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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:Behind a mask(1)

砕けたマスクのその奥に、私は気付かぬふりをして。

突き付けられた現実に、抗う術など存在しない。


少女は謳う。裸足で踊る。

飛び散った破片を両腕に抱き、貴方の血糊で接着しようと。


(けれど道化は知っていた)


もう元になんて、戻らない。




*




口の端が吊り上がり、美しい弧を描く。唇に引かれたルージュの色は毒々しいまでの赤で、それはてらてらと輝き唇から零れ落ちて顎を伝った。鮮血の口紅。

光を宿さぬ深紫の瞳を伏せれば、長い睫毛が頬に影を落とす。胸元まで垂れた金糸の髪は薄汚れ、血に塗れた部分は凝固してしまっていた。

そんな自身の格好を全く気にかけていないのか、サンドラは胸の前に掲げたバタフライナイフをゆらゆらと弄びもう一度笑む。


「……サンドラ」


笑った頬は痩せて削げ落ちていた。その変わり果てた姿に千瀬は戦慄し、思わずぎゅっと目を瞑る。

細く肩で息を吸いながら《殺人鬼》は――彼女は、指に付着した血糊を幸せそうに舐めとった。舌だけが生気を帯びているかのように濡れ蠢いている。


「サンドラ」


ここ数日は会う機会が無かった。それでも彼女であるはずが無いと、千瀬はどこかで信じていたのだ。

少女は己の甘さを呪う。ルシファー創設時から所属しているサンドラが、ルカのことを愛しそうに千瀬に語った彼女が――組織との深い絆を持つ彼女が変貌を遂げている、それが事実だ。


美しかったサンドラは何かに取り憑かれたかのように見えて、それが一層現実に色を付けた。

サンドラを疑うことなど微塵も考え付かなかったはずなのに、瞬間千瀬は全てを悟る。享受してしまった自分に気が付いて激しい嫌悪と絶望に襲われた。

自分がしなければならないことが正確な文章となって、洪水のように脳内に押し寄せる。容赦無く氾濫し、渦巻き、拒否する心を押し潰した。


「やめて……」


千瀬は再び閉じそうになる瞳を堪える。相手から目を離してはいけないからだ。

そうしているうちに頭の中はその言葉に次々と侵食されてゆく。まわる。まわる。ぐるぐると。

使命が心を覆い隠す。

心が使命を拒絶する。



(――殺人鬼を見つけたら)


これ以上犠牲者を出さぬよう、あたし達が囮になる。


(見つけるんだ)


見つけなくちゃ。早く、これ以上、


(捕えろ)


裏切りは死罪だ。


(――ハングマンが)


どうして?

どうしてなの。


(始末、を)


殺人鬼を、始末しなければ。


(嫌だ……)


殺人鬼。殺人鬼がいるんだ。私たちの、組織の敵だ。


(さつじんき、)


ころさなくちゃ。

殺す、の。殺さなくちゃ。


(――殺、)




………サンドラなのに?






あの子はね、私の大切な。

笑ったサンドラの声が聞こえたような気がして、刹那千瀬の思考が停止する。

目の前のサンドラはけして言葉を口にしない。虚ろな目を少女に向け、ゆっくりと瞬いた。ふわりと微笑んだその手に持つ、血濡れのナイフを振り上げて。


「サン、ドラ……」


少女の視界が暗転した。



*




耳に残響がこだまする。刃物同士のぶつかり合う金属音が壁を伝って届いた瞬間少年は、しまった、と思った。遥か遠くのほうで聞こえたそれは、彼に血の気を失わせるのに十分な効力を発揮する。


(最悪だ、)


どうしてこんなものが聞こえるんだろう? よりにもよって、あの少女の進んだ道の方から。

千瀬の運の無さ――マイナスのほうにツイていたとも言えるのだが――にほとほと呆れながら、駿は直ぐ様踵を返した。嫌な汗が背中を伝う。


「……くそ」


やはり別行動など、しなければよかった。駿はみすみす少女を行かせてしまった自分を呪う。こうなることは予想できていたのに。

まだ死ぬなよ、呟いて少年は駆け出した。少女の無事を祈り、まだ見ぬ殺人鬼を想う。

結末はもう、すぐそこまで近づいていたのだ。




*




振り下ろされるナイフを避けようと咄嗟に振り上げた刀の先が、壁の燭台を砕いた。立ち昇る煙と共に消えた炎が目蓋の裏に焼き付いて目が眩む。

一瞬の死角で千瀬はサンドラを見失った。刀を薙いでみても空を斬る感触しかない。

刹那、背後からふっと耳元に息を吹き掛けられる。千瀬の体がびくりと震えた。体の底から沸き上がる悪寒に襲われ、少女はつんのめるように一歩前へとよろめいた。


(どうすれば、)


体が思うように動かない。迷いが、悲しみが、千瀬自身を縛り付けて牙を向く。

少女が選択したのは真っ向からの戦いではなく、時間を稼ぐことだった。最終的な選択は、まだ千瀬には重すぎたのである。

第一撃はどうにか躱したものの、鈍い動きを繰り返すことしかできない千瀬には、まだ自分の命があることが不可思議だった。

相手は探し続けた殺人鬼。組織員を大量に殺し尽くした張本人だ。普段のように戦えていない千瀬など、もうとっくに殺されていても不思議はない。


目の慣れてきた暗闇の中で、サンドラが笑っているのが見えた。彼女であって彼女ではない、そんな印象を抱かせるサンドラは片手にナイフを構えたまま、ぎこちなく不自然に動きを止めたりしている。

遊んでいるつもりなのだろうか――その貼り付いたような笑みからは何も読み取ることができなかった。


「……っ」


再びサンドラがナイフを高く掲げる。緩慢な動きに含まれる確かな殺気に少女はただ佇む事しかできない。

わかっているのだ、答えははじめから一つしか用意されていないことなど。生きるには、この場を切り抜けるには、刀を握ってサンドラの急所を目がけて振りぬくしかない。それができない千瀬には、ただこれから起こることを傍観する以外に術はなかったのだ。

サンドラの握ったナイフがみしりと音を立てて軋んだ。それから笑った彼女を、千瀬は茫然と目に映す。


(――あたしを、殺すつもりだ)


肌に直接死の気配を感じた。サンドラ、呼ばう声にも彼女は反応しない。

これは一体誰だ。別人のような彼女を、その裏切りの行為を、千瀬は認めることができないまま。

サンドラが口元を歪めて酷く恍惚な、楽しそうな表情を浮かべる。その虚ろな深い紫の瞳から流れた一筋の涙に、まだ少女は気付かない。


“――サンドラを殺せるか?”


自身に問うてみても無駄だった。もう自分でも、わかりきっていた。

千瀬の答えは、『否』なのだ。










(うた、を唄おう)

(出会ったあの日の雨のウタ。)



貴方の耳に届けたい、この凍えた唇で。



(嗚呼、雨の音が聞こえたんだ)




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