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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:ANOTHER SIDE(1)


「こんばんは、お兄さん」

「……あ? ああ、どうも」


何時から目の前に立っていたのか、その人影にサブナックは目を見開いた。柔らかな高さの声に話し掛けられて胸中首を傾げる。こんな場所に、どうして。

年の頃は十八前後だろうか。この荒れた裏路地にいるにしては不自然な、綺麗な身なりの少女だった。全身黒で統一された服。長いコートもその下から覗くスカートも、飾り気の無いデザインながら質の良さが見て取れた。その上を流れる長い髪、瞳の色も共に漆黒。このまま闇に溶けて消えてしまいそうだ。

まさか声を掛けられるとは思いもしなかった、まずいな、とサブナックは思う。仕事の時間が近付いているのに。


「ねぇ、少しお話しない?」


少女は一歩ずつ、ゆっくりと青年のほうへ歩んで来る。やがてその足は、彼まで十メートルほどの位置まで来るとぴたりと止まった。妙に開いた距離に居心地の悪さを覚えるが、少女のほうは気にする様子もない。透けるような白い肌、それを佩した細い手足だけが夜闇の中で鮮やかだった。


「ここで、何をしてるの?」

「あ――……そうだな」


丸い瞳がゆるりと瞬く。言葉を紡ぐ小さな唇はどこか幼さを感じるのに、その黒の奥ははっとするほど妖艶だった。

少女の問いに生返事をしながらサブナックは頭の隅で思考する。ここはもうじき戦場になるだろう。この辺りを根城にするマフィア(ギャング団と言うほうが適切かもしれない)同士の抗争が起こるのはずいぶん前からわかっていたことだ。彼はその現場を押さえるために来ているのであって、このような少女を、一般人を巻き込むわけにはいかないのである。


「……仕事、みたいなものだ。君こそ何してる」

「私? ――うん、私もお仕事……かな」


小さく笑みを浮かべながら少女は言う。

そうかと相槌を打ちながらサブナックは、それとなく彼女をこの場から引き離せないか試みることにした。迂闊に真実は告げられない。彼の任務も所属組織も、極秘のもとに在るのだから。


「この辺りには何もないぞ。物騒なだけだ――早いとこ帰ったほうがいい」

「でも私、お兄さんとお話がしたいの」


彼の言葉に、少女は可愛らしく笑うだけ。

なかなか肝の座ったお嬢さんだ、とサブナックはひとりごちる。しかし彼には本当に、彼女の相手をしている時間はない。


「あー、何ていうか、あれだ。ここ危ないんだよ。悪いこと言わないから帰ったほうが良い。お嬢さんみたいな一般人の来るところじゃない」


いつ銃撃戦が始まるかわからない。サブナックは焦りを感じながらも、平静を装って少女を諭した。下手に真実を教えてれば、余計な不安をあおってしまう可能性もある。


「お兄さんは危なくないの?」

「俺は仕事だ。悪いが忙しくなるんだ――付き合ってる暇はない。わかるか」


けして気の長いほうではない彼が決断するのは早かった。これ以上少女が居座るようなら、力ずくでも追い払う。

一般人は巻き込まない、標的以外に危害は加えない、それがサブナックの主義であり正義だった。暴力的だとしても正義を語り続ける、青年のなけなしのプライドがかかっている。

多少荒っぽくても仕方がない。サブナックはそう心に決めて口調を強めた。


「帰れ」

「どうしてそんなに急いでるの?」

「どうしても、だ。いいから早く、」

「大丈夫よ」

「駄目だ」


さらり、首を傾げた少女の黒髪が揺れる。幼さを残した輪郭に黒檀の糸が流れ落ちた。ぬばたまの瞳が静かに、音もなくサブナックに向けられる。それに射抜かれた瞬間、青年の頭に何かが過ぎった。


(何だ?)


自分はこの目を知っている。それはデジャヴュに似た感覚だった。何か思い出しそうな、何か似たようなことが以前にも。

この目を、どこか、で、


「……マフィアなら、来ないわ」


サブナックの思考が停止した。

薄紅の唇から零された、言葉の意味を理解するのに時間が掛かる。


「………、お前……何で知ってる」

「言ったでしょう? 私もお仕事だ、って」


クスクスと笑う少女がただならぬ気配を持っていることに、サブナックはここで初めて気が付いた。最初から異質な空気を纏ってはいたが、これはそんなものではない――背筋が、凍り付くような。

漸く悟った、瞬間もう手遅れであることに気付いて青年は自嘲気味な笑みを浮かべる。


(……ああ、酷いな)


目の前の少女が纏う、これは殺気だ。

禍々しい怒気と怨嗟の念の収斂した、確かな色を持って。


「……何者だ、お前」


低く、唸るように発された彼の言葉に少女が答えることはない。行儀良く指先を重ねていた手をすっと下ろし、彼女は改めて青年に向き直った。


「――言付けを、お願いしたいんです」


言いながら少女が一歩前に出たが、サブナックは動かなかった。ほんの僅かに縮まった距離の分、空気の重みが増したような錯覚に捕われる。


「……質問に答えろ」

「伝えてほしいことがあるの」


柔らかな笑みを浮かべたまま、少女は言葉を繰り返す。青年の主張は受け入れない、それは無言の拒絶だった。

何故、最初に気が付かなかったのだろう――サブナックは己の甘さを呪った。

考えてみれば何もかもが不自然だ。こんな場所にたった一人で、仕事、なんて。可能性があるとすればそれは、同業か敵かに他ならない。


「答えろ……!」


サブナックが声を荒げた瞬間、ひゅ、と風を切るような音が聞こえた気がした。

微かな空気の振動が耳に伝わる。それにサブナックが目を見開いた、刹那前方にいたはずの少女が青年の視界から消え失せた。


「……死にたくなければ」

「――――!?」

「そのまま、聞いてください」


驚愕と混乱で時を止められる。気が付いた時には、長い黒髪が彼の視界の端で舞っているだけだった。

少女がサブナックの傍らに立っている。あの距離を一瞬で詰められた、そう悟ったときには全てが終わった後だ。少女は上着のポケットに突っ込まれていたサブナックの手を、彼が密かに握っていた拳銃ごと押さえ付けていて。


「……っ」


やられた、と思った。こんな小娘に。

靡いた黒髪の香りが青年の鼻を擽った。シャンプーだろうか、その柔らかな芳香に混じった火薬と血の残り香。それに気付いて眉をしかめたサブナックに、少女は小声で囁く。


「下は見ないで」

「何を……、……っ!?」


ごぽ、と水が溢れるような音が聞こえた。その異常な気配に全身が総毛立つ。――サブナックの足元に、《何か》が存在している。

ごぽり、ごぽりと音を立てながら《それ》はゆっくりと彼の足元に絡み付いた。軟体動物に触れられているような、触手が這い上がって来るような感覚。ゲルのような曖昧な弾力と僅かな水分、無機質な冷たさ。


「動いたら、殺します」


《それ》がゆっくりと脈打っていることに気が付いたサブナックの、背中を生温い汗が流れていった。生き物のように蠢いてぎゅうと足を締め付けられる、こんなモノがこの世に存在して良いのだろうか。

体を強ばらせたまま抵抗することを放棄した彼に、よく聞いてね? と少女は無垢な笑みを向け首を傾げてみせる。可愛らしい仕草とは裏腹な彼女の声の冷たさに、サブナックが気付かぬはずはない。


「――私が、人間を殺すのは」


暫しの沈黙の後、少女が口火を切った。サブナックよりずっと背の低い彼女が彼に密着する形になれば、自然青年から少女の表情は見えなくなってしまう。


「“仕事”の時だけなの。私はその為に、ロヴの夢と目的地の為だけに在るから」


黒髪の少女の口から零れた、その名は聞き覚えなど無いものだった。慈しむように唇に乗せられた様子から、彼女の身内か恋人なのかも知れない。

真実などわかるはずもなく、また思考する余裕さえも与えられていないサブナックはただ黙って続きを促した。少女に気圧されないように、暗に自らを叱咤しながら。


「前は違ったのだけど。本当ならね、他にもいっぱい殺してたわ。いつも、たくさん。今もそうしているはずだった」

「……何の、話だ」


昔話よ、言って少女は笑う。いらないものは全てこの手で消してしまえた、まだ幼かった頃のお話。


「……でもね、約束だから」

「約束……、?」

「私怨や癇癪や、気紛れではもう殺さないって」

「……?」

「グラモアとの約束だから、大切な……私、守らなくちゃいけない」


グラモア。再び耳に入った見知らぬ名前をサブナックは口の中で繰り返す。何故だろう、彼にはその響きに覚えがあった。

よくある名前だとは言い難いが、けして珍しいわけでもない。聞いただけでは姓なのか名なのかさえわからないが、それでも彼はこの音を知っているような気がした。

サブナックは眉を寄せて空を睨み付ける。くそ、なんだっていうんだ一体?


「――だから。だから私は、『貴方の前には現れない』って伝えてほしいの」

「……誰に、だ」


話が全く見えなかった。少女の話も意味も、彼女が言葉を伝えたい『貴方』とやらも。


(――こいつも、)


こいつも同類だ。

サブナックは唇を噛み締めた。あの少年と同じ空気を持っている。何を考えているのかまったくわからないのに、はっきり見えるその闇は色濃く深い。こんな幼さを失い切れていない少女が、そうやって……そうやって。


「……まさか、お前……?」


ふと沸き上がったモノに青年は眉をひそめた。

待ち人がいる、と言ったユリシーズ。駄々をこねたサブナックのパートナーが執着していたもの。そして今、少女は何と言ったか?


(……“貴方の前には現れない”?)


まさか、と彼は思う。嫌な予感ほど良く当たるとは言うが、これほどまでにハズレていることを願ったことは未だかつて無かった。同時に、やはり、という確信めいたものまで感じてしまう。ユリシーズの待ち人とは、まさか。


「それからもう一つ――」


少女の言葉に青年の思考は再び途切れた。残ったのは、脚にまとわりつく異物の不快感。


「――もしも貴方がつまらない私情なんかじゃなくて、最初から“私たちの敵”として現れていたら」


少女が頭をゆっくりと持ち上げる。さらりと流れる髪や頬に影を落とす睫毛に目を奪われた。刹那、視線が絡め獲られるような錯覚を覚える。闇を閉じ込めたような瞳がサブナックを捕らえていた。

いとけなさを残す、けれど怜悧なかんばせが彼を仰ぎ見る。逃げられない。


「……出会った瞬間に、殺してた」

「……ッ!」


戦慄が走った。再び全身が総毛立つような感覚に襲われよろめいた青年の、胸の辺りを少女がトンと叩く。するとふっと空気が和らいで、にこりと少女は笑みを向ける。


「ごめんなさい。貴方を殺すなんて嘘」


彼女がゆるりと一歩退くと、青年の脚を締め付けていたものが僅かにゆるんだ。相変わらずの水音のようなものに混じり、時折聞こえるのはぐずぐずと何かが煮崩れる音。不安を掻き立てるようなそれに、サブナックはまだ一瞬の油断も許されなかった。


「私は此処に仕事で来たけれど、貴方との接触は個人の行動だから――殺せないの、本当は」


でもこうしないと、お兄さんは話を聞いてくれないと思って。申し訳なさそうに首を竦めてみせながら少女は笑う。

先刻迄の殺気は嘘のように消え去り、そこにいるのは一見常人と何ら変わらぬ彼女の姿だけだ。ただ、嵐の前後の細波を見ているような焦燥感だけは拭い去れなかった。


「二度と現れない。会わない方が、良い。だってもしまた出会ってしまったら、何するかわからないもの。……私がね」

「…………」

「――伝えて、くださいね」

「……待、て」


凪いだ声で告げた後自分に背を向けた少女を、サブナックはやっとの思いで引き止めた。絞りだした声は情けなく擦れていたが、少女はそれに応えるように足を止める。


「お前が何者なのかは知らない」


サブナックは再びポケットの中の拳銃を握り締めた。静かに呼吸を整えながら、弾丸が篭められていることを確認する。


「……だが、一つわかるのは――俺はお前を、見逃すわけには行かない立場の人間だということだ」


言動からして、少女は恐らく裏の連中と何らかの関わりがあるのだろう。今日ここに来るはずだったマフィアと『仕事』として関係をもっている、その可能性は高い。即ちそれは――排除すべき、悪なのだ。


「ああ、なるほど……お兄さんは私の敵ってことね?」


少女の声が響く。

無言で肯定しながら、マフィア達はどうなったのだろうとぼんやりサブナックは考えた。仕事としてこの少女と関わった後、予定していた取引や予想されていた抗争は止めて引き上げていったのだろうか?

少女がくるりと青年を振り返ったことによって、思考の海に沈んでいたサブナックは引き上げられた。

小首を傾げた少女の淡く開いた唇から落ちたのは、ぞっとするほどに感情を失った。


「じゃあ、死ぬ?」


冷たい、声。



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