第四章《慟哭》:血涙カタルシス(3)
グレッグの瞳に映し出された、黒髪黒目の東洋人。腰にぶら下げた細長い得物が、少女の華奢な体には不釣り合いだった。
倒れたSPの背中に鋭い刀傷を認めて、途端グレッグの表情が凍り付く。
「あれ? もう着いちゃった」
黒髪の少女が言葉を発したが、それはグレッグには理解できなかった。日本語か中国語か、どちらにせよ少女の母国語なのだろうと思う。帯刀した小娘(にしかグレッグには見えなかった)は汗一つかいた様子もなく部屋の中を見渡していたが、グレッグとジャッカの向け合った銃口を見て初めて驚いたような顔をした。
「……この餓鬼は、なんだ、?」
絞りだしたグレッグの声は情けなく擦れていた。手元の拳銃もカタカタと震える。
そんな彼を一別し、ルシファーの使者は笑みを浮かべた。ジャッカはこの瞬間勝利を確信していたのだから当然だ。最早ヴィンセントに、逃げ場はない。
「お宅のSPは、その“餓鬼”に全てやられてしまったようですよ」
「……なに、を」
何を言っている?
グレッグの唇が恐怖から来る興奮でわなないた。顔面の筋肉がひくりと引きつる。
「嘘、だ。嘘だ! こんな小娘に何ができる!?」
突然叫びだしたグレッグはそのまま半狂乱で両手を大きく振り回す。火事場の底力か、勢いのついた男の腕は目の前に居たジャッカの顔前を轟音と共に掠めていった。
使い方は間違っているが、この瞬間に拳銃も立派な鈍器と化す。金属の固まりは避けきれなかったジャッカの腕と接触し、衝撃でその手に握られていた銃は弾き飛ばされていった。
「――っ!?」
銃を奪われたジャッカの表情が焦燥に歪む。同時に笑ったのはグレッグだった。先刻までの様子は何処へやら、彼は悠然と拳銃を再び構え、丸腰と化した目の前の男に銃口を突き付ける。
それを見て漸く、小娘――もとい千瀬は場の切迫した様子に気が付いたようだった。
みすみすジャッカを打たれるわけにはいかない。千瀬は間合いを計りながら鯉口を切り、一足飛びに切り込んだ――切り込もうと、した。
「――まァまァ、熱くなりなさんな」
千瀬の行動はすんでのところで未遂に終わった。何故なら、千瀬よりも先にグレッグとジャッカの間には大きな腕が割り込んでいたのである。
その巨漢は飄々とグレッグの腕を抑えつけ、拳銃を取り上げるとそのまま捻り潰してしまった。へにゃりと歪んでしまった銃を目にしたグレッグが、蛙の潰れたような声を上げる。(ぐぇ!)
「気付かなかった時点でお前さんの負けだよ、ヴィンセント。死にたくなけりゃあ、おとなしくするこった」
あっけらかんと言い放ったのはジャッカでも――ましてや千瀬でもなく、何故かヴィンセントの雇った殺し屋の男であった。現状の飲み込めぬグレッグはぱくぱくと口の開閉を繰り返してしまう。
……ウォール、貴様どうして命令に従わない? 暫しの沈黙の後、グレッグが茫然と呟いた。
しかしこの状況に誰よりも驚いたのは千瀬だ。相手の雇われ殺し屋がどうやら寝返ったらしい、それだけならばまだ分かる。しかし少女には巨漢の殺し屋、その声と姿に覚えがありすぎたのだ。おまけに日本人でないはずのこの男の言葉が千瀬にわかるとあっては、理由は一つしか考えられない。
「……レックス……?」
千瀬は唯一思い当たるその名を静かに、しかし確信を持って呟く。
瞬間、終始俯き加減であった大男がふっと声を漏らした。潰した拳銃をぽいと投げ捨て、千瀬に向かってにかりと白い歯を見せる。
「よぉ、チィ。お疲れさん」
「やっぱり……!」
レックスはきっちりと締めていたネクタイを緩めながら、がしがしと千瀬の頭を撫でる。(反動で千瀬の首が折れそうになった。)
その様子を眺めていたグレッグとジャッカはぽかんと間の抜けた顔をした後、双方正反対の表情を作り上げた。謎のボディーガード兼殺し屋が千瀬の仲間――つまりはEPPCであったことを悟ったジャッカと。自らの懐で敵を飼っていたことに気付いたグレッグと。
「その小娘の言う“レックス”はお前か? ウォール……」
今やグレッグは顔面蒼白であった。怒りと恐怖と羞恥と、多くの感情に飲み込まれながら必死で虚勢を張っている。
よくも騙したな。低く呻くようなその声に、レックスは僅かに肩を竦めて見せた。
「何が殺し屋だ、アレキサンダー・ウォール? 蓋を開ければ只の鼠か!」
「俺ァ嘘はついてねぇよ」
本名だしな、と殺し本職のレックスは苦笑した。
グレッグは運が悪かったのだ。全てが彼の思うようにはいかず、全てはルシファーが――ロヴ・ハーキンズが、彼の上を行っていただけ。
「諦めろ。お前さんは最初から、ルシファーの手の上だった」
「――畜生!」
一声叫んだ後のグレッグの行動は早かった。彼は服の内ポケットに忍ばせておいた起爆装置――最終手段としてこの屋敷に仕掛けられていた爆弾の――を取出し、そのスイッチに手を掛けたのである。
レックスが瞠目し、ジャッカはひっと息を呑んだ。背後に控えていた《ポート》が慌てふためき、しかしなす術もなく。
その中で唯一動いたのが千瀬であった。少女は瞬間男達の側へと飛び込むと、グレッグの頭を鞘に覆われたままの刀で殴り付けたのである。問答無用の一撃を受けた男は無言で昏倒した。
その日、グレッグが命を失わなかったのは奇跡だといえる。
千瀬は咄嗟のことで手加減などできなかったし、自分の刀が通常の五倍の重さだということなど、すっかり失念していたので。
*
「ロヴの奴に言われてなァ。殺し屋でもボディーガードでもSPでも給仕でも、何でも構わないからヴィンセントの屋敷に忍び込めって」
「……へぇ」
「給仕は勘弁してくれって言ったんだが」
言いながらレックスは豪快に笑う。千瀬はそれを隣で聞きながら、彼女らの首領の強かさに舌を巻いた。
レックスが同乗しているお陰で、行きよりも格段に狭くなったリムジンの中。車の心地よい振動に眠気さえ襲ってくる。
レックスに与えられた今回の任務は極秘であった。相手組織に潜入し、敵の――ヴィンセントの様子を逐一報告していたのである。
千瀬もジャッカも知らされなかった、ロヴの冗談のようなこの仕事は想像以上の効果を発揮したらしい。レックスは雇われとしてヴィンセントに侵入した後、ものの二週間でグレッグの側近にまでこぎつけたのだから。
グレッグにジャッカ殺害の命令を出されたとき、正直彼は焦ったのだという。上手いタイミングで千瀬が乱入し、お陰でギリギリまで引き伸ばすことができたが。
「それにしてもロヴって頭良いね、今更だけど」
「考えて無ェようで、な」
二人は顔を見合わせて忍び笑いを漏らした。
レックスの仕事が無ければ、今この世にジャッカは居なかったかも知れない。それを考えると千瀬はぞっとする。
「ヴィンセントはどうなるの?」
「ルシファーに完全吸収。今度は形も残らねぇな」
ふぅん、と相槌を打ちながら千瀬は今回の顛末を思い起こす。
壊滅状態に陥った屋敷から千瀬がグレッグ・A・ヴィンセントを引き摺り出した後、デューイの行動は早かった。外で見張りに撤していた彼はその間に新しく書類を作り上げ、意識の無いグレッグの親指を引っ掴み無理矢理に押印してしまったのである。
その新たな書類とはヴィンセント・ホープ完全解体と、ヴィンセント財閥がルシファーへ永久の忠誠を誓うことへの同意書であった。ジャッカが印を迫っていた物よりも三割増しで酷な内容だ。
あれこれって犯罪なんじゃ、千瀬は思っても口にしなかった。それこそ、今更なので。
「あの若いの、マクスウェルと言ったか。仕事が早いな、あの歳で昇進すんのも納得だ」
レックスはデューイを何度も誉めていた。本人の前で称賛を口にした時など、デューイは感動に震えていたように思う。(やはり彼はEPPC信者らしい。)
「あいつァまた出世するかもな。近々動く」
「そうなの?」
レックスの言葉に千瀬は首を傾げた。デューイが《ポート》昇格したのは、そんなに昔の話では無いはずなのに。
「……今ちょいと、下がごたごたしてるって話があってな。人員の移動があるんだよ」
「ふーん……?」
レックスが僅かに表情を曇らせた、その理由は少女にはわからなかった。
レックスは千瀬に言えなかったのだ。この組織に今、異変が起こっていることを。初期メンバーである彼だからこそロヴから知らされた、不穏な影の話を。
『遠征先で《ポート》と《パース》が殺されてる。……人員の移動と補充が必要なくらいに、な』
そしてそれは奇しくも、千瀬の祖国で。
***
目を覚ましたら、頬の辺りに血痕が付着していた。
身に覚えが無い、自分の血ではないと直感する。
(では、誰の血だ?)
ベッドの横に置いてあるナイフが、血脂で錆付いていた。
――おかしい。自分は、手入れを怠ったりしないから。昨日は仕事を終えて、早めに床についた――はずだ。
すぐに眠ってしまったのだろう、そこからあとの記憶はない。
(でも、その前にシャワーは浴びた)
首を傾げると同時に、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。沈黙でそれに答えれば、仕事に同行している部下の声がする。
「―――さん、おはようございます」
今行く、と声をかけて外に出た。一瞬頭の隅を何かが過ぎ去ったが、ほんの微かでわからない。
――わからなかったのだ、本当にその時、夜の記憶は失われていたのである。
煌めく朝日を浴びる代償に、奥底で嗤った《それ》には気付かぬまま。
( ――アア、 コイツ、も 殺さな クちゃ 。 )