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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:硝子の微笑み(1)


(それは、ありのままを受け入れるということ)






*




血の海、という言葉を。この地球上で一番最初に口に出した人物に問いたかった。貴方はそれを、見たことがあるのかと。

海と呼ぶにはちょっと小規模かもな、と少年が言う。


「犠牲者はまだ少ないらしい」


はは、と乾いた声で笑った駿の顔色は心なしか悪かった。

二人は血の匂いに導かれるままにこの場所へ辿り着いた。千瀬は目の前に広がる血溜りの廊下に眉をひそめる。

これが血の海でなかったら、なんと言えば良いのだろう。凄惨で、恐ろしく美しい赤。その赤の中に沈む肉塊は生々しく輝き、現在も鮮血を吐き出し続けている。人間であったのかすら曖昧なそれ。


「……奥か」


血溜りが途切れた後も廊下の奥の方に血の跡が点々と続いているのが見えていた。《それ》はさらなる獲物を求めて移動した、ということだろうか。


(……くそ、)


少年が小さく歯噛みして目を瞑る。生憎死者に哀悼の意を捧げられるような生き方はしていなかったし、何より今はそんな余裕などなかった。

これ以上奥に行かれては分が悪い――その果てを想像して、駿は嫌な汗を拭う。

血の後の続くここから先、いるのは《パース》だけなのだ。彼らでは襲われたらひとたまりもないことはもう十分過ぎるほどにわかっていた。


「シュン、誰か来る」


千瀬の言葉に駿ははっとして顔を上げる。彼はすぐにナイフを持つ手に力を込め壁に背をつけた。千瀬も同じく刀の柄を握り、それが来るのを待つ。

二人で息を潜めればすんなり闇と同化した。隙を見せてはならない、敵ならば、


(斬る)


千瀬が心に言葉を落としたその瞬間――廊下の曲がり角の奥から、巨大な影が現れた。

小さく鳴ったのは少女の刀か、少年のナイフか。


「……お、おいおい! お前ら冗談はよせ、俺だよ!」


臨戦体勢の二人を包み込んだのは豪快な、それでいて少し焦ったような声だった。

その正体に気が付いて、千瀬は目を瞬かせる。


「――レックス?」


現れたレックスは大きな体を揺すり、慌てたように両手をあげていた。

なんだ、とナイフを下ろす駿の横で千瀬も胸を撫で下ろす。


「こっちは丸腰なんだぞ。そんなもんで切り付けられたらたまらん」


千瀬の日本刀を指差して大男(彼の武器は己の拳のみだ)は豪快に笑った。けれどその笑顔はすぐに消え、後には厳しい表情だけが残る。


「ひでぇな、こりゃ――まさかと思ったんだか……」


レックスは顔を大きく歪めながら血溜りを見つめた。

駿が相槌を打ちながら首を傾げる。よく気付いたな?


「お前が配置されたところはここから結構距離があっただろ? この臭い、そこまで流れてるのかよ」


ルシファーの中はもう血の臭いだらけか、嫌そうに駿は続けた駿を見て千瀬も顔をしかめた。赤錆の腐臭に満ちた建物を想像して良い気分にはなれない。

しかしレックスは、ゆるゆると首を横に振った。


「俺は犬じゃねぇからな。そんなに鼻は良くない……臭いに気付いたのはこっちに近づいてからだ」

「……どういうこと?」


千瀬が怪訝そうにレックスを見上げる。臭いに気付いたのでないなら、彼がここに向かった理由は何故だろう。

異変を感じたのでなければ、彼はまだ自分のポジションで警備を続けているはずなのだから。


「どういう意味だ、レックス」


駿が問い掛けても、レックスは眉を寄せて一点を見つめたまま。その様子にざわりと千瀬の背筋が粟立った。何か、良くないことが、


「レックス!」

「……連絡が、付かねぇんだ」

「――連絡?」


声を荒げた駿を宥めるように手を挙げながら、レックスは静かに頷くと重々しく口を開く。


「極秘だったが、今回の警備に付く際には日本遠征組にだけ小型の無線機が配られてたんだ。俺がその本体をミクから預かってた。何もなければ連絡なんぞ取り合わないんだが……」


レックスは懐から黒く輝く小型の機械を取出して二人に見せた。その表面には小さなランプが埋め込まれ、淡い緑色に光っている。


「ランプが光っているとこはな、この本体と通信できる無線小機の数を表してるらしい」


千瀬は少し背伸びして機械を覗き込む。ランプはちょうど、日本遠征組の人数分――だが。


「……一ヶ所、消えてる」


僅かに響いた息を呑む音は二人分。小さな震えを隠すことのできなかった子供たちに淡く笑ってみせながら、静かにゆっくりとレックスは頷いた。

その場を満たす淀んだ沈黙は、誰もに最悪の結末を想像させる。レックスの笑顔は直ぐに失敗してくしゃりと崩れたが、それを無言で見つめることしかできない。


「――誰の無線機だ? その、連絡がつかないやつ」


駿の言葉にレックスは力なく答える。その声の悲壮さに、千瀬は耳を塞ぎたくなった。


「……アサミだよ。だから、俺はこのアサミの配置された場所まで来たんだぞ」


レックスが僅かに目を伏せた。危惧していたことが事実となって突き付けられる、その痛みに耐えるかのように。


「アサミが警備位置に付いたのを確認したやつはいるのか?」


駿は意を決したように声を出した。努めて明るい声で問おうとして失敗する、それに皆気付かないふりをする。

レックスまた静かに首を振った。


「……いや。“監獄”を出たのはあいつが最後だった」

「……そうか。ってチトセ? 何やってんだよ」


駿が目を丸くしたその先、千瀬は二人から離れると廊下に広がった血液の中へゆっくり入っていく。僅かに凝固が始まったそれを踏みしめながら中程まで進んだ後、少女は突然屈み込んだ。


「……おい!」


千瀬は血溜りの中に手を沈め、やがて何かを引き上げる。

滴る血。その下から現れた、無残に破壊された黒い破片。脂に塗れて鈍く輝くそれが何であったかは想像に難くない。


「――アサミの無線機の残骸か」


茫然と呟くレックスの腰の辺りを駿は軽く叩いた。パシ、と鳴った軽快な音に大男は目をしばたく。


「しっかりしようぜ。ここからだろ――決まったわけじゃない。どこで何があるかわからないから、他の連中はまだ呼び集めないほうがいいかもな」


頷いたレックスと千瀬を確認し、駿は己にも喝を入れる。

この状況だけをみれば、朝深が《殺人鬼》に殺されてしまったというのも考えられるのだが。でもそれは無いと駿は思う。あの青年が簡単に死んでしまったなんて、信じたくない。


(……でも、)


朝深の死を否定する、それは同時に、彼自身が《殺人鬼》である可能性をも示しているのだ。


「――行くしかねぇな」


誰にともなく呟いた少年の言葉にいらえが二つ。

ルシファーの最奥に向けて、彼らは一歩を踏み出した。――夜明けはまだ遠い。




*




「なんだって?」


ツヅリがらしくない大声で問い返す。

千瀬、駿、そしてレックスの進んだ先で忠実に警備を続けていた彼は、突然やってきた三人とそのただならぬ様子に目を丸くした。話を聞いてさらに驚愕する――どうやら今晩は、穏便に済みそうにない。

ツヅリの配置されたそこはルシファーの最奥に位置する場所であった。これ以上進んでも袋小路に閉じ込められてしまう。この先には、ロヴのみが使えるエレベーターだけ(どこに繋がっているのか誰も知らない)があるだけなのだ。


「ここ風上なんだよ。血の臭いも何も、まったく気が付かなかった」

「じゃあ、アサミには会ってないんだな?」

「もちろん。此処にきたのは君らが初めてだ」


ツヅリの言葉にレックスが首を傾げる。こりゃ参った、大男はその太い腕を組みながら一人ごちた。


「てぇことは……ここに来る前に曲がったんだな」

「あ、さっきの別れ道?」

「たぶんな」


千瀬はここに辿り着く前に通り過ぎた、三方に別れる通路を思い出す。彼女達の追う者は、どうやらあっちに曲がっていたらしい。


「……本当に、アサミなのかい?」


ツヅリが小さく問う。駿はただ

「可能性だ」と呟いた。そう言う以外に無いのだ。

レックスはすでに向きを変え、今来た道を戻ろうとしている。次はあの別れ道に向かわなければならない。


「一緒にいこうか?」


ツヅリの申し出に、レックスはゆっくりと首を横に振った。


「いや。ここはまだそいつが戻ってくる可能性がある……警備がいなくちゃな。頼むよ」

「……わかった」


幸運を。そう呟いたツヅリの言葉を背に受け、三人は再び歩みだした。

なにが幸せなのか。どんな結果が幸福なのか。きっかけは何だったのか、わからなかったけれど。


(歯車が狂ったのは、いつ?)


この時少女達はまだ、全てが崩れた本当の瞬間を知らなかった。この闇の裏にある存在を、知らなかったのだ。


千瀬は目を伏せる。後戻りはできないことを知ったその足は、目的に向かってただ動いていた。


(――近付いているんだ、確実に)


手を伸ばした先に掴んだ答えが、けして望まれたものではなくとも。




*




三人は進んできた道を戻り、先刻は通らなかった三叉路の入り口で歩みを止めた。

三方向にのびた廊下のその奥は、黒々とした闇を湛えて彼らを待ち構えている。《殺人鬼》がここまで来て、さらに先を行ったのは明白であった。命懸けの追い駆けっこの終わりはきっと近い。微かにだが、点々と残された血の跡がここで途切れていたのだから。


「まだまだ観察不足だなぁ、俺たちも」


洞察力に欠けてる、血痕を見つめて駿が呟いた。先にこれに気が付いていれば、わざわざ回り道をしなくても済んだのに。(その結果ツヅリの無実は証明されたわけだが。)


「さて、どうするか」


言いながらレックスはからからと笑う。彼らが今置かれている状況には似合わない、晴れやかな声だった。この状況を楽しんでいるのか、それとも。

千瀬は三つ又に別れた道を見つめる。辿ってきたはずの血痕は、ちょうど分岐点に差し掛かった辺りで途切れていた――つまり、《殺人鬼》が三本のうちどの道を行ったのかはわからない。


「道は三本。俺たちも三人。選択肢は二つ、だな。全員でどれか一つを選んで進むか、三人別の道を選ぶか。……全員で行ったほうが安全だろうけど?」


冗談めかした口調で駿が問う。千瀬はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。一呼吸の空白の後、響いた声は凛としていた。


「――別れて進む」

「本気かよ、チトセ」


顔を覗き込んできた駿の目が『お前が一番心配なんだけど』と告げている気がして、千瀬はわずかに頬を膨らませる。そんなことはわかっているのだ、でも。


「三人で同じ道を通ってハズレだったらどうするの? そんなことしてる間にまた犠牲者が出たら!」

「まぁ、そうなんだけどさぁ……」

「チトセの言うとおりだな。諦めろやシュン」


レックスに勢い良く肩を叩かれたシュンは僅かによろめいて、(ついでに恨めしげにレックスを睨んだがさらりと無視された)それから一つ溜め息を零す。


「仕方ねぇなぁ」


その言葉を合図に、三人はそれぞれ分岐点へと歩を進めた。左にレックスが。右に千瀬が。そして中央の道には駿が。


「それではお二人さん、ここでお別れです……これが永遠の別れになっちまったりして?」


芝居じみた言葉を紡ぐ駿に向かって、千瀬はからかうような笑みを浮かべる。


「シュンはオーバーだね。しかもネガティブ。幸せが逃げますよ、武藤さん」


にっと歯を見せながら(この少女には珍しい快活な笑顔だ)言われた駿はぽかんと呆けて、ぱちぱちと瞬きをする。次の瞬間思い切り眉根を寄せ、わざとらしく咳払いをした。


「……お前な。年上をナメんなよ。目上の人を敬いなさいって、学校で習わなかったか?」

「生憎、学校はほとんど行かなかったものですから」


千瀬は声をあげて笑った。静かな廊下には場違いな、明るく晴れやかな声が響き渡る。つられたレックスの笑い声が重なってやけに賑やかになった。


「……あたしは死なないよ。年下で新入りのあたしが生き延びてるのに、シュンは簡単に殺られちゃうつもり? 良いんですか先輩?」

「てめっ! うーわぁムカつく。ぜってー死なねぇ……!! そんなこと言っといてお前が先に殺られたらぶっ飛ばすかんな!」


そのあと超馬鹿にしてやる、そこまで一息に言い切った少年は意味のわからないことを言っているのに気が付かないらしい。

拳を振り上げるふりをした駿から逃げるように身を捩り、なおも千瀬は笑い続けた。


「どうぞー。シュンが生き残ればの話だけどねー」

「このやろっ」

「……言うようになったなぁ、チィ」


レックスはそう言うと、

「俺も負けてられんな」と姿勢を正す。


「約束だからね」


千瀬は駿の背を押し、もう一度自らの進む道へと向き直った。

長く続くその先を見据える。《殺人鬼》は、本当にこの闇のどこかに潜んでいるのだろうか。


「それじゃ行くぜ――当たりを引くのは誰かな」


少年の言葉が響くと同時。三人は各々の意志で、自らの選んだ道へと一歩を踏み出した。









(なんでだろう)

(笑いが止まらなかったんだ。)

(全ての言葉が、)

(その瞬間が、)

(愛しくて、仕方なくて)




笑いたかった。笑って、いたかった。



いつか迎える終焉に、気が付いていたから。




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