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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:最後の殺人鬼(2)



 物語に、終止符を。







長い黒髪が大きく靡く。無風の空間でその動きは一際目を引いた。彼女は確実な“何か”を纏っているとぼんやり千瀬は思う。絶対的な“何か”が、目の前の少女にはある。

漆黒の瞳は瞬き一つせずに、無表情でこちらを見つめていた。ルカの白い肌と服が暗闇の中に淡く浮かび上がる。闇の色をした髪が少女の輪郭を曖昧にし、彼女が闇に溶けそうな――否、闇から生まれ出たような印象を与えていた。


「ルカ……!?」


どうして此処に、と呟いた朝深には答えずルカは真直ぐに歩を進めた。駿が何かを言いたげに唇を震わせたあと、飲み込むように押し黙る。少女が歩くたびに揺れる黒髪の残像が酷く幻想的で、誰もそれ以上の言葉を発することはできなかった。ただ、レックスだけが。


「……ごめんな」


ごめん。繰り返し零されたそれは誰への謝罪なのか、何への懺悔なのだろうか。

その言葉にさえ反応を返さず、黒髪の少女はすっと視線を上げた。その瞳に映り込む金色が仄かに揺らぐ。そうして、るか、と再び音を生み落とした。


「……ル、カ。ルカ……」


うわごとのように自分の名を呼ばうサンドラに、ルカは静かに笑む。柔く曲線を描いた唇から穏やかな声音が響いた。


「――なぁに? サン」


サンドラが無邪気に笑う。瞬間、周囲で息を呑む音がいくつも重なった。彼女の浮かべたのが今までの貼り付けられた仮面のような、偽物の道化のような笑みではなく――心底幸せそうな、幼い笑顔だったからだ。


「…………う、た」


うたを、うたって。

切れ切れの単語をたどたどしく紡いだサンドラの、擦れた声が徐々に力を取り戻しはじめる。聞こえた言葉は懇願の響きを帯びていた。


「……うた、が、きこえたわ……あのひ、」


千瀬にはサンドラが何のことを話しているのかわからなかった。駿もロザリーも同じなのだろう、怪訝な表情を浮かべながら固唾を呑んで状況を見守っている。

ルカが来たことによって彼女に変化が訪れた、それは確かだった。ただそれが良い方向になのかはわからない。


「うた、よ……雨の、あの夜の」


くすり、そこでふいにサンドラは笑い声を漏らした。幸せな夢を見ているかのように目を閉じる。

だんだんと紡がれる言葉がなめらかに長くなっていく、ルカを除く全員がそれを茫然と見つめていた。


「忘れられなかった……聞きたかった。もう、いちど……でもあなたは、教えて……くれなか、ったわね」


サンドラが幼い少女のようにクスクスと笑い声を上げる。熱に浮かされたように話し続ける彼女の言葉にルカは静かな笑みを浮かべたまま耳を傾けていたが、ふいにこちらも笑い声を零した。ふふ、と楽しそうに目を細めた後、何かに思いを馳せるように首を傾げる。


「だって。あの歌は私たちに似合わなかったんだもの」


親しい友人に語りかけるのと何ら変わらぬ口調のルカに、そうねとサンドラが頷いた。

それでもわたし、あのうたがすきだった。


「うたって……ほしかったけど。でもわたし、本当はすごく幸せで満ち足りてたから、わたし、わ……たし、ワタシ――」


異変が起こったのはその時だった。壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返した後、突如サンドラの言葉が途切れる。

次いで彼女は目を見開いて両手で顔を覆った。血糊が顔に付着するのに頓着せず(そんな余裕は無いようにも見えた)しっかりと掌を顔に押しつける。指の合間から覗く瞳が小刻みに震えていた。


「――――私、誓ったのに」


見開いた、瞳。


「――っ! サンドラ……!?」


咄嗟に千瀬が声を上げる。

聞こえたそれはサンドラの声だった。芯の強い、意志をもった響き。紛れもなく、“千瀬の知っている”サンドラの声だったのだ。それが悲愴に染め上げられている。


「サンドラ……っ しっかりし、」


千瀬が駆け寄ろうとした瞬間、がくんとサンドラの体が崩れ落ちた。ゼンマイの切れた玩具のようにぎこちない動きを繰り返した後、肩で浅く息をしながら床に手を突く。

千瀬の体が硬直する。サンドラが俯いたまま、床に手を這わせるのが目に映ったからだ。何かを、探している。


「……ルカ」


サンドラの手が、落ちていた一本のナイフに触れた。先刻ロザリーが銃弾で、彼女の手から弾き落としたコンバットナイフだ。床を探っていた白い手が、ゆっくりとその柄を掴む。


「ルカ、どこにいるの?」


絶望の滲み出た空間の中でルカは静かに目を閉じた。少女の顔から、微笑みは消えていない。


「ここにいるよ、サン」


ぎゅ、とナイフを握り締めてサンドラは笑った。床に座り込んだまま持ち上げた視線がルカの漆黒と絡まる。それにもう一度笑みを濃くしてから、歌うような口調で彼女は問うた。

ねぇ、ルカ。


「ねぇルカ、覚えてる? 私たちの、最後の約束――」


刹那、ルカが僅かに震えた。少女の見せた初めての反応に、サンドラが穏やかな表情を見せる。絡んだままの視線が少しの間だけ沈黙を生みだした。


「――忘れて、ないよ」


少女のいらえにサンドラが破顔する。どうしてそんな無垢な笑顔を浮かべることができるのか、それほどに幸せそうな笑み。千瀬の大好きな、泣きたくなるようなあの笑顔だった。

そしてその表情のまま、サンドラはゆっくりと立ち上がる。覚束ない足と相反し、その手にはしっかりとナイフが握られていた。


「ごめんね、渡してあげたかったのに」


ふっと手足の力を抜いて、ルカが静かに目を閉じた。サンドラの言葉だけが淡々と響く。


「枯れちゃったの、立浪草」


我が儘で、ごめんね。


言い終わると同時にサンドラが跳躍した。左手に握ったコンバットナイフの切っ先を、真直ぐルカの心臓に向けて。

それはあまりに突然で、誰も動くことさえできなかった。例え反応が間に合ったとしても届かないであろうその距離の先。ただナイフが渾身の力でルカに振り下ろされる瞬間を、目を閉じる間もなく見ているだけしか許されなかったのだ。

あなたをあいしてた、そうサンドラの唇が動いたのも、ルカが薄く目を開けて笑ったのも、全ては一瞬。

――誰かが、ルカの名を叫んだような気がする。






刹那、


ルカの右腕が、サンドラの左胸を貫通した。






激しくほとばしった鮮血が少女の身体を紅く染める。弧を描いて飛び散った紅が花火のように暗闇を裂くその様子は、曼珠沙華の花弁にひどく似ていた。

サンドラの体は二、三度大きく脈打つと、次の瞬間には四肢が力を失い崩れ落ちる。弛緩した手足が、青ざめた肌が、ゆっくりと時を止めて。ぐらりと前のめりに倒れてきたそれを、ルカは全身で抱き留めた。

小さく動いた少女の唇が紡いだ言葉は、何だったのだろう。


二人を中心に、床に深紅の円がじわじわと広がってゆくのを千瀬は茫然と見つめていた。身じろぎ一つすることも叶わぬまま、停止した思考が言葉を連れてやってくる。辛うじて千瀬の理解できるそれは、ただ一つの事実。

――くしゃり、と。よろめいた千瀬の足に何かが触れる。ゆっくり視線を落としてその正体を知ると、少女はぎゅっと目を瞑った。

――サンドラの落とした立浪草だ。もうすっかり萎れて、端のほうが枯れてしまっていたけれど。


(……たつなみそう、の)


その瞬間千瀬は、曇っていた頭の奥が澄んでゆくような錯覚にとらわれた。


「……花……言葉」


千瀬は崩れるように床に座り込む。それが脳裏に浮かんだ瞬間、どうにもならなくなってしまったのだ。苦しくて、切なくて。

なんで。

だって、立浪草の花言葉は。


「……“私の命を捧げる”」


千瀬の呟いた声をすくい上げてレックスがはたと顔を上げる。反対に駿は、脱力したようにずるずると座り込んだ。時間だけが無情に流れ続けるこの空間で、息をするのが辛かった。悲しみも後悔も、胸に穴が開いた感覚に飲み込まれて消え失せてしまうのだ。

それきり誰も口を開くことができなくなる。闇が落ちて行く、音が吸い込まれてゆく、そんな感覚の中で。


「……?」


千瀬が伏せていた目を上げる。何かが聞こえたのだ。時を止めてしまった世界の中で、ただ一つ残った音。




……Salutem ex inimicis nostris……

et de manu omnium, qui oderunt nos――




(これは、)


――うた、だった。

何を言っているのかはわからない、しかしルカの唇から紡がれたそれは確かに歌だった。悲しく美しい旋律が、途切れ途切れではあったけれど。




……praeibis enim ante faciem Domini parare vias eius,

ad dandam scientiam salutis plebi eius――――




ルカの右手は、未だ彼女の左胸を貫いたまま。

陶磁器のような白い肌の上を赤い雫が流れて落ちる。


「ルカ……」

「……in remissionem peccatorum eorum,」


レックスの呼び声に歌声で応えて、少女は血に濡れた腕でサンドラを抱き締めた。

強く、強く。

床一面に絨毯のように広がった血液と、その中心の一対の人影を、誰もが悲痛な面持ちで見つめていた。なす術をしらぬまま、立ち尽くすしか出来ずに。

千瀬の頭の中には、そのメロディーだけが響き続けていた。

いつまでも、ずっと。




――――illuminare his, qui in tenebris et in umbra mortis sedent,

ad dirigendos pedes nostros in viam pacis.




(私たちの敵からの、私たちを憎む全ての者の手からの救いを)


(主の民に、彼らの罪の赦しによる、救いについての知恵を)


(闇と死の影のなかに座っている者たちを照らし、私たちの歩みを、平和への道へと、真直ぐに向けるのでしょうか)












 ねぇ、ルカ。



「その時は、私を殺してね」



 お願い、 殺してね。




【立浪草と曼珠沙華〜最後の殺人鬼:補足】   ◆彼岸花(ひがんばな):別名『曼珠沙華(まんじゅしゃげ)』……花言葉《悲しい想い出》    ◆立浪草(たつなみそう)……花言葉《私の命を捧げる》          ※聖書“ルカ”収録『ザカリアの讃歌』から本文・訳共に一部を抜粋。

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