第四章《慟哭》:間話‐舞台裏(1)‐
「……ねぇ、ピュティアス」
少年の声に瞬時に反応した、優秀な彼の下僕はすっと目を細めた。主人の正面まで回り込んで片膝をつけば、相手が満足気に笑うのがわかる。
つまんないんだよ、呟いた少年が口の中にザッハトルテぐいと押し込んだ。甘い甘いチョコレートの味。僅かな苦みが隠されていることに気付いて、少年は唇の端を吊り上げる。
「もう暫くでございます、ユリシーズ様」
「んー、でもぐずぐずしてるとまたアイジャが……」
名をユリシーズというこの少年は、通常の任務の他に組織の首領から極秘である役目を与えられている。アイジャ、とはその“役目”に深く関わる少女の名だった。
ユリシーズは我儘放題に育った娘を思い浮べると小さく溜め息を吐く。“こちらの問題”を片付けるには、まだ時期ではないのだ。
「申し訳ございません」
「やだなぁ。君はよくやってくれてるよ、ピュティアス。“あれ”がしぶといんだろう?」
あれ、とは少年が最近目を付けた玩具の事だ。脳裏に描いて自然と顔が弛んでしまう。“あれ”は彼にとって前座にすぎなかったが、楽しくて仕方がなかった。
「……ですが、わたくしの力不足です」
ピュティアスは己の主人を見つめる。歪んだ正義に囚われている、無垢な少年だ。
――なんて愛しい、小さな我が主。
「首尾はどうなんだい? 暇潰しに教えてよ、君の《催眠術》が今、何を引き起こしているところなのか」
にこりと笑んだ少年に、ピュティアスは『御意』と首を垂れた。
彼女は自分が先日接触した、主人の玩具を思い浮べる。
「催眠術とは似て非なるものかと存じます。わたくしが行なったのは、内部からによる人格破壊」
ユリシーズは頬杖をつき、楽しそうに彼女の言葉に耳を傾ける。
「わたくしが選んだ人物は、過去に殺人中毒を起こしていたレべルの“殺人鬼”でした。血を糧として生きていたようです。何故かはわかりませんが現在は中毒から抜け出し、一犯罪者としてあの組織で生活しておりましたが……わたくしはその人物の記憶に歪みを生じさせ、過去の記憶を呼び起こしたのです。基本はそれだけなのですが」
“あれ”の過去を覗き見た時、ピュティアスは酷く驚愕したのだ。あんな過去を持ちながら、なぜあれは発狂せずに今まで生きてこれたのだろうと不思議に思う。
「はじめはその者自身も気付かぬ程の僅かな変化を起こします。本人が眠っている間に、過去の殺人鬼の人格が目を覚まし行動するように致しました。朝になれば本人は、夜間に自分が何をしていたのかなど覚えておりません。人工的に二重人格症を作り上げたようなものでしょうか……これにより、あの組織に殺人鬼の発見を遅らせました。自覚症状がありませんから、あの者が自白することはありえません」
「あったま良いー」
無邪気に笑うユリシーズを、女は愛しげに見つめた。
……この少年の為なら自分は死んでも構わないと思う。もとより、彼に出会わなければ無かった命だ。
「日が経つごとに殺人鬼は表の人格を侵食します。そろそろ表の人格が消え失せて、組織の人間を無差別に殺していることでしょう。……ルシファーの上層が気付いた頃にはもう手遅れです」
あの者は、血に飢えた亡霊と化しているでしょうから。
女が続けた言葉に、少年はコロコロと笑い転げた。愉しくて仕方がないのだ、本当に良いおもちゃを見つけたと思う。ラジコンにしては上出来だ。
「……ですがユリシーズ様、わたくしの“催眠”はここまでが限界です。このままあれを操作できるのは、保ってあと七日程かと。もう一度接触できれば……」
ピュティアスの術は万能ではない。それを完全なものにするには、最低二回の施術が必要だった。もう一度接触して《上書き》できなければ、“あれ”はじきに正気を取り戻すだろう。
「ああ、良いよ。そうなったら“あれ”は解放してやって、楽しませてくれたお礼に」
「ですが……!」
“あれ”と接触した日、ピュティアスは本人に姿を見られている。それを生かしたまま野放しにするということは、即ちユリシーズへの手掛かりをわざわざ撒くようなものなのだ。
あの組織に限ってそれは自殺行為である。ユリシーズがなんと言おうと、ピュティアスは彼を危険に曝すわけにはいかなかった。
「良いんだ、僕はあの子に気が付いてほしいだけ」
僕はここにいる。僕を敵と認識して、そうして恨んでくれれば良い。
笑った少年の姿が儚く見えて、思わずピュティアスは立ち上がった。彼女にはわかってしまったのだ、ユリシーズの行動の意味が。
「お願い、ピュティアス」
「……御意」
ピュティアスは静かに首を垂れて目を瞑る。
嫌な予感がしていた。ユリシーズには告げなかったが、彼女は“あれ”に対し違和感を抱いていたのである。
この段階に至る過程だって、本当はもう少し早く済ませてしまえる予定だった。それが思いのほか遅れたのは、“あれ”が“殺人鬼”を深層心理で拒んだからだ。
今までこんなことは一度もなかった。相手が能力者ならいざ知らず、“あれ”は只の人間だ。
(……でも、)
命じられれば実行するまでである。ピュティアスにとって絶対なのは、ユリシーズただ一人。
(きっともうすぐ、終わりが来る)
***
“殺人鬼”は獲物を探していた。
――日が沈み表の人格が眠りに就くと同時。それは体の内から沸き上がり、殻を食い破って現れる。
封じ込めていた性である自分が、染み付いた殺人衝動が、鬼となり動きだすのだ。
はじめは表の人格に拒まれて活動がままならなかったが、最近は楽に呼吸ができる。自由だ、と思った。同時に酷い喉の渇きを覚える。
朝目が覚めても、きっと《表の自分》はまた何も覚えてはいないだろう。最近は残された中核の精神さえ弱っているようだから、爪の間に入り込んだ血痕を訝しむこともないかもしれない。
今の状態の自分は狂っているのだと、心のどこかではわかっていた。これはきっと、表の《あいつ》に残された僅かな理性のせいだ。
(でも、もう)
夜中に目を覚ます度に感じるのだ。少しずつ、《夜の自分》と《昼間の自分》が混ざりあっていること。血に飢えた鬼である自分が表に出る時間が、少しずつ長くなっていること。
――もう逃れられない、と表の《あいつ》が叫ぶ。
――戻りたくない。
諦めれば良いと、自分は笑う。
手を血に染めるたびに、彼女の顔が頭を掠めるけれど。自分にはもう、関係ないのだ。
(喉が、乾いた)
活動場所が変わった。ここには楽しめる獲物がたくさんいるらしい。
今はただ血肉が欲しい。鮮血を、体中に。
欲しい。ほしい。ホシイ。あの赤。だらしなく流される血、血、……、
昔と同じ過ちを犯すのかと、《あいつ》が消えながら泣いていた。
そんなもの知らない。本能に忠実に生きて、何が悪い?
(狩りの時間だ、)
遠くから生き物の匂いがしている。温かい鮮血の香りが、“殺人鬼”の鼻を擽って流れてゆく。
くすくすと堪えきれなかった笑い声を零し、“殺人鬼”は恍惚の表情を浮かべた。