第一章《始動》:罪と禁忌(2)
少女の頭の中であの時の光景がゆるゆると呼び起こされる。
切っ掛けは思い出せないけれど、確かに自分は親族を殺した。殺そうと思って、やったのだ。日本刀が父の心臓を貫いた時も、小さなナイフで母の首を刎ねた時も、迷いはなかった。
何故だろう、そうするべきだと思ったのだ。まるで体中の細胞が自らの血を絶つことを望んでいたかのように。
「――気付いたらもう、ルカが後ろに立ってた」
迎えに来たのだと微笑んだ彼女。抱擁されたその手の温もりは覚えている。自分が犯した罪を受けとめて、この腕についていくのだと思った。
ああ、確かその瞬間だ。
「姉さんが目の前に立ってた。後ろの壁は真っ赤だった。……あたし、姉さんに謝らなくちゃって。そしたら、何だか急に」
姉を殺したくなった。
殺したく、ない。
姉さんは、殺したくない
「あたし、姉さんを失うのが怖かった……」
嗚呼、と少女は思う。姉が目に入った瞬間に酷く腕が疼いたのだ。握っていたナイフの切っ先を百瀬に向けてしまいたい、衝動。同時にとてつもない恐怖に襲われた。血塗れの身体でルカに縋って、姉を殺したくないのだと訴えた。唇から零れ落ちたのは姉への謝罪と懇願のみ。どうして、忘れていたのだろう。
「……迎えがルカでよかったな」
駿は少女の頭を撫でながら、暗黙の掟を思い浮べる。
組織を表へ出さないために、『スカウト』の際の目撃者は原則として皆殺し――それがEPPCの、そしてルシファーのルールだ。
けれど稀に例外がある。それこそが、まさに《迎えがルカだった場合》なのだ。
「ルカは目撃者を殺さずに、学園に送ることが多い。学園に生徒として入学させ、寮生活をさせるんだ。あいつにはそれだけの地位と権力がある」
エヴィルだったら問答無用で即殺害だけどな、と彼は笑った。
「……エヴィルって、誰だっけ」
「もう一人の〈ハングマン〉。ルカの相棒だと思っとけばいい」
キレやすいから気を付けろ、と駿は囁く。横でシアンが神妙な顔つきで頷いていた。千瀬の中に、エヴィルという人間が『怒らせてはならない人物』としてインプットされる。
「……で、続きな。学園の入学年令は一応一般の高校程度を目安としてるが、年令が適応してなくても別に構わない。“特例”として突っ込むんだ。飛び級、特技、コネ……理由は何だって良い」
ただし、世間では死んだことになる。組織が情報や死体を偽造して、死亡届けを出してしまうのだ。
もう二度と、今までの日常には帰れない。今まで生きてきた世界にさよならを告げ、この場所で生きていくだけ。
「学園に送られたヤツは、卒業する年になったらまた入学し直すんだ。入学と卒業を繰り返して、表向きは生徒を演じ続ける。さすがに“生徒”じゃ誤魔化しのきかない歳になったら、学園の運営に回される」
千瀬は口を開くことができなかった。強ばった背中をサンドラが撫でていてくれたことにさえ、しばらくの間気付けずに。
「……そんな顔するなよ、死ぬよりましだ。俺は人殺しなのに、カズサが死ぬのは恐い」
カズサ、という音を愛しげに呟いた駿は俯くと大きく息を吐き出した。
――ああ、俺の妹だよ。年はお前の一つ上、学園で暮らしてもう二年か。誰だシスコンつったやつ、出てこい殺す!
ひとしきり騒いだあと、笑顔を取り戻した駿は深く息を吸い込んだ。千瀬に、自分自身に、それを言い聞かせるように。
「こうやって苦しむのが俺たちの罰だ。仕方ねぇよな、俺たちは裁かれて当然なわけだし?」
下手すりゃ俺もお前もここの奴みんな、今頃本物の“監獄”生活だろー。そう言って笑う少年を、千瀬は黙って見つめていた。
「ずっとあの孤島で生き続けるんだ。お前の姉も、ローザの姉も、俺の妹も――俺たちの、任期が終わるまで」
任期が終われば一緒に暮らせるらしいぞ、と彼は軽い調子で言った。
「……任期なんて、あるの?」
「あるとも」
駿は眉根に皺を寄せながら笑う。なんだか滑稽な表情になった。なんだか泣きそうな表情に、千瀬には見えてしまった。
「ロヴ・ハーキンズの命日までさ」
途端、サンドラがクスリと笑う。黙って事の成り行きを見ていたレックスも『違いねェ』と豪快な笑い声をあげた。
何が可笑しいのかさっぱりわからない千瀬に向かって、辛気臭い話は終わり、と駿も快活な笑みを浮かべる。
「しかしお前って珍しいタイプだよなー。むしろ変?」
「え、どうして?」
「だってお前の話を聞いた限りじゃ、チトセが親類殺しをやった直後にはもう迎えが行ってたってことだろ?」
そうだけど、と千瀬は頷く。それの一体何が変だというのだろう?
駿はさも当たり前、と言うように言葉を続けた。
「だって普通、犯罪が起こってから迎えを出すんだから結構時間がかかるもんだろ? 俺の時は一週間かかった。人生で一番長い一週間だったな、あれ」
からからと笑う少年の言葉に、千瀬はただただ首を傾げるだけだった。
「まるでお前が殺人事件を起こすこと、ルシファーが予測してたみたいだな」
その言葉の重要性に、その時まだ少女は気付かない。