも離れていない場所だった。
サブナックの目の前には今数十人分の骸が転がっている。無残に散らばっている多数の銃器や刃物は、“これ”が今日サブナックが押さえる予定だったマフィアの一味で間違いないだろうことを示していた。地面に臥している死体は、揃いも揃って綺麗に腰から上が存在していない――サブナックは我が目を疑った。
切り離された胴と頭はどこにも見つからない、完全なる消失。人間の為せる業では、ない。
「何の冗談だ……?」
腰から下だけになった大量の死体は、普通の殺戮現場を目にするより数段グロテスクで悪趣味だとサブナック思う。仕事柄、人の死を目にすることが多い彼でさえ辟易してしまいそうだった。体の切断面が溶かされたような光沢を放っていることに気が付いてぞっとする。この溶解したようなぬめりは、先刻までサブナックがいた場所の、成れの果てに良く似ていた。
『お仕事……かな』
まさか、あの少女。
思い出してサブナックが驚愕に目を見開いたのと同時、彼の背後から突如凛とした声が響き渡った。
「――――驚いた?」
澄んだ少女の声。
瞬時に振り返ったサブナックを、鋭く透明な瞳が捉える。
「はじめまして」
「お前、は……?」
サブナックの探していた黒髪の彼女では、ない。現れたのは美しいブロンドに碧い瞳をした少女だった。服だけは黒髪の方が着ていた物と同じ、全身黒で統一されていたのだが。
突然の来訪者にサブナックは眉を寄せる。次から次へと、今日という日は一体。
「貴方、お名前は?」
「……何故聞く」
別に、と少女は口元を弛める。大きな瞳を縁取る長い睫毛のせいか、その顔立ちはアンティークドールを連想させた。
形の良い唇がうっすらと開かれる。隙間から、白く並んだ歯列がちらりと覗いた。
「私は、ミク」
ブロンドの少女は唐突に名乗る。それに反応を返せないまま、黒髪の少女の名を聞かなかったことを今更サブナックは思い出した。
「M.I.C.K.で“ミク”よ」
「“Mick”……?」
呟いて、青年は僅かに眉を寄せた。次いで脳内の記憶に検索をかけてみる。もう久しく聞いていないが、それは差別用語ではなかっただろうか。何故そんな名を。
「ねぇ、名前教えて」
「……サブナック」
「あら」
聞くと少女――ミクは、素敵ねと笑みを浮かべた。丸い硝子玉のような目がすっと細められる、その表情はあの黒髪の娘に良く似てる。
「序列四十三番、地獄の大侯爵ね」
「……関係ない」
苦い顔で答えながら、しまったとサブナックは思った。相手が名乗った手前つい名を明かしたが、つまりはまんまと乗せられてしまったのだろう。悔やんでも時既に遅し、である。
「気付いてると思うけど“それ”、あの子が殺ったのよ」
ミクはサブナックの足元を指差した。足元に転がる数多の死体。あの子、が誰を指すのか、瞬時に青年は理解する。
「……お前、仲間か」
「そんな感じ」
少女のヒールがコツリと音を立てた。それは路地の壁に反響し、やがて闇に吸い込まれてゆく。
「お前達は何者だ?」
「教えると思うの?」
クスクスと笑い声を零しながらミクはゆっくりと青年に歩み寄る。またこのパターンだ。サブナックは憮然とした表情を浮かべてそれを見ていた。今日は厄日だ、と心で呟きながら。
「本当に厄日ね。同情しちゃう」
少女の言葉にサブナックはぎょっとする。知らぬ間に声に出してしまっていたのだろうか?
「ここにいるマフィアね、私達の組織をしつこく狙ってたの。今日ここに集まるって聞いたから、なら消させてもらおうと思って」
教えない、と言っておきながらそんなことをさらりと言うミクに青年は目を白黒させる。
(――組織?)
やはり彼女達は裏社会の関係者なのか。確信を得たサブナックは真直ぐにミクを見据えた。
「ルカは強いよ。殺されなくて良かったわね?」
「――ルカ?」
問い掛けるとミクはにこりと笑った。この娘もまた十代なのだろう、いとけなさを残した無垢な笑顔で。
「あの子の名前。貴方、知りたかったんでしょ? 大切な人に雰囲気が似てた? 喪った人間の面影は追いかけたくなるものよね。でも意外とルカはお喋りだから、“彼女”とは少し違うかも」
「……何、を」
何を、言い出すのだ。
サブナックは突如饒舌になった目の前の少女を凝視した。
何故ミクはそんなことを言うのだろうか。そんな、誰も知らないはずのことを。彼女の口に出した事は、ユリシーズでさえ知らぬはずのサブナックの過去だったのだ。
「お前、一体――」
「ちゃんと伝えてね、ルカからのメッセージ」
ミクはもう一度サブナックに笑いかけると彼の腕に触れた。細い指が彼の皮膚を滑る。
来るなと言い放ったルカとは違う、積極的に近寄ってきた少女の眼には考えを読み取らせない碧が漂っていた。
「ねぇ、私の名前覚えてる?」
「……ミク、だろ」
一体何のつもりだ、サブナック言い掛けたのを遮ってミクは続ける。彼女の表情が視界一杯に広がった瞬間、サブナックは眩暈を覚えた。
「 じゃあ、今から全て忘れてくれる? 」
ぐわん、と声がこだまする。周囲の景色がぐんにゃりと揺らいで回転した。
少女は笑って、わらっていて、
――――それから?
*
青年は一人薄暗い路地を歩いていた。暫らくの間黙々と歩を進めていた彼は、突然はたと立ち止まる。
(……?)
おかしい、と呟いた。今まで自分が何をしていたのか、全く思い出せないのだ。
今日はどうしてここに来たのだろう? 任務が入っていた覚えはないし、ユリシーズに買い出しを頼まれたような記憶もない。
「……夢遊病か?」
言ってみてから馬鹿馬鹿しくなった青年は、自らの居場所へと帰ることにする。衣服のポケットから取り出した煙草の箱の中身が、気のせいか減っているような気がした。
「あぁそうだ、ユリシーズに伝言が」
――あったはずだった、と彼はひとりごちる。
その内容ははっきりと覚えているのに、『誰からの』伝言なのかは全く思い出せなかったけれど。
(誰も知らない邂逅が一つ、永遠に失われた)