第四章《慟哭》:間話‐Purgatry‐
某国某所。一見冗談のような高さの崖の上、立ち聳える巨大な洋館に響く、声。
「いーやーだっっ! 行かないったら行かない」
柔らかなアルトは語尾を弾ませ、まるで幼い子供のようだった。事実彼は“子供”である。ただし、“普通の子”ではないのだが。
「……仕事なんだから仕方ないだろう。ガキかお前は」
「サブに比べればね! ってわけで僕はガキだから、今日はこの部屋から一歩も出ないよ。人手が足りないならダモンかピュティアスを貸してあげるから」
しっしっ、少年が白い掌で追い払う仕草をする。手にした煙草をくゆらせながら青年は盛大な溜め息を吐いた。
まったく、こいつは。
「あいつらはお前の命令しか聞かないじゃないか――なんだ、今日は何かあるのか?」
問われて初めて、銀髪の少年はにこりと笑う。無垢な笑顔の裏に隠されたモノに気が付いて、青年は眉をひそめた。聞くんじゃなかった、思ってももう遅い。またこの子供は、碌でもないことを言いだすのだろう。
「待ち人が、いてさ。来てくれるかもしれないんだよ」
ふわりと笑った笑顔の奥でちらりと焔が揺れた。淡い髪の色とは正反対の深い漆黒に包まれた、細身の体躯が深紅のソファーに沈む。
考えを読ませない、本音はけして語らない、強情な唇に執着の色だけをのせて。
*
ユリシーズ=ルインは彼にとって、手のかかる弟のような存在だった。
他者の目を引き付けて止まないその容姿は端麗、白人特有の透けるような肌に澄んだ碧の瞳がよく似合う。
その効果を発揮する時にしか見せない強かな笑みに、騙されている事を知りつつ見惚れる者は後を絶たなかった。いつもは銀色に煌めいているのに、太陽の光に照らされた場所だけはまばゆい金色を放つ柔らかな巻毛は今日もふわふわと風に揺れているだろう。はかなくさえ見える、天性の美しさを兼ね備えた少年は黙っていれば天使のように愛らしい――――黙っていれば、だ。
少年の、猫のような狡猾さを潜めた瞳に気が付いているのは現在この組織“カーマロカ”の中では彼――サブナックだけである。少なくとも彼本人は、そう思っていた。
サブナック、と言うのは彼の本名ではない。名などとうに捨てた――そう言えば聞こえは良いが、単にこれまで名前を必要とする暮らしをしていなかっただけである。彼が、この組織の一員となる前までは。
“サブナック”の呼び名はユリシーズが与えたものだ。名が無いのは不便だろうと勝手に、本人の承諾も得ないままだった。ソロモン七十二柱の魔神の名から取ったのだと聞いた――が、そんなもの彼にとってはどうでもいいことだ。
「……だるい」
冒頭のユリシーズとの言い争いですっかりやる気を無くしたサブナックは、のろのろと単身で任地に赴いていた。
仕事の内容はマフィア間抗争の制圧と取引現場の差し押え。そんなものは世の警察にでも任せておけば良い気がするが、そうも行かない。上からの命令は絶対なのだ。
本来はユリシーズと二人でつく予定の仕事を一人で行なうのはかなり骨が折れるだろう、とサブナックは憂欝になる。ユリシーズのような“力”が無い自分には、なおさら。
――カーマロカと言う名の平和維持組織は、特殊能力を持った人間によって構成されている。
世に流れる、“煉獄"についての唯一の情報はそれだった。しかし必ずしも噂は本当とは限らない。尾鰭が付いている可能性は限りなく高いし、カーマロカのような非現実的な物ならばなおのことである。
実際カーマロカの構成員の中で“能力”と呼べるような特異なものを持っているのはほんの一握りだ。そして彼らは通常、一般人の前になど現れない。
――“煉獄”創始者である《ファンダルス》の一族、その直系の血を引く者達は。
「それにしてもなんだっていうんだ。誰だ、待ち人って」
サブナックの声は虚しく空に吸い込まれる。時は夕刻を回り、そろそろ世の“悪”が活動をはじめるだろう。
よくよく考えてみれば、カーマロカの屋敷に一般の人間が尋ねてくるはずがない。それ以前に、ユリシーズに外の知り合いがいるとも思えなかった――ハメられたか、と青年はぼやく。
「ユリシーズのやつ、覚えてろ」
認めたくない話ではあったが、あの少年の力無しで任務を遂行するのが難しいのは事実だった。サブナックは戦闘技術に長けてこそいたものの、少年に比べれば所詮常人のレベルでしかない――そこまで考えて、彼はふと立ち止まる。
「……ユリシーズはドン=ファンダルスの親族じゃないよな……?」
誰もが知っている、あの少年のファミリーネームはルイン、だ。青年は首を傾げた。
今この組織に所属するファンダルスの血を引く人間は、首領の息子にして早々に戦いの前線から離脱している“ダンカ氏”、そしてその子供にあたる次期カーマロカ総裁“継嗣殿下”――つまりは後継者だ――のみのはずである。
実は表立っては知らされていない、ドンの寵愛する少女もこの屋敷で暮らしていることをサブナックは知っていたが、彼女がファンダルスの血縁であるのかまではわからなかった。
「……おかしいな、何であいつ」
何故今まで不思議に思わなかったのだろう。
もちろん遺伝で無くとも“能力”を持っている人間がいることは想像できる。ただしカーマロカに於いて、ファンダルスの血以外の“力”が内部にあることは考えられなかった。
――煉獄はファンダルスの独裁だ。全世界から集めた手練達を、ファンダルスの暴力的なまでの能力で抑えつけて統治している。ゆえにファンダルスの血を持つもの以外は、全て“ヒト”であると決まっているのだ。
「あいつめ……」
サブナックはあの少年の出生も、家族の有無も、正確な年齢さえ知らなかったことを今更痛感した。
何処までも謎な子供だ。ユリシーズの従者など、二人とも能力者ではなかったか?
あのガキ、サブナックは一人毒吐いた。あの少年はやはり、腹の中に何かを隠しているに違いない。
ユリシーズのカーマロカでの地位は高い。ファンダルスの一族とほぼ同じと言っても過言ではないかもしれない。
そんな少年にサブナックが対等な言葉を掛けられるのは、彼の戦闘のスキルが一目置かれていて、ユリシーズと同等の立場で任務を行なうことが多いからである。
(――力が全てだ)
この世界は、きっとどこへ行っても。
サブナックは懐から煙草を取り出した。火を灯し、紫煙をゆっくりと肺の奥に吸い込む。
息を吐きだしたのと、彼の目の前に一人の少女が現れたのは同時だった。