第四章《慟哭》:硝子の微笑み(2)
(当たりを引く確率は三分の一)
では、生き残る確率は?
細く、暗く、黴臭い。
陰気の象徴のような廊下を進みながら駿は不安に苛まれる。
――これでよかったのだろうか。気になってしまうのはやはり、力自慢の大男より年の頃が妹と近い少女のほうだった。
エゴだろうが過保護だろうがシスター・コンプレックスだと馬鹿にされようが、心配なものは仕方がない。彼女はまだ実践経験も少ないし、剣技に秀でているということを除いては普通の中学生――否、それよりもか弱く脆いただの少女だ。
(どうせ当たるなら)
自分かレックスなら良いのにと、駿は心底そう願う。彼にはどうしても、あの少女が殺人鬼に太刀打ちできるとは思えなかった。
それは実力の話ではなく精神面の問題だ。もし、仲間だと信じていた者が自分に牙を向いたら彼女は――――
「……俺だって」
冷静に戦える確証は無いのだけれど。
少年は垂れていた頭を上げてただ進む。三人が別れてから、十分が経過しようとしていた。
*
かつん、かつんと鳴るのはブーツの靴底だ。小さかったはずの足音が幾重にも反響し、耳に届く頃にはとても大きく聞こえる。基本が裸足だった日本の家(特に少女の生家はそれが顕著だった)とは違う感覚にはもう大分慣れた。
千瀬は蝋燭の予備を持ってこなかった事を少しだけ後悔していた。
この組織の建物の内部はどこか古くさい作りをしていて、内装も古風である。千瀬が見上げた先の壁にはアンティークな燭台が埋め込まれていて、そこに突き刺さっている蝋燭は今にも消えてしまいそうだった。
今時分、明かりに蝋燭を利用している建物など他にないだろう。これも組織の首領である彼の趣味とやらなのだろうか。
「……趣味悪いよロヴ」
千瀬は一人虚しく悪態をついた。吐き出された言葉は宙に融け、その静けさをより強く感じることになる。
やはり一人は寂しい。千瀬はまだたった十四なのだ。駿の手前強がってみたので、そんなこと口が裂けても言えないけれど。
(――おかしいな)
前は一人でも平気だったのに、と不思議に思う。あの家にいた頃のことを思い出そうとして、上手くいかないことに気が付いた。
あれ、おかしいな。千瀬は一人首を傾げる。
少女の視界に入る限りでは、壁の燭台はだいぶ離れた場所にぽつりともう一つあるだけだ。はじめに彼女が警備していた場所のように全く明かりの無い場所もあることだし、実はこの建物手抜き構造ではないかと疑ってしまう。
かと思えば信じられないほどに煌びやかな場所――それこそ派手な電飾や高価なシャンデリアが溢れているような――場所もあることに、つい最近千瀬は気が付いた。
(?)
今歩いている、ルシファーの中でも際立って見離されたようなこの空間で、次の瞬間ふと千瀬の目に映ったものがあった。まさに偶然としか言いようが無い。燭台に照らされたごく僅かな一角、その床に。
「……血の跡?」
本当に小さな血痕だった。たまたま蝋燭の明かりの及ぶ場所になければ、まず見つけることは不可能だっただろう。
触れれば僅かな湿り気を感じた。まだ新しい証拠だ。
「……あれ? ってことは、もしかして」
千瀬はぼんやりと考える。ぐるぐると思考し、そして漸く疑いようの無い答えに辿り着いた。
「……あたし、大当たり?」
うわあぁあ、ビンゴだよ。少女は心の中で大仰に驚きながら、しかし表ではぱちぱちと瞬きを繰り返しただけだった。
運が良いのか悪いのか、この際それは問題ではないのだ。
少女は歩みを止めはしなかった。進むしかないことはわかっていたから。この先に捜し求めた相手がいる、それだけが事実として横たわっていた。
――やがて少女の前に、本日二度目の血の海が現れる。
「……っ」
千瀬は言葉を失った。
一面に散らばるおびただしい量の血液は、付着したばかりのようにぬらぬらと光沢を放っている。その鮮度を示すかのように満ち溢れる、むせ返るような鉄の生臭さ。この場所で、まさに今殺人が行なわれたばかりのような有様だった。
床よりも酷いのが壁だ。勢い良く飛び散った赤が白塗りの壁を染めていく。
巨大な花が咲いたような、そして散ったような。この凄惨で美しくさえある光景、これは。
(どこかで、)
嗚呼。呟いた声は意図せず零れ落ちたものだった。千瀬は無意識のうちに掌で自らの頬に触れる。
少女の脳裏を掠めたものは、あの時滅ぼした彼女の一族だった。あの日千瀬が深紅に染めた祖国の家。それが目の前の光景とゆっくり重なって、やがてぴたりと一致する。
瞬きをするのも忘れた。目を逸らすことが、できなかったのだ。
――少女は自分の壊した景色を、視ていた。
あの日、千瀬は花を咲かせた。断ち切った母の首の感触、噴水のように弧を描いた血潮。
白塗りの壁に咲かせた深紅の花からはとめどなく雫が滴り落ちた。真っ白な着物が朱を吸い込んだ、あの重み。忘れてない。忘れていないのに。
(どうして)
きっかけを、どうしても思い出せないままだった。どうしてあの時父を殺してしまったのか(千瀬が生き残りさえすれば免許皆伝、師の屍など必要なかったのに)、どうしてそのまま母の所へ向かったのか(母は近所に華道の講師として向かうところだった)、どうして祖父の、祖母の、従兄の命まで摘み取らねばならなかったのか、どうして。
(どうし、て)
どうして覚えていないのだろう、家の間取りも近所の様子も――そこまで考えて、少女の思考がぴたりと止まった。
(そんな、まさか)
はっと口を押さえた両手の震えが現実を告げる。それに気が付いて愕然とした。
千瀬はもはや両親の顔さえも、思い出すことができなくなっていたのだ。
(こんなの、)
こんなのおかしい。おかしいのに。
「……行かなきゃ」
だめだ、と千瀬は首を横に振る。何か重大なことを忘れているような気がして小さく震えた、その体躯を気持ちだけで押さえ付けた。
やらなければならないことがある。今、ここで。
「……?」
刹那、僅かな物音を少女の耳が捕らえた。今にも消え入りそうに微かなものであったが、千瀬は瞬時にそれを悟る。
何かと何かが擦れる音に聞こえた。言葉にするならば、しゅ、しゅ、と――きっと足音、だ。床に足を引きずっているような。
その音はここからさらに奥のに入った方から聞こえたようだった。
これより先は廊下の幅が狭くなる。より入り組んだ構造になり、より暗闇と死角が増えるはずだ。
千瀬は躊躇う事無く歩を進めた。衣服が汚れることも意に介さずに血溜りの中をゆく。
次の瞬間彼女の耳に、どさり、という重たい音が届いた。はっきりとわかる程に近い。
千瀬は音の聞こえた方角に体を向け勢い良く床を蹴った。手は黒漆刀の柄に。身を低くし、そのまま音も無く駆ける。
直線的な廊下を一息に一区画分疾走するとL字に折れた角を右方向に曲がった。鯉口はとうに切られたまま。柄を握る手に力を込め、瞬間的に抜刀ができるよう構える。
しかし辿り着いた先には、一つの影すら見つけることができなかった。
「……何なの、」
物音を発した原因も千瀬が予想していた相手も見当たらなかったことに、やや気抜けしてしまう。
空耳だったのだろうか。
(確かに聞こえたのに。)
道を間違えたということもあるまい。千瀬は小さく息を吐きだした。
確かに聞こえた、あれは何だったのだろう。何かの気配も感じ取ったような気がしたのだ。
訝しんで首を傾げた、刹那。
――ぼとり、
鈍い音をすぐ傍で聞いた。同時に軽い衝撃を感じる。
千瀬の肩を何かが叩き、それはそのまま床に――少女の足元に転がったのだ。上から降ってきた、ようだった。
「……な……に、これ」
その《何か》が触れた体の部分に違和感を感じる。生温かい感覚がじわりと広がっていくような。
体に痛みはなかった。千瀬はゆっくりと肩に触れる。
ぬるりとした粘着質の液体が、少女の指に絡み付いた。
「……っ!」
咄嗟に掌を明かりの下にかざして確認すれば、肩に触れたはずの指先が深紅に染まり糸を引いているのが見えて。
そうなって漸く、千瀬は上から落ちてきた《何か》に目をやった。
――土気色の、細長く大きな塊。不恰好に折れ固まったその形。
思考が停止してしまい、それが何かを理解するのに時間がかかる。
茫然と呟いた少女の声は、酷く擦れていた。
「……人間の……腕………」
肩から下を切り落とされて。切り口の部分からどす黒い血液を吐き出し続ける左腕だけが、そこにはあったのだ。
急激に体温が下がってゆくのを千瀬は感じた。それは腕が落ちているという事自体への恐怖にではない。
(――どこから)
息を潜めて周りを見渡してもそれらしい影はない。
一体何処から腕が、この腕の主は、そしてこの腕をここに持ってきた者は何処にいるというのだ。
千瀬は踵を返し道を戻ろうとする。この先に生き物気配を感じることはなかったが、この辺りに潜んでいるのは確かだった。駿とレックスに知らせなければならない。
(……戻らなくちゃ。)
千瀬は廊下の角を曲がろうと一歩を踏み出す。
次の瞬間、千瀬は素早く刀を抜いた。同時に曲がり角の陰から何か大きな物体が現われ少女に向かって倒れかかってくる。
千瀬は斬ろうか斬るまいか一瞬だけ思考し、結局避ければそれは派手な音を立てて床に転がった。
「……酷い」
闇に沈んだその正体を知る。呟いた声はそれに聞こえないだろう。
――左腕を切断された男だった。青白い顔が出血量を物語っている。よく見れば、頸動脈のあたりも傷つけられているようだった。襟元にあるのは《ポート》を示す瑠璃の紋章。
(――おかしい)
違和感に気付いて刀を握り締めた。とうに息絶えて体の硬直が始まっているその死体がひとりでに倒れてきたなんて――つまり先刻まで立っていたなんて。
死体にそんなことできるはずかない。確信して、千瀬は眉をひそめた。
「……逃げられそうに、ないなぁ」
第一少女がここに来たときには、この場所に死体などなかったのだから。
―――刹那、少女の背後で何かが動いた。
しまった、と思う。何時の間に背中をとられたのだろうか、千瀬が考える間に《それ》は鎌首をもだげるようにゆっくりと、音も無く立ち上がった。燭台の炎に照らされた二人分の影が揺らめく。それは千瀬自身のものと、もう一つ別の。
ご対面、というやつだ。笑い事ではない、命懸けの邂逅。既に抜刀していたことがせめてもの救いだと、何処か冷静に千瀬は思う。
「――――!」
空気が震えた。
背後の影が大きく腕を振り上げた瞬間、千瀬は呼吸を止め右足を半歩後ろに引いた。それを軸にそのまま大きく後方へ刀を薙ぐ。
キン、と甲高い金属音が交錯した。同時に千瀬の目に映ったのは、素早く跳躍した相手の影の端。咄嗟に手首を一閃し刀を旋回させれば、パシッという乾いた音と共に切っ先にほんの微かな手応えを感じた。服にでも擦ったのだろうか。
「……?」
第二撃に備えて刀を青眼に構えた、その態勢のまま少女は目を見開いた。
ひら、ひら。彼女の目の前に、ゆっくりと何かが舞落ちる。
先刻刀が掠めて弾き飛ばした物はこれなのだろうか、蝶のように可憐にさえ思える動きで落下していた。見れば薄い紙のようなもので、空気抵抗を受けながら浮き沈みを繰り返す。
「……な、に……これ」
ひらり、ひらり、
千瀬の目に最初にに映った色は白だった。それから時折ちらちらと舞うように覗く紅。
それの正体に気付いた瞬間、体の奥底がみしりと軋む。
「…………どうして」
音が聞こえない。時間があまりにもゆっくりと流れていた。とん、と背後に降り立った気配がふらりと揺れる。
それと同時に目に入る、落下物に付いた藍染の紐。やがてそれは少女の足元に、静かにふわりと着地した。
――――曼珠沙華の、栞。
「……どうして、あなたなの」
血に濡れた髪の毛は本来の金色からだいぶ褪せた色で揺れていた。同じ色の睫毛の奥、瞳に宿る光は無い。
すらりと伸びた白い腕の掴んだナイフにおびただしい量の血糊が付着しているのを、真っ赤な舌が舐めとった。
どうしてなの、もう一度呟いた少女の声に答えるかのように、血に濡れた口角が上がる。
「サンドラ……!」
サンドラ・ジョーンズは静かな笑みを浮かべた。無機質な、硝子のように透明な微笑みを。