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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:Behind a mask(2)

あたしにサンドラは殺せない。悟った瞬間、その言葉は少女の小さな身体を締めあげた。

わかってしまったのだ、残された道などたった一つだけだということを。この世には、生きるか死ぬかの二択しか存在していない。


千瀬は静かに目を伏せる。死を覚悟したのは、父親と行なった剣技伝承の最終試験――死合、以来だった。それは祖国のあの家で、千瀬が行なった最後のこと。


(――――姉さん)


す、と身体の温度が下がるような錯覚に捉われる。うるさく鳴っていた心臓の鼓動がぴたりと聞こえなくなった。ただ静かな空間に、少女とサンドラだけが対峙している。永遠にも似た沈黙が破れるのは、その次の瞬間だった。

動けずにいる千瀬に覆いかぶさるようにして、ナイフをこちらに向けたサンドラが身体ごと倒れてくるのが見えた。ゆっくりと、確実な狂気と殺気を帯びたその刄が迫ってくる。迫って、切っ先が、


(――嗚呼)


今更こんなことを考えるなんて、虫が良すぎる。

ナイフの切っ先を目に焼き付けながら、千瀬はぼんやりと思った。実際は刹那の間、しかし少女には時が止まったような気さえした。


(殺して、来たのに)

(――これまであんなにたくさん)

(それでもサンドラは殺せないと思ってるのに)

(世界から逃げようと、してるのに)

(……なのに)


少女を濃い影が覆い、彼女の視界がもういちど闇に沈む。ぎゅっと握り締めた刀の柄が軋んだ悲鳴を上げた。


(――死にたく、ないなんて)




刹那、サンドラの身体が不自然な形に硬直した。

茫然としていた少女の目に映ったのは一対の腕だ。それは先刻見たような亡骸の一部では、ない。

突然の出来事に千瀬は目を瞬いた。それを繰り返して漸く、サンドラの身体を何者かが後ろから羽交い締めにしているということに気付く。


「……え?」


今にも千瀬の喉元に突き刺さりそうだったナイフは持ち主の身体と共に動きを止めて、小刻みにカタカタと鳴いている。それを確認した瞬間、少女の身体に急激な脱力感と震えが押し寄せた。

力の抜けた足を叱咤して体勢を立て直すと、千瀬はサンドラを押さえている腕の主を仰ぎ見る。人物を確認した瞬間、それまでとは違う驚きに少女の目が見開かれた。


「――何、してるんだ……! 殺せ!」

「アサミ……!!」


生きて、いたのか。現れた青年を見て千瀬は息を吐いた。赤のメッシュがあしらわれた特徴的な髪の襟足は見紛うはずもない。朝深は肩で荒く息をしながら、鋭く千瀬に言い放つ。


「わかってるだろう……! こいつはもう《殺人鬼》なんだ……!」

「……でも!」


朝深は腕に僅かだが傷を負っているようだった。暗くて出血量は確認できない。それに気が付いた千瀬は咄嗟に刀を握り締めるも、やはりそれをサンドラに向けることができずにいる。

朝深に取り押さえられたサンドラは放心したようにしばらくされるがままだった。何かを考えているのか、彼女の瞳が自分を押さえている腕をぼんやりと眺める。


――次の瞬間、その表情が笑みに変わった。

サンドラは朝深の腕の中で器用にくるりと向きを変え、そのまま目にも止まらぬスピードで朝深の鳩尾に肘を叩き込んだ。青年の顔が苦痛に歪む間もないまま、千瀬の目の前で彼は壁に激しく打つけられる。

声にならない悲鳴が辺りに反響して、千瀬はそれを発したのが自分だということに気が付いた。ずるりと崩れ落ちた朝深の口から血が吐き出される。


「ア……サミ……っ」


そのままぴくりとも動かなくなった青年に、擦れた声を上げ駆け寄ろうとする千瀬の行く手をすらりとした白い手が塞ぐ。サンドラはナイフを掲げ、もういちど少女に狙いを定めた。その震える細い首に切っ先を向けて。


(こん、なの……)


突き付けられた刄を見つめながら、少女は初めて願った。これが夢であってほしいと。どんな悪夢でも、覚めるなら構わないのに。


「……こんなの、嫌だ……っ」


愚かな願いだとわかっていた。それでも、願わずにはいられなかったのだ。

サンドラの片手、ナイフを持たぬ方はずっと拳の形に握られたままだった。そこから歪な細い物体が覗いている。その手が握り締めていたのは、もうすっかり萎れてしまった立浪草だ。千瀬がはじめに叩き飛ばした曼珠沙華の栞も、おそらく彼女は大切に持ち歩いていたのだろう。


「どうするの、それ……っ」


サンドラは答えない。虚ろな笑みを張りつけたまま、声が届いている素振りも見せなかった。


「ルカに、渡しに行くんでしょ……!?」


どうして。彼女に何があったのかと、千瀬はそればかり考える。縋れるものが、救いが欲しかった。


「大切だって、言ってたじゃない……このままじゃなくなっちゃうよ、大切なもの……っ」


そう口にした刹那、少女ははっと身体を強ばらせた。頭の中をすさまじい勢いで何かが駆け抜けていく。それはデジャ・ヴに似ていた。映像であり、言葉であり、色で、音で、波であり、そして光であり闇。

少女は自身に問い掛ける。今自分の言った言葉を、どこかで?

映像が万華鏡のように回る――小さな街の景色、列車の振動。煌めくガラスの破片、そらのあお、路地の匂い。


(…………っ)


そして最後に残ったのは、忘れもしない少年の笑顔だった。声が聞こえる。あの日、彼は何て。


『やっと……やっと会えた』


それは、全てが崩れた瞬間の物語だった。


『消しにいっちゃうよ』

『――君の大切なもの』


歯車が狂ったのは、いつだ?

千瀬の体内で血液が逆流したかのようだった。自然と流された嫌な汗が体の熱を奪っていく。ほんの僅かなその可能性に少女の体は酷く震えた。そんなことがあるわけない。そう、言い切れるだろうか。


「……嘘、だ。……そんな……の……」


夢なら、良かったのに。

言葉が零れ落ちた瞬間、忘れていた立浪草の花言葉が少女の頭を掠めていった。現実が何よりも残酷だと、もう千瀬は知っている。




*




「何なんだよ、これ……」


漸く辿り着いたその場所で駿が見たものは、深紅の海と浮かぶ肉塊、そしてその紅を纏う変わり果てた仲間の姿だった。

濃厚な腐臭の漂う空間で、少年の知る人間は計三人。うち一人は壁にもたれるように座り込んでいる。意識があるのか無いのか、生死さえ一目では判別できない。


「どうして、なんだよ……っ!」


二人目、彼が気に掛けていた少女はまだ生きているようだった。ただそうだというだけで、千瀬の瞳に生気は感じられない。硝子玉のようなその目に映されていたのは駿の想像だにしていなかった三人目の人物だ。

負傷した青年と力なく座り込んだ少女の視線の先。彼女は、笑う。


「何で……なん、で」


自分が何を言っているのか、最早少年にはわからなくなっていた。

サンドラ・ジョーンズ。駿が組織の一員となるずっと前からこの場所で生きてきた彼女は、彼にとって言葉では言い表わせない存在だった。

所属したばかりの頃から、彼女は駿を気に掛けよく面倒を見ていたのだ。もし駿が自分の母親のことを覚えていればその感情を――その温もりを、母の愛に似ていると感じることができたかもしれない。そんな切なさにも似た感情の名を駿は知らなかった。ただその存在だけが、いつも。


(俺は、馬鹿だ)


駿はぎりりと唇を噛む。

殺人鬼が日本遠征組の中にいるという話が出たとき、漠然と彼女だけは違うと思っていた。彼女やレックスのようなルシファー創設からの組織員の裏切りなど、彼には想像できなかったのだ。

裏切り? ――そうだ、この光景を見た今でも。駿には、信じられない。


サンドラは千瀬のほうへゆっくりと歩を進める。ぼんやりとそれを見ている少女に、逃げろ、と叫んだ。けれどそれは声にならず、擦れた息を吐き出しただけとなる。

瞬間、駿の後ろから巨大な影が飛び出してサンドラに襲い掛かった。少年は目を見開く。彼に僅かに遅れてこの場所に辿り着いたレックスがすさまじいスピードで、殺人鬼と化した馴染みの人物に殴りかかったのだ。


「……っ、レックス!」


男の表情は駿からは見えない。サンドラはレックスに目を向けると無感動にその拳を避けた。

続け様に蹴上げられた彼女の足がレックスの腕を掠める。ハイヒールのピンが皮膚を削って僅かに鮮血が飛び散った。


「……何でだよ」


駿がもう一度吐き出した瞬間、彼女の視線が少年にぶつかる。笑顔が仮面のように貼りついた、無機質なその表情。影を落とす金糸の睫毛。

そして駿は気が付いてしまうのだ。その深紫の瞳が、しっとりと濡れていることに。


「……なんで、泣いてるんだよ……」


弧を描いた形に固定された口元の横を、雫が流れ落ちるのは何故?

青ざめた頬を伝う涙が、ぽたぽたと床に吸い込まれてゆく。駿はただそれを見ていることしかできなかった。

少年にはわからなかったのだ。涙の理由も笑顔の訳も。彼には、わからない。彼女が殺人鬼だということも――――わかりたく、ない。


(人間なんて、無力だ)


化け物になりたかった少年は、己の非力を思い知って再確認する。人間にしかなれなかった。醜くて汚い、人間を殺す人間だ。

レックスが腕に滲んだ血を拭い、小さな声で旧友の名を呼ばう。その声に、けして彼女が応えることはない。


「――サンドラ」


その名を唇に乗せた後、大男の拳が力一杯握り締められた。震えたその手の意味に、男の覚悟に気付いた者はいない。

水気を孕んだ空気が廊下一帯に流れ込み駿の皮膚に触れた。次いで遠く聞こえる、ぱらぱらと小さな音――雨が、降りだしたらしい。


「サンドラ、お前ェ、タイムリミットが来ちまったのか……?」

「リ……ミット、?」


レックスの零した言葉の意味はわからなかった。呟くように問い掛けた駿の声は、誰にも届かぬまま床に吸い込まれてゆく。

全ての疑問に答えるかのように、生気を失った立浪草が彼女の掌からはらりと落ちた。









ぽたり、ぽたりと泣く雨が

赤い涙を恋しがる


ぽたり、ぽたりと泣く雨の

そうだ、あれは“唄”だった。




(はじまりの雨の話をしよう)




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