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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:間話‐舞台裏(2)‐

時間は少し前に遡る。

夜道を歩くのは顔の半分以上を黒のヴェールで覆った、奇妙な出で立ちの女だった。風に弄ばれることを気にすることもなく後方へ垂らした長髪は灰色にくすんでいる。それがなければ、誰も彼女が女だとは気付かないに違いない。

単調に歩を進めていた女が突然立ち止まる。何故か突然胸騒ぎを感じたからだ。否、それよりももっと具体的な、不穏の感覚。

ひそめられた形の良い眉がヴェールの隙間から覗く。咄嗟に脳裏に思い浮かんだのは、《あれ》に何かが起こったのではないかということだ。彼女の胸に渦巻くものは、彼女の意識と遥か彼方を繋ぐ回路とそのシグナルだから。


(おかしい、)


身体の中に巣食っていたのは黒い波、うねる闇のイメージだった。彼女の鼓動、呼吸、そして意志に応えて蠢いていたはずの“それ”の異変に気が付いた彼女は、胸を押さえてその場に立ち尽くす。


「どうかした?」


女の前方を歩いていた少年が振り向いて言う。少年は彼女が忠誠を誓った、ただ一人の主人だった。髪は柔らかな巻毛で、一見は美しい銀。ただし明かりに透かした部分だけはまばゆい金色に光る不思議な色合いを持っていた。

白い肌も、硝子のような瞳も、彼を構築する全てのものが美しいと女は思う。彼女にとって、少年は世界の全てだった。


「……いえ。何でもありません」


少年に微笑みかけた次の瞬間、女の表情が硬直する。違和感が不快感に変わる。胸が焼け付くように痛んだ。体内で何かが激しく回転しているような感覚。蝕まれる。侵食される。波が荒れ、蠢くものが女の身体を食い破って這い出そうと暴れていた。


「……な、に……」

「――ピュティアス?」


少年が無表情で女の傍に立ち、彼女の肩に手を置いた。瞬間、すっと女の顔が穏やかになる。荒い呼吸を繰り返していた彼女はゆっくりと息を吐けるようになった。


「申し訳、ありません。ユリシーズ様――」

「何があった」


少年は淡々と問う。女――ピュティアスは呼吸を整えながら、擦れた声で呟いた。


「“あれ”の様子が……。抵抗、でしょうか。いえ、司令通りに行動はしているのですが――何でしょう、何か」

「落ち着いて」


低い声で諫められて、女は肩の力を抜く。この感覚を言葉で示すのは難しい。人間の五感など、とうに超越したところにあるのだから。


「あいつ、がどうなったの。抵抗って?」

「――信じられません。もうとっくに自我は無くしていたはずです……ここ数日は《殺人鬼》としての人格塗り替えが完了し、自ら血を求めて行動するように。なのに」


ユリシーズは目を細めた。この猫のような瞳の奥に隠された狡猾さにピュティアスは震える。なんて、なんて綺麗なのだろう。


「……“あっち”で何か起こったね。“あれ”が今何をしているか、わかるかい?」

「――調べます。お待ちを」


ピュティアスは目を閉じた。僅かに顎を上げ、遥か彼方に神経を集中させる。

――彼女は他人の意識に潜入・介入することのできる能力者だった。

時にはその意識を強制的に塗り替え、操作することも可能だ。

ピュティアスは対象の脳に侵入し《記憶の層》の順番を入れ替えることによって、人格の歪みを生じさせる。そしてその歪みに乗じて人工的に新たな人格を作り出し、それをコントロールするのだ。不安定な人格の相手ほど操作しやすかったし、幼少時の悪環境、心的外傷を負った経験のある人間ほど人格は崩しやすかった。崩した人格は彼女が望めば、修復してやることもできる。


女の主である少年は彼女の能力を《催眠術》だと呼ぶが、実際はそれよりもずっと複雑なものだ。この世の言葉では説明などできない、人ならざる力。

けれど彼が催眠術だと言うならば、彼女にとってもこれは催眠術以外の何でもなかった。それで良いと、ピュティアスは思う。

ふ、と唇から吐息が漏れた。彼女の目蓋が僅かに震える。


「……“獲物”を狩っていました。組織の下層構成員です」


ピュティアスの意識が“それ”の意識と連結した。アクセス、という表現に近いイメージだ。彼女の脳裏に操作対象の意識が、そしてヴィジョンが流れ込んでくる。


「それは君の命令した行動だよね?」

「はい。半ば自発的に行なっていますが」


ピュティアスは目を閉じ、さらに意識を彼方に集中する。神経を研ぎ澄ませれば、“それ”の体験している空気さえ肌に実感することができた。

暗い建物の中だ。腐臭と鉄錆の香りに満ちた。


「ちょうど今、新たな獲物を見つけて……少女です。黒髪の」


途端ユリシーズの口の端が釣り上がる。最初から彼の目当てはただ一人なのだから、愉しげにするのも当たり前だった。


「ルカ?」

「――いえ。ですが一度ユリシーズ様の会ってらっしゃる子供です」

「あぁ、あの女の子か。日本刀使いの」


少年は酷く愉快そうに笑う。僕も見たいな、謡うように呟いた彼の目が嬉しそうに細められた。

ユリシーズがピュティアスを側近に選んだのは、玩具おもちゃを操作するコントローラーが欲しかったからだ。彼にとって他人はラジコンでしかなかったし、追従でさえ道具の一つでしかない。

けれどピュティアスは幸せだった。主人に与えられた命令を忠実に果たすべく、実況中継をするかのようにそれの様子を口にする。


「その少女に狙いを定めました。凶器はナイフです――ですが。……意志が、揺れています。私の操作からは抜け出せていませんが……深層心理に拒否の、破片が」

「ふぅん?」


何故、とピュティアスは眉をひそめる。彼女の操作は完璧だった。操作対象はこの上ないほどの適材。“彼女”の脳は脆く傷つきやすく、容易に侵入することが可能だったからだ。対象である“彼女”の凄惨な幼少時の体験が助けとなり、催眠をより強固なものにしていた。

なのに、何故。


(そういえば最初から、)


この女には違和感を感じていたのだ。

嫌な予感に捕われて、ピュティアスは薄く唇を噛み締める。


「……少女は“彼女”にとって、今まで獲物としてきた組織員より近い存在だったようです――」

「ねぇ」


話を遮るように猫のような声色で、甘く少年が女の名を呼んだ。ピュティアス、囁かれた響きに体が震える。何かよからぬことを考えている、そんな声だった。同時に、逆らえないと彼女は悟る。


「止めろ」

「……何を、仰います」

「“あれ”の支配を止めるんだ。やるなら今が一番良い」


そんなことをしたら。叫びだしそうになった女を少年は黙殺する。

この子供は今、このタイミングで、玩具を自由にしろといったのだ。

“あれ”の支配を解き放て、と。そんなことをして“あれ”が正気に戻れば、ピュティアスはおろかユリシーズ本人も危険に曝されてしまう。ピュティアスは“あれ”に顔を見られていたし、あちらに彼女と同じような能力を有する者がいないとは限らなかった。調べられればすぐに“カーマロカ”に、そしてユリシーズに直結してしまう。


「危険です……!」

「良いから」


早くしろ。冷たく言い放たれて、ピュティアスはぎっと拳を握り締めた。主人が何を望んでいるかなどわかっている。この少年は見つけてもらいたがっているのだ、あの黒髪の悪魔に。

わかっては、いた。けれど主人を危険に曝すことなど、本意であろうはずが無い。

僅かな逡巡のあと、結局ピュティアスは少年の意に従った。腹を括るに近い、自分が守れば良いと決意して。しかし直ぐに彼女の体は不自然に硬直する。


「どうしたの」


異変に気付いた少年が眉を寄せた。それに答えることもできず、ピュティアスの肌に脂汗が浮かぶ。


「ピュティアス」

「……できません」

「僕に逆らう気?」

「いいえ!」


違うのだと、ピュティアスは強く首を横に振った。できない、のだ。何かに阻まれてしまっているように、“あれ”に掛けた支配を、操作を止めることができない。


(違う……)


止められないんじゃない。

つ、と彼女の顔を汗が伝っていった。違和感の正体。嫌な予感。

あれはとっくに、自分の支配下からなど抜け出していたのだ。


「暴走、してます……!」


言うことをきかないラジコンの、コントローラーだけをピュティアスは持たされていた。暴走する本体の様子ばかりを見せ付けられる。どうして。考える間はない。

脳裏に浮かぶヴィジョンで“彼女”は少女にナイフを振るった。その動きに躊躇いはなかったが、体の中枢がひどく痛む。さらに鮮明なヴィジョンを求めて神経を集中させれば、目蓋の裏にいくつかの人影が現れた。これは“彼女”の見ている風景だ。


「少女を殺す前に、何人か別の……仲間でしょうか、彼女に何か話し掛けて――っ!!」


ピュティアスの表情が苦悶に歪む。胸に渦巻くものがキリキリと内蔵を締め付けた。痛みで呼吸がままならなくなる。

なんだ、これは。

今ピュティアスが体に感じるものは、イコールあちらの“彼女”の心身――特に精神の状態を体現したものだった。しかしピュティアスが操作を始めてから、いまだかつてこんなことが起こったことはない。今や“彼女”とは視界と精神の感覚ばかりを共有しているピュティアスにとって、この状態は負担にしかなりえなかった。


「――続けられそう?」


ピュティアスの背を少年が擦る。静かに頷いた彼女は唐突に、この痛みの名を悟った。

――これは、『感情』の痛みだ。

ピュティアスが塗り潰し、壊したはずの人格。その支配から外れて暴走したその奥で、表に出ることを許されない感情が藻掻いて爆ぜている。それはピュティアスが壊す前、つまり本来の“彼女”の感情だ。


サンドラ・ジョーンズという人間であったはずの、彼女の。


「……仲間を見て、酷く混乱しています――嵐のようなものが膨れて充満して。心の中で、もとの人格とあとの人格が傷付け合っている」


ピュティアスは自分の頬に濡れた雫の幻を見る。サンドラ・ジョーンズは――サンドラであった“彼女”は、泣いていた。

自らの罪に気付き、その咎に苦しみ、しかしもはや自分の意志では動かすことの叶わない体に涙しているのだ。仲間の命を摘むために動く体を精一杯拒否する、その内なる行動は、自らの体を傷付けて命を削ってゆく。膨れ上がった悲しみが全てを覆い隠し、暴走していた人格すら、崩してしまえるほどに。


「これ、は……」


それは唐突に訪れた。

激しい心中の葛藤の末に、“彼女”に異変が訪れたのである。爆発した感情が表に溢れだし、とうとう上辺の人格を押し潰す。

ぷつり、と何かが切れた。もともとはピュティアスが操っていたはずの、その人格が消されたことによる回線の切断。体に感じていた感覚が消失した。“彼女”の意識だけが辛うじてまだピュティアスと繋がっている。彼女の脳裏に、サンドラ・ジョーンズの見ている景色だけが鮮明な映像として映し出されていた。


「………ぁ、」


無意識に唇から音が零れ落ちる。ピュティアスが視たのは、黒髪の少女だった。

先刻まで“彼女”がナイフを向けていた日本人ではない。全てを吸い込んでしまいそうな漆黒の瞳。陶器のような白くて滑らかな肌にかかる長い髪は艶やかで、妖艶でさえあった。闇の中に淡く浮かび溶けて消えそうな儚さとは裏腹に、体の奥底に湛えられた強靱な何かを感じる。

悪魔の、少女。


「ルキフージュ=ロフォカレ……」


少女がピュティアスに向かって微笑みかける。否、ピュティアスの侵入している意識の先にいる人物・サンドラに向かって。

少女のあまりにも優しい笑みが脳裏に焼き付いて離れなかった、それが、最後のヴィジョン。




――――――ぷつん。




ブラックアウト、する。漆黒に落ちた視界には、もう何も映らない。

ピュティアスはゆっくりと目蓋を持ち上げ、傍らの主人にそれを告げた。


「……サンドラ・ジョーンズが死にました」

「死んだ……?」


成り行きを黙って傍観していた少年が、ほんの少しだけ驚いたように眉を上げる。僅かに思考した後、そう、と彼は呟いた。


「それはちょっと、気の毒な事をした」


あれを死なせる気はなかったのに。

呟いた少年が心なしか沈んだ表情をするのに、ピュティアスは酷く驚いた。あんなものの命などで一喜一憂する子供では、ないはずなのに。一体何を考えているのか。


「……終わりはルキフージュが、その手で」


付け加えられた言葉に、少年は薄らと笑みを浮かべる。瞳の奥が、髪の先が、きらきらと月光を受けて反射していた。


「……ルカは、悲しんだかな?」


その声はうっとりと、夢を語るように。


「きっと僕の仕業だって気付いてくれるよね。彼女、怒るかな?」


ねぇ、と。ユリシーズは笑う。

嬉しいんだ。あれが死んでしまったのは不本意だけど、結果あの子が僕を恨んでくれるなら。


「ルカは来てくれるかな? 僕を殺しに」

「ユリシーズ様――」


声を上げたピュティアスに、冗談だよと少年は笑ってみせた。大袈裟な仕草で首を竦める、まるで悪戯が見つかった幼子のようだ。


「大丈夫……僕があの子を殺すんだから」


ピュティアスは眉を潜めた。少年の思考はあまりにも深く、不可解で。少年のとった行動は、相手を考えればあまりにも危険だ。


「……ユリシーズ様は、何故ルキフージュに固執なさるのですか」


言ってから、はたと口をつぐんだ女の顔を少年の猫のような瞳が見つめた。詮索は少年にとって鬼門だ――しまった、と思っても遅い。ピュティアスは深く頭を垂れる。


「……差し出たことを申し上げました。お許しを」

「――僕さ、」


少年がゆっくりと歩き始めた。ピュティアスは黙ってそれに続き、彼の言葉に耳を傾ける。お咎めは無しのようで、この少年の気紛れを不思議に思った。


「最初は嫉妬、だったんだ。はじめて存在を知った日から……あいつは“僕ら”と似てるのに、なのに翼を剥がされなかった」


ふと顔を上げたピュティアスは、少年の目の前に人影が現れたことに気付く。

大柄な人間の色濃い気配が二人分。少年は気に掛けることなく、真っすぐそちらに向かって歩き続ける。


「圧倒的な力を持ってるけど“悪”で。なのに、自分の生き方を知ってて……羨ましくて、嫉ましい。どうしてあの日――」


言い掛けてやめた言葉の先を尋ねる術を、ピュティアスは持っていなかった。ユリシーズは一つかぶりを振ると、現れた人間の前で立ち止まる。

その正体は屈強な男のようだった。燕尾服を着込み、黒のブーツと白蝶ネクタイ。それに仰々しいシルクハットを被った彼らは、この場所にいるにしてはどこか異質だ。


「――だから、憎かったんだよ」


男達は少年の認めると、シルクハットをとって深く一礼する。


「……お迎えに上がりました、ユリシーズ=ルイン公」

「継嗣殿下がお呼びでございます――」


冷たい夜風が吹き抜けた。

漆黒の中に、人影が消える。

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