第四章《慟哭》:亡霊の足音(2)
(亡者の足跡を見つけた。ねぇ、いなくなったのは誰?)
ルシファーに不穏な空気が流れていた。
日本遠征に向かったEPPCのメンバーが再び――今度は内密に――召集を受けたのは、彼らが帰還した数日後の事だった。内密、と言えども同じ〈ソルジャー〉である千瀬達には筒抜けだったのだが。(要は《ポート》等の一般組織員に知られなければかまわないのである。)
それは一度では収まることなどなく、以来遠征組は何度となく召集されて日本での任務状況を報告させられていた。呼び出しが掛かる度にハルは不機嫌になり、朝深はますます無口を貫くようになっている。それもそのはず、今彼らが直面しているものは『報告』などという生温い言葉では語れないようなものに成り果てていた。取り調べ、と言うのが正しいのだろうか。
(……まるで)
千瀬はぎゅっと下唇を噛み締める。居たたまれなくなって“監獄”を出ると、駿とロザリーもついてきた。
少女は二人に未だこの不安を打ち明けられていない。千瀬は自分自身の勘など信用できないと思っていたし、何より憶測で事を荒立ててはならないと考えたからだ。
「あー……」
遠征組の纏うピリピリした空気に辟易していたのだろう、駿が思い切り伸びをした。いつもは彼とふざけあっている不良少年、ハルも今は事の渦中にいる。
「なんかヤだよなこの空気。俺、台湾組で良かったぁ」
監獄の扉が閉じ切ったことを確認して駿が言う。これで今部屋の中にいるのは遠征組だけ、しかしそのうち数人はまだ召集から戻ってきていない。
遠征に出た〈ソルジャー〉のうち召集・事情聴取を逃れていたのは、日本に向かわなかった駿と春憐のみである。こんな事態、誰も予測などしていなかった。
「……にしても、なんでこんなにしつこく調べるんだろうな。遠征組の話をもとにして作戦立てたら、うちの警備を強化しつつ日本に精鋭を送って敵を消して終わりだろう?」
はやくすりゃいいのに、と呟く声にロザリーが答える。
「日本にいる敵が誰でどんなヤツだかわからないからじゃない?」
三人は特に行く当てもないままぶらぶらと歩を進めた。あまり“監獄”から離れることはできない。ルシファーの警戒体制は異常な迄に強まっていて、いつ出動呼び出しがかかるかわからないからだ。
「でもなあ。早く解放されたいぜ、この緊張状態。もしかしてもう日本にいないのかな、そいつ。で、ルシファーに侵入する可能性があるからこんなに警備が厳重とか」
「あー、なるほど」
暇を持て余して憶測を立てる駿とロザリーを千瀬はそっと盗み見た。考えすぎなのだろうか、でも。
「……チトセ?」
「どうした。お前今日やけにおとなしいじゃん」
「……あの」
少女の様子がおかしいことに気が付いたのだろう、二人に見つめられた千瀬は口を開いて、やめる。
千瀬には言えなかった。言いたくなかったのだ。今の状況がまるで、既にルシファーに殺人鬼が潜んでいるみたいだということ。まるでそれが遠征組の中に、遠征組を疑っているみたいに――――
「疑ってんだよ」
唐突に声が聞こえて千瀬の肩がびくりと跳ねた。弾かれたように顔を上げた三人の目の前に、小柄な少年の影が立つ。
「……ルード」
駿が呟いたその名に、向かいの少年が軽く肩を竦めた。どうしてこんなところに、小声で尋ねた疑問にルードが答えることはない。
「大正解だよ、チトセ」
柔らかく言ったルードの笑顔に今度こそ千瀬は震えた。ルードはわかっているのだ、千瀬が一人考えていたことを。
どういう意味だ、と低く駿が唸った。
「もう皆気が付いてるさ。そうでしょ? 誰も口に出そうとしないだけ」
ルードがふいと視線をそらして俯いた。なおも食って掛かろうとする駿の腕を掴んで止めたのは、他ならぬ千瀬だ。駿は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたあと、諦めたように肩の力を抜く。そんな様子を黙って眺めていたロザリーの顔は蒼白だった。
……嗚呼、と千瀬は思う。
(気付いてたんだ)
千瀬は浅はかな自分を恥じた。自分一人がそれに気が付いていたわけではなかったのだ、駿もロザリーも、気付いてそれを隠していた。そ知らぬふりをして明るく振る舞っていた二人は千瀬よりずっと頭が良い。
しらないふりをしていたのに。
もう誤魔化せなかった。正面から向き合ってしまったのだ。殺人鬼は、もしかして。
「……わかったら“監獄”に戻れよ」
「ルード……?」
「ここから先は通せない。今は、駄目。――これは命令だ」
褐色がかった猫のような瞳が、何も聞くなと言っていた。三人は上官である少年を無言で見つめ返したあと、小さく頷いて踵を返す。
(何もできない)
気が付いたところで無力だった。今はただその時を待つだけ。
上層部は遠征組を調べているのだろう。調べて、それは真実かもしれないし何もないかもしれない。
(今は、まだ)
何も起こらなければ良いと千瀬は思う。これ以上、は。
*
その部屋があったのは三人の〈ソルジャー〉の子供が進もうとしていた、まさにその先であった。
一見何の変哲もない個室の中、あるのは二つの人影。そのうちの一人、碧の瞳を持った少女が疲れたようにその金の髪を掻き上げた。少女は自分の掌を静かに見つめる。何の変哲も見られない白い手には、じっとりと汗が滲んでいた。
「終わったのか」
銀髪の青年が問う。彼の鋭い金の目が、僅かに少女を気遣う色を見せた。
「日本遠征組は一通り全員にやったわ……でも、『それ』の記憶がある人はいなかった」
金髪の少女――ミク・ロヴナスは静かに答える。
ミクがエヴィルの顔を見上げると、彼はただそうかとだけ呟いた。
程なくして扉の向こうから現れた二人の人間に、ミクはエヴィルに告げたのと同じ内容を繰り返すことになる。そのうちの背の高い青年が頷いたのを、その場に集まった六つの瞳が見つめていた。
「情報を誤魔化されている可能性は?」
「ないわ。あたしに“これ”が出来るのを知ってるのは初期メンバーだけだし、どっちにしろ記憶は隠せるものじゃない」
ロヴはミクの言葉を聞くと暫し考え込んだ。ミクは再び自分の掌を見つめる。
(――“これ”は、あまり気分の良いものじゃない)
小さく吐いた溜息に気付かないような者はこの場にはいない。誰も彼も、特殊な環境で力を培ってきた手練ばかりだ。
「夜は、どうだった」
ロヴが口を開いた。ミクは顔をあげ、わずかに首を傾げる。
「夜は皆一緒。眠っているだけ、つまり記憶は残った無いって意味だけど――あたしは夢の内容まではわからないから」
「……可能性は、あるな」
ロヴは腕を組むとゆっくりとソファーに腰を下ろした。その一挙一動を見つめる彼の部下とは、もう十年以上の付き合いになる。
彼らはロヴを信じていた。否、ロヴ以外のものを信じたことなどなかったのだ。
「無意識に行動していて覚えていないのか、何者かに操作されているのか。わからないが、可能性が高いのは夜だ。犠牲者が発見されたのはたいてい明け方だったと聞くしな」
「そんなことって……」
「ないとは言いきれないだろう」
操作ならば能力者が動いてることになる。自分達と同じような。
言葉に詰まったミクの肩を、労うようにロヴが叩いた。暫しの沈黙が流れた後、おもむろにエヴィルが口を開く。
「……ロヴ。お前、この前は言っていたじゃないか。『それは最悪のパターンだ』と……どうして、現状であいつらを調べる必要がある?」
「状況が変わった」
訝しげなエヴィルを見やり、ロヴは表情を崩す事無く続ける。
「日本遠征が始まると同時に犠牲者が出た。初めは日本に敵が潜んでいたという見方が強かったが、日本から〈ソルジャー〉が撤退すると同時に犠牲はぴたりと止まった。……日本にはまだ、後始末をしている末端構成員が大勢残っているにもかかわらず、な。そういうことだ」
「そんな……!」
ミクが悲鳴に近い声をあげる。
「それじゃあロヴは、《それ》が彼らの中にいるっていうの? 本気でそう思ってるわけ!?」
「まだ決め付けたわけじゃない……だが戦闘能力から見ても、EPPCである可能性は極めて高い」
だから調べているんだろう。言われた言葉にミクが唇を噛み締めた。
「……仲間を疑うなんて、あたしは嫌」
「そうだな」
軽い同意のあとロヴは淡々と言葉を紡ぐ。
「まだわからない。憶測にすぎない。だが、警戒は怠るな。夜の警備は特に、な」
エヴィルが眉を寄せた。あまり感情を顕にしない彼の眉間に、深い溝が刻まれる。
憶測にすぎない《それ》の存在が、本当に杞憂に終わる可能性は限りなくゼロに近かった。それでもこの男は笑うのだ。首領である彼が不安げな態度など、見せてはならないのだから。
「ねぇ、もしも。もしも、本当にあたし達のなかに《殺人鬼》がいたら……?」
「……裏切りは死罪」
ミクの言葉に答えたのは、ロヴではなくエヴィルだ。
「EPPCに、理性を失って無差別な殺しをするような輩は必要ない。答えは一つだ……わかってる。お前もわかってるだろう? その為に俺達がいる。その為のハングマンだ」
珍しく饒舌なエヴィルを前に、ミクはそれ以上何も言うことが出来なかった。
「もしその時がくれば……」
「――大丈夫」
今まで一言も喋らなかった黒髪の少女が静かに口を開いた。誰もが少女を見つめる。最後の決断を下すのは、彼女だから。
ルカは小さな声で、ゆっくりと呟いた。
「……大丈夫だよ。その時は、ちゃんと私が始末を付ける」
大丈夫だよ。だって私たち皆、殺人鬼だもの。