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『これが私の世界だから』  作者: カオリ
第四章《慟哭》
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第四章《慟哭》:血涙カタルシス(2)


ぐしゃり、響いた水音が心地良い。生温くむせ返るような臭気に浸りながら、《それ》はただ口角を上げる。

微笑みの形に唇が凝固してしまったらしい。楽しいのかそうでないのか、自分が何をしているのか。ワカラナイ、分からない、解らない、解らない。どんどんわからなくなってゆく。


「――お、お前……!」


口元を歪めて笑みを濃くする。突き刺したナイフを捻ると、溢れるのは鮮やかな赤だった。

綺麗だ。昔はずっとずっと、この色を追い掛けていたのに。


「ど……うし、て」


さぁ、どうしてだろう?

《それ》はゆるりと首を傾げた。今自分は何をしているんだろうか。目の前の死にかけた肉塊が答えを教えてくれそうで見つめてみるが、結局回答を得る前に事切れてしまった。


(つまらない)


朝目覚める。一日を過ごし、日が落ちる。その後記憶が飛んで、気が付けばこんな惨状が広がっている。きっと目が覚めれば、また自分は困惑するに違いない。このような惨状を作り上げている今この瞬間を、綺麗さっぱり忘れてしまって。

お前、は

俺、は

私、

ワタシ ハ 誰 ?


考えるのは止めよう――《それ》はついと踵を返した。まだ体が血を欲している。まだ、足りないのだ。


――今はただ、血と涙と惨劇のカタルシスに溺れて。




***




“ヴィンセント・ホープ”という名の企業がある。ヴィンセント財閥の起こした巨大な取引会社だ。裏で不法の取引を繰り返し莫大な利益を得、その界隈を瞬く間に伸し上がったそこはしかし、トップの座を掴むと同時にある組織に吸収された。

その組織名をルシファー、今やその世界では知らぬ者の無い、数多の触手を伸ばし続ける巨大企業――その正体は一人の青年の立ち上げた、犯罪シンジケートである。

ルシファーはヴィンセント・ホープをはじめとした多数の組織を傘下に入れていた。それはヴィンセントのような財閥から中小企業、はては血気盛んなマフィアの一団までに及ぶ。

吸収という名の制圧にあい影も形も無くなったグループもあれば、表向きは独立したままで生き残り、実際の利益は全てルシファーに献上する形をとらされている所もあった。ヴィンセント・ホープは後者である。そしてそのような境遇のグループは例外なく、傘下からの解放を虎視眈々と狙っているのだった。


「ヴィンセント・ホープ……」


HOPE、などと名乗っておきながら随分物騒なグループだな、と千瀬はぼんやり考えた。お喋り好きの部下デューイ・マクスウェルによる解説で漸く判明した、今回の仕事相手である。

ヴィンセント・ホープはここ最近怪しい動きを繰り返しているのだった。利益の申告をあやふやにしつつ、どうも再独立の機会を探しているらしい。

一度気持ちの剥がれ落ちた相手を縛り付けるには、御灸を据えるのが一番効果的なのだと言う。しかしその“御灸”役が子供一人で、はたして効果は期待できるのだろうか。自分の幼い容姿を自覚している千瀬は小さく溜め息を吐いた。


「心配スか? チトセちゃん」


尋ねられて首を横に振る。なめられるに決まってる、なんて言わなくてもきっとわかっているだろう。デューイは千瀬に笑いかけると目の前の建物を指差した。

――今二人は大きな屋敷の前に居る。昨晩あの高級ホテルで一泊した後、日の出と共に出発したのだった。目的地はまさにこの屋敷、ヴィンセント・ホープの本拠地。

ジャッカは残りのメンバーを引きつれ、一足先に屋敷に入っていったらしい。表向きは穏便な話し合い――こちらから注意を呼び掛けるだけという形を取るのだが、そう簡単に行くはずないのはわかっている。


「チトセちゃんは裏から入って、屋敷のSP連中をサクッとのしてやってください。で、タイミング見計らってロッソさんと合流する。俺は誰も逃げ出さねーように見張りを仰せつかってるんで」


ここのSPは鍛えられてるらしいから、きっと暇つぶしにはなりますよ。そう言って快活に笑うデューイは、一体自分のことをどう思っているのだろうか、と千瀬は考える。

この青年は虐殺隊スローターの力を過信しているのかもしれない。千瀬の戦闘を見たことなどないのに、その能力を信じて疑わないのだ。

無論千瀬とて、負けてやる気など微塵もなかったのだが。

時間です、と青年が表情を引き締める。


「ご武運を!」

「また後でね」


デューイの声に背中を押されて屋敷の垣根を飛び越える。裏口に鍵が掛かっているのを確認しそれを刀の切っ先で突き壊しながら、唐突に千瀬は思った。


(てゆーか、一番物騒なのってルシファーじゃん……)




*




グレッグ・A・ヴィンセントは苛々していた。先刻からずっと目の前に腰を落ち着けている中年男の眉間を、懐の愛銃で打ち抜いてやりたくて仕方がないのだ。

名をジャッカ・なんたらと言うらしいその相手の男は(グレッグには覚える気すら起こらなかった)、先程からずっとこちらの――ヴィンセント・ホープの最近の不手際についてを昏々と説いているのだった。

馬鹿め、とグレッグは思う。目の前の中年はこの会談で全てを丸く収めるつもりらしいのだが、ヴィンセント側はこの機会を狙い続けていたのである。使者の男など叩き潰して、それを気に一気に傘下脱却を図りたい。


(タイミングが肝心だ)


問題はいつ殺すかだと心中で独りごちて、グレッグは背後に視線を送る。彼の後ろには先日ヴィンセントで雇った、ボディーガード兼殺し屋の巨漢が控えていた。漆黒の衣服で身を固めたその男は、グレッグの指一本でルシファーからの使者を葬るだろう。

ジャッカを殺すのはまだ先だ。こちらがルシファーの要求を飲むように見せ掛けた、その後。落とすならば一番上まで持ち上げてから、というのがグレッグのポリシーである。言うまでもないが、彼の性格はひどく捻くれていた(それはもう裏組織には持って来いの人材だ。)


ジャッカ・ロッソは相手が自分の名を覚えていないことに気付かぬまま一通り喋り終えた後、その懐から一枚の証書を取り出した。“ヴィンセント・ホープ”が今後も“ルシファー”に従うことを書き記した誓約書である。

ついに来た、とグレッグは口角を上げた。ヴィンセントの一族が、ルシファーの若造に一泡吹かせてやるときが!

グレッグはしおらしく証書に手を伸ばし、卓上の朱肉を引き寄せた。判代わりに押すのは拇印である。グレッグはその親指をインクに浸すふりをしながら、もう一方の手で殺し屋にサインを送った。送った、はずだった。


(!?)


その異変に気が付いて、グレッグの背を嫌な汗が伝う。なぜだろう、ボディーガード兼殺し屋の件の男はこちらを見もしないのだ。意図的に無視しているようにさえ感じる。


「おい、ウォール。ウォール!」


グレッグは小声で素早く囁いた。しかしウォールと呼ばれたその巨漢は俯いたまま、ぴくりとも反応を返さない。まさか居眠りでもしているのだろうか?

――計画が。グレッグは焦りを感じた。このままではまずい。


「ウォール!」

「どうなさいました、ミスター・ヴィンセント?」


ジャッカがその不自然さに気付かぬはずはなかった。問われたグレッグは思わず舌打ちして、次の瞬間その失態に気が付く。今まで温厚に話をしていた目の前の男が、手首の先から拳銃を滑り出させたからだ。


「……印を頂戴しましょうか」


低くなった声のトーンに身震いする。流石は犯罪シンジケート、脅しには慣れているのだろうか。

グレッグは歯噛みしながら証書に目を落とした。これに判を押せば全て終わってしまう。ルシファーを潰す前に、また力を封じられてしまう。


「……ウォール! 貴様、」

「その男に何をさせるおつもりで?」


ごり、とグレッグの眉間に銃口が突き付けられた。頼みの綱はまだ無視を決め込んでいる。

ルシファー側ははじめからわかっていたのだと、ここではじめてグレッグは悟った。ヴィンセントがルシファーに歯向かう機会を伺っていたことなどとうに知られていたに違いない。

……気が付いたところで、もう遅かった。


「……う、わあぁあぁあッ!」


動揺したグレッグは自らの懐から銃を抜き取り、真っすぐジャッカに向ける。幸いなことにジャッカの銃が発砲されることは無かったが、それ以上ぴくりとも動くことはできない。

駄目だ駄目だ駄目だ、焦りばかりが渦巻いてゆく。

隠すことなどできまい。もう知ったことか、とグレッグは大声をあげた。


「ウォール! こいつを殺せっ!!」

「その前にこちらが引き金をひきましょう」

「畜生、」


なぜ殺し屋は動かない?

全ての誤算はそこからはじまっていることを知っていても、もはやグレッグになす術はなかった。

例え彼が発砲してジャッカを殺しても、ジャッカの後ろにはルシファーからのその他の使者が控えている。勝ち目は、ない。


「畜生! SPはどうした!? 誰か、」


半ば錯乱した状態のグレッグだったが、屋敷に雇った要人警護の人間の存在を思い出し、必死の形相で声を荒げた。

瞬間、勢い良く彼のいる部屋の扉が開かれる。現れたのはSPの一人だった。それを見て直ぐ様グレッグは命令を下す。


「おい、こいつを取り―――、?」


押さえろ、と続くはずの言葉は宙に掻き消えた。SPの男が無言のままどさりと崩れ落ちたのである。その背後から現れた人影に、グレッグの目は点になった。


「……な、」


あんぐりと口を開くことしかできない。

先刻までSPの居た場所に立っていたのは、一人の幼い少女だったのである。


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