第四章《慟哭》:血涙カタルシス(1)
胸の辺りがざわつく、いやな感じがする。何故だろう、血の臭いがする、と千瀬はふいに思った。
(集中しなくちゃ)
千瀬は今現在単独任務の真っ最中である。駿やロザリーといったお目付け役(もとい教育係)から離しても問題がないと判断されるまでに、ようやく少女は時間と場数を踏んだのだった。
とはいえ、まだまだ新米の千瀬に重要難解な仕事は与えられない。今回の任務も極々簡単なものである。
「黒沼さん、準備は宜しいですか」
「あ、はい」
黒塗りのリムジンの扉を厳かに開けられて面食らった。千瀬に声を掛けたのは屈強な西洋人の男で、彼は今回の仕事で千瀬のサポートに回る人物である。要は千瀬に与えられた部下だ。
ジャッカ・ロッソと言うらしいその男は《ポート》所属の人間で、さらにEPPCの所在を知る数少ないうちの一人である。階級的にも〈ソルジャー〉である千瀬に従って当然の相手だったが、どうにも千瀬はそれに慣れなかった。
自分より遥かに年上の男が腰を低くし、さらには頭を下げたりする。やはり違和感は拭えない。
「出発します」
千瀬は無言で頷いた。黒のカッターシャツにネクタイを締め、スカートとブーツを合わせている。あの初陣と同じ格好だ。違うのは、少女の腰に差された一振りの得物。
ジャッカの他にも数人の男が千瀬の任務に同行するが、その全ての人間にロヴの“トランス能力”が施されていた。無論、ジャッカ等はそれを知らない。千瀬のほうが男たちと同じ言葉を喋っていると信じて疑わないだろう。
(便利だなぁ、)
すっかりこの不思議な現象に慣れてしまった千瀬は、のんびりと支給された飲み物のボトルに手を伸ばした。
相変わらずリムジンの窓は遮光フィルターで真っ黒である。勿論外は見えないし、目的地も知らされていなかった。ただ一つ、わかることは。
これから千瀬は、人を斬りに行く。
*
車に揺られて着いた先、千瀬が降り立ったのは豪奢なホテルの前であった。白塗りの壁が美しい巨大な建物に息を呑む。ロビーに入れば大理石の床に目を奪われた。ジャッカが先にフロントに向かい、幾つか言葉を交わしてカードキーを受け取ってくる。
ここが今回千瀬に与えられた待機場所だった。宿泊するのは千瀬だけ、部下にあたる面々は傍の別宅とロビーとに待機することになるらしい。
余りの待遇の良さに千瀬は辟易しつつ、いつぞや駿の言っていたVIPという言葉を思い出した。
(……なるほど。)
ルシファー本部では一部屋に押し込められている分、外で羽を伸ばせと言うことらしい。千瀬からすればこんな豪華な空間、なんだか落ち着かないのだが。
「チトセちゃ〜ん。コーラとオレンジジュースどっちが良いっスか?」
千瀬がロビーのソファーにぼんやり沈んでいると、突如背後から快活な声がした。千瀬はそれに笑って、オレンジ、と小さく答える。
はいどーぞ、千瀬にグラスを手渡しながら声の主はどっかり隣に腰掛けた。
「一人の任務は初めてでしょう? 怖くない? その刀使えるんスか?」
矢継ぎ早に質問を浴びせかける相手に、千瀬はやんわりと苦笑を浮かべた。質問に答える隙がないではないか。
親しげに語り掛けるこの青年は名をデューイと言う。年は二十を少し越えたばかりで、ジャッカと同じ《ポート》の人間だった。デューイ程の年齢でここまでの昇格は難しいので、余程彼は優秀なのだろう(ちなみにジャッカ・ロッソはもうじき四十になる。)
千瀬がデューイに頼まれて刀を見せていると――勿論触らせはしなかったが――突如後ろから怒号が響いた。
「マクスウェル!」
ジャッカの声だった。呼ばれたデューイ・マクスウェルはうへっと首を竦めてみせる。
「言葉遣いを慎めと言ったはずだ! 馴々しく話し掛けるんじゃない」
「へぇ、すんません」
ですがねぇロッソさん、デューイは悪戯っぽく千瀬に目をやりながら口を綻ばせる。千瀬は目線でそれに答えながらジャッカの顔色を伺った。
「チトセちゃん、まだ十四ですよ。話し相手がいないのは淋しいかと思いまして」
「その呼び方を改めろ!」
無礼をお許しください黒沼さん、そう言って頭を下げるジャッカに千瀬は慌てて両手を振った。堅苦しいのは嫌いだ、例え上司と部下だとしても。千瀬はデューイが気さくに話し掛けてくれることが嬉しかったし、咎める気など全くなかった。
ジャッカについても、はじめ黒沼“様”と呼ばれたのをどうにか“さん”で妥協してもらったのである。
「マクスウェル、黒沼さんをお部屋にご案内しろ」
「へぃ」
すまし顔でカードキーを受け取ったデューイにおとなしく千瀬は着いて行く。エレベーターに乗ったところで、堪えきれなかったように青年が吹き出した。千瀬も釣られて笑ってしまう。
「まったく、ロッソさんは頭が堅くていけねーや。ねぇ?」
「あたし嫌ですよ、あんな良い大人の男の人に頭下げられるの。極道みたい」
「ゴクドー?」
首を傾げた青年に、何でもないと千瀬は笑う。デューイは片手でカードキーを弄びながら、まぁ、と口を開いた。エレベーターが最上階に停止する。
「実際無礼者は俺なんスけどねー。チトセちゃんは正真正銘、俺らの上司だし」
「……別に、気にしなくて良いのに」
「組織ってのはそうもいかねーんですよ。ケジメってもんがあるんでしょ」
ふぅん、と少女は相槌を打った。いまいち、彼らが自分の部下という実感が沸かない。
千瀬は子供で、デューイやジャッカは大人だった。いくら千瀬に特戦隊(EPPC)所属の肩書きがあるとはいえ、ビジュアル的にはどうにも不釣り合いなのだ。そもそも子供がこんな所にいる時点で、一般常識からは逸脱していたのだが。
「チトセちゃんは今回の任務、俺らの指揮官かつ最終兵器ですからね。丁重におもてなししねーと」
神妙に頷くデューイに曖昧な笑いを返す。青年の言うことは半分本当で、半分は嘘だった。
任務の指揮をとるのは階級の都合上、表向きは千瀬だ。しかし実際はジャッカが代理で行うことになっている。
今回の仕事内容はルシファーのシマ――と言うと聞こえが悪いが、要は縄張り――の巡察かつ不穏分子の排除だ。傘下に入れている組織の懐まで入り込み、身勝手な行動を牽制する。政治的な意味合いも兼ねたこの任務に、千瀬のような子供の出る幕はない。
千瀬の役目はただ一つ、武力による制圧である。千瀬は兵器だ、それも極秘の。
「俺ね、虐殺隊の人と仕事すんのはじめてなんスよ。だから舞い上がっちまって」
至極嬉しそうに、そして誇らしげにデューイは言う。
“スローター”とは特戦隊の異名だ。漢字を当てると恐ろしいが、“Red Hands”よりは幾分聞こえが良い気がする。
「知ってます? スローターと仕事ができんのは昇進の証なんスよ。うちの組織は階級がわりとはっきりしてて、一番下層の《パース》連中はスローター……EPPCの存在を知らない。俺たち《ポート》にも幾つかグループがあるんスけど、その内の上部幾つかしかEPPCと関わりを持てねーんです」
機関銃のように喋り続けるデューイの横に並んで歩きながら、ああ誰かそんなことを言っていた気がする、と千瀬は思った。
同じ組織内の人間にさえ知らされることのない、首領直属戦闘部隊。そこに位置するのが千瀬なのだ。
「俺やロッソさんの所属グループは七見女史の直轄でね、お陰でちょっと上を覗けるわけですよ」
「ああ、月葉さんの」
月葉は《テトラコマンダー》の代表者なのだと聞いている。確かに《ポート》はその配下だった。
俺たちは運が良い、そういってデューイは笑う。
「EPPCの噂は《ポート》に昇格した頃から聞いてたんスよ。若い精鋭だとは言われてたけど、こんな女の子がいるなんてなぁ」
おっと失礼と慌てて青年が姿勢を正すが、余りにも感心したように言うので千瀬は笑いを禁じえない。
それは驚くだろう、組織の戦闘部隊がこんな子供だ。千瀬が刀を抜くのを見れば、さらに驚くに違いない。
「俺、まだ〈ハングマン〉は見たことないんスよ。反則みたいに強いらしいって噂だけ――いったいどんな強面なんだか」
巌のように屈強な男を想像しているらしいデューイに、千瀬は心中で吹き出した。
反則並みの強さを誇る〈ハングマン〉の正体が、まだ幼さを残す十代の少女と(見た目だけは)線の細い青年だと知ったらデューイはなんというのだろうか。
「あ、でも〈マーダラー〉はお一人だけ見たことがありますよ、偶然スけど」
「誰?」
ミクかルードか、はたまた恭吾か。ルードならばまたさぞかし驚いたんだろうな、そう思った千瀬が耳にしたのはしかし、全く聞き覚えのない名であった。
「アルファーナさんですよ。あの人外回りが多いらしいから、その時に偶々」
「……?、」
首を傾げた千瀬の前に、巨大な扉が立ちふさがった。金渕と同じ色の把手が金のかかり具合を示しているようで恐ろしい。
「さ、ここがチトセちゃんの部屋っスよー」
「……………。」
扉を開いた瞬間目に入ったのは深紅の絨毯。高級革ソファーとシャンデリア、ガラス張りのバスルーム、挙げ句の果てにはワインセラーまである。
最上階のスウィートをあてがわれた少女は、一人無言で途方に暮れた。
***
同時刻。東洋に浮かぶ小さな島国の一角で、静かに、しかし確実に異変が起こっていた。
……ずっ。 ……ず、 ……ずる。
《それ》は微笑みを浮かべた。最高の気分だ。まだ温かいものを引きずって、歩く、歩く、歩く。
地面と擦れた部分に、ざらつく血痕。紅の絵の具で線を描いているみたいだ、と恍惚に染まった頭の端で思う。
楽しい、楽しい。もっと絵を描こう。
昼間仕事をこなしていた自分と日が落ちた後の自分の違いは、いまや《それ》自身判別ができていなかった。数日前は確かな異変を感じていたのに、今は何も解らない。
夜の間に自分が何をしていたか、朝が来れば忘れてしまうのである。
(おもて、の自分は何もわかっていない。いま、の自分も、何をしたか、も。)
(おもて、はダレ? 今はドチラ? 自分は、自分、は、)
狂っていく。少しずつ、確実に。
ゴキンと音がした。死体の首を持って動かしていたために、根元から折れたのだ。
不自然な方向に曲がった首から白いモノが飛び出してしまったので、道端に投げ捨てる。
壊れた玩具の襟元には、アルファベットの刻まれた瑠璃色の紋章が付けられていた。
――――“PORT”