第四章《慟哭》:立浪草と曼珠沙華(1)
「女の子は、夢を見ました。しあわせな夢でした」
「女の子は、殺人鬼でした」
――いまも、むかしも。
* * *
彼女の話をしようと思う。幸せで切なく、美しくて悲しい、雨と唄にまつわる小さな記憶の物語だ。
その出会いは、十四年前の雨の日だった。降りしきる雨が誰かの呼吸音に聞こえた、そんな日。
当時この世に生を受けていた無数の人間の中で、そのうち一人の少女が運命の分岐に立たされていた。彼女の名をサンドラという。それ以上でもそれ以下でもない、ただサンドラという存在だった。
少女にとってサンドラという名は、名前ではなく識別記号にすぎない。自分が最初の“サンドラ”なのかもしれなかったし、そうではないかもしれなかった。そんなことを気にしたことは、一度たりともなかったのだけれど。
この世に生を受けてから十年――この日彼女が出会った幼い子供は、後に悪魔と呼ばれることになる。
『 行こう 』
いつか必ず終わりが来ると知っていた、それでも構わなかったのだ。これはその、始まりの物語。
*
サンドラには二十五人の兄弟がいた。しかしそれは名ばかりで、実際には血の繋がりなどない。
遥か昔から内乱が続くその国の極秘機関が集めた、二十六人の戦争孤児。サンドラはそのうちの一人である。子供達は、後に内乱に使用する為の兵として生かされていた。
非人道的なこの施設は無論違法のもとに成り立っていたが、この国にそれを気にする人間、ひいてはそれを取り締まる者などいなかったのだ。
過酷な訓練と度重なる人体実験の犠牲になりながら子供たちは生きていた。本当の世界を知らずに、人を殺すためだけに育てられていた、哀れな捨て駒として。
平和な世界を夢見ることのできる人間の殆どが、この話を信じることができないだろう。それと同じように、ここで生きる子供たちは平和という言葉を知らなかった。
人を人と見なさない、子供を生物と思わない、そんな場所なのだ。この国に孤児は大勢いたが、それを利用しようと考えた場所はここだけであったらしい。
『殺戮用人材育成施設“Diabolism”』――これが文字通り悪魔のような所業を続ける、けして表に出ることのないその場所の名だった。
収容されている子供達は二十六人。ちょうど、AからZまでを順に頭文字にとる規則的な名前が与えられていた。
彼らは来る日も来る日も殺すことだけを教えられて過ごす。表沙汰になったことはないが(そもそも存在自体が極秘だったのだから)人を殺すことに対して抵抗を無くすような、洗脳等も行っていたらしい。死ぬまでは酷使し続けたし、子供が死ねば補充した。
ヒトの醜さが生んだ哀れな子供たちを、殺人鬼だとヒトは呼ぶ。
一人目はアンディ《Andy》、二人目はベル《Bell》、三人目はキャロル《Carol》、四人目はダニエル《Daniel》、五人目はエマ《Ema》――――つまりサンドラ、“S”andraは十九人目の殺人鬼だったのだ。
毎日戦場やテロの現場に駆り出されては、人間を殺していく。殺すことだけを求められ、仕事に応じた僅かな食料が与えられた。
子供たちに罪はない。これが罪だというのならば、世界はもうすでに沈んでいたのだろう。
殺しが全てだった。殺しが存在理由だった。生きる理由を免罪符にして、そうして今日も殺戮を重ねた。
サンドラは望んで殺人鬼であったわけではない。けれどいつしか、殺さずにはいられなくなっていた。
泳ぎ続けないと死んでしまう魚のように、人間を殺して血を浴び続けないと、息ができなかったのだ。
その時既に、一種の洗脳が完了した状態にあったのだろう。それでも子供たちは自分を縛る世界の中で、それだけを信じて生きていた。疑うことなど知りもしなかったのだ(他に、どうすればよかった?)。
殺しの行為が日常の一部となり、兄弟達が時折減っては新しく加わることにも慣れ、そして、体中に血の臭いが染み付いてとれなくなった頃。サンドラは、生まれて初めて仕事の最中に失態を犯した。
些細なミスだ。目標の数を見誤り、潜伏していた相手に気付かなかった――結果サンドラは兄弟達と引き離され、追い詰められ、多数の大人に囲まれ集中攻撃を受けたのである。
まだ辛うじてサンドラの息があるうちに敵が引き上げたのは、彼女が子供だという油断故だったのだろうか。
少女は生死の境を彷徨いながら、荒れ果てた道端に捨て置かれた。
それが十四年前の、雨の日。
*
ざぁ。
ざぁ、ざぁ、ざぁ。
雨が泣く。激しく咽ぶように、けれど静かに。
辺り一面の焦土、その片隅に、朽ちた布切れのようになって落ちていた少女は身動き一つすることもなく目を瞑った。死ぬのかな、と思う。思っただけで声にはならなかった。
(――――しぬ、の)
強さを増してゆく雨が幼い少女の体温を奪っていく。サンドラは地に臥したまま、朦朧とする頭で死を想った。
両足は折れているのだろうか、不可解な方向に捻曲がってしまっている。左手は使い物にならない。弾が貫通したはずの肩も、強打された後頭部も、血を失い続ける腹部も痛みは感じなかった。ただ刺すような雨だけが冷たい。
「………さむ……い」
漸く捻り出した声は擦れていて自嘲する。幼い容貌には似合わないその表情はサンドラを作り上げた環境の集大成だ。まだこの世に生を受けて十年と数か月、彼女の見てきた世界は隅から隅まで血の臭いがした。
今まで余りにも多くの命を摘んできたからだろうか、少女は自分に迫る死を明日を待つのに等しい感覚で受けとめている。
ただ死ぬ間際というのは体が暖かくなり、眠るように逝くのだとばかり思っていたサンドラは、自分の体が氷のように冷たくなっていくのを見てもう一度嗤った。こんなところに幻想を抱いていた自分が、あまりにも滑稽だったのだ。
少女はこの時既に、世の不条理を知っている。
自分が不幸だとは思わなかった。自らの流した血の海に沈んで終わることは、なんだか幸せな気さえした。
サンドラはゆっくりと目を閉じる。雨の音がだんだん小さくなり、終には聞こえなくなった。
体の輪郭が溶けていく感覚。密やかに消えようとする己の命を見つめているにも関わらず、心が満ちてゆく気がするのは何故だろう。自分には勿体ないほどの、安らかな死だと思った。
(嗚呼、これが『おわり』)
これが、死なのか。
今まで数多の命を奪ってきた、その結末がこれならば。
(――――、?)
――意識が闇に飲まれる中で、唄が聞こえた気がした。
「死ぬの?」
サンドラは目を見開いた。何時の間に現れたのか、黒い小さな影が彼女を覆っている。雨の中倒れているサンドラを覗き込んだのは、まだ短い黒髪を揺らした少女だった。サンドラよりもずっと幼い。
次の瞬間、少女達の目がぴたりと合った。突然現れた小さな彼女の瞳は吸い込まれるような漆黒で、サンドラは思わず息を呑む。
深い、深い色。まるでこの幼い少女の体の奥に、無限に広がる闇が湛えられているような。
「それとも、生きる?」
少女は小さな手を、サンドラに向けて差し伸べた。白くて細い、けれど温かな血の通った生きる者の手だ。
「生きるなら、行こう」
いっしょに、いこう。
迷い無く伸ばされた小さな手の眩しさに眩暈がしそうだった。その時まだ自分が生きたいと思っていた、それに彼女が気付くのはもう少し後の話。
サンドラがそれを掴んだその瞬間から、彼女達の物語は動きだす。
(――どうしてあの時ルカの手をとろうと思ったのか、サンドラにはわからない。ルカには彼女の持つ能力とは別に、何か不思議な力が有ったのだろうか)
(そうなのかも、しれない)
(殺人中毒者と化していたサンドラが、それ以後病的に血を求めることはなかったのだから)
彼女には忘れられない。闇の中で聞こえた、あの悲しく優しい旋律が。
雨の、うた。