第四章《慟哭》:少女と刀と(1)
ぴりりと感じる鈍い痛み、同時に頬に一筋の紅い線がひかれる。そこから流れ出した血を拭う間もないまま、千瀬は強く地面を蹴った。
鯉口を切った刀は涼やかな音を鳴らし、引き抜けば煌めく銀の太刀。握りを僅かに変え、勢い良く後方へ刄を薙ぐ。
「……あれ」
しかし狙ったはずの場所に目標の首はなく、そのまま少女は動きを止めた。
確かに取ったと思ったのに。手応えはおろか擦った感触さえ無い。
「――何をしている?」
こっちだ、と声がした。千瀬がそちらを見れば、ターゲットであった筈のエヴィルが怪訝そうに顔をしかめる。
銀の髪をした青年は何時の間にやら、千瀬の遥か後方で退屈そうに胡坐をかいていた。猛禽のような目が細められ、その鋭い視線に千瀬は体を強ばらせてしまう。
エヴィルの片手には一丁の拳銃が小口を構えていて、それだけで少女は自身の命が現在進行形で彼の手に握られていることを知った。
「……本当に、俺を殺す気でやってるか?」
やりましたとも。声にならない声で呟いてから、千瀬は本日四度目の敗北宣言を口にする。参りました、と。
*
遠征組を見送って暇を持て余していた千瀬のもとに、ミクとエヴィルが現れたのは、三日ほど前の話になる。
「訓練、ですか?」
「そ」
現れた幹部を前に千瀬は素っ頓狂な声を上げた。突然、稽古の場を設けるから参加しろと言う。驚く千瀬など気にもかけず、目の前に立つミクは事も無げに一つ頷いた。続いて口を開くのは無表情の青年。
「ロヴの配慮だ。お前は、実践経験が少ないから」
エヴィルの言葉に、はぁと千瀬は返事をするしかない。人工的な光を浴びて輝く青年の銀髪を間近で拝みながら、なんでわざわざ、と千瀬は考えた。
「あたし達が交互に相手をするわ。どう?」
獣を思わせるエヴィルの瞳はミクの髪と同じ色だ。階級の違う二人の組み合わせに少々の疑問を感じつつ、しかし千瀬はしっかりと首を縦に振った。
自分が暇であるということを除いたとしても、何時どう動いてくるのかさえわからない“カーマロカ”への不安を考えれば自ずと答えは決まってくる。
第一上司直々の申し出を、断ることができようはずもないのだが。
「……お願いします」
その返事に気を良くしたのか、うん、とミクは笑った。
〈ハングマン〉と〈マーダラー〉の階級に君臨する者が、〈ソルジャー〉の実践訓練に動員される。
それが前例のない異例の待遇であることを、千瀬は知らない。
*
斯くして千瀬の実践訓練は始められたのだったが、それは“訓練”と呼べるほど生易しいモノではなかった。この大変さは、千瀬の知っている言葉では形容し難い。
訓練内容は以下の通りである。千瀬は先日与えられた日本刀を片手にミクかエヴィル、どちらかとの真剣勝負を行う。一応殺しは無しで(一応、と言う点に激しく不安を覚えた)、動きを封じられた時点で敗け、というものだった。
一見して単純なこのルール、実はかなり酷な内容である。千瀬はこの三日間というもの、食事睡眠と僅かな休憩以外は動き通しであったし、何より実践の相手が桁外れに強かった。強いとしか言い様がない。
次元が違う、と何度心中で呟いたことか。証拠に、訓練を始めてから千瀬はまだ一度も相手へ満足にダメージを与えられていなかったのである。
カルバラで高村という刀鍛冶から買い取った刀を使用する千瀬に対し、相手は二人とも素手であった。(しかしチェックメイトの瞬間にだけは、どこからともなく銃やナイフを取り出してくる。)
初めこそ丸腰相手に大怪我でもさせてしまったらどうしようかと思っていた千瀬であるが(刀の寸止めは苦手だったので)、それはものの数秒で杞憂に終わった。
殺す気で来ても構わないと軽く言い放った後、まだ躊躇する千瀬の頸動脈目がけて痺れを切らしたエヴィルのナイフが飛んで来たのはまだ記憶に新しい。その勢いは、彼のほうが千瀬を殺す気でいたのではないかと思うほどある。
以前駿からエヴィルの好戦的な性格について注意を受けていたことを思い出し、千瀬の体温は急激に低下した。
殺し無しのルールは千瀬の命を護る為だけに存在していたのだと、この瞬間少女は悟る。
半ば強制的に刀を抜かざるをえなくなった千瀬であるが、彼女の新しいパートナーとなった漆黒刀の切れ味には驚愕させられた。
あの日ピュティアスらと一戦交えた時には気が付かなかったのだが、かなりの名刀だ。何度エヴィルに吹き飛ばされようと、刃零れ一つしないのだから。
高村の打った刀は振るう毎に手に馴染み、真剣の重さなど感じさせぬ程に千瀬の意の儘に動いた。
千瀬自身にもわかるのだ、太刀の動きが、一振り毎に格段に速くなっていっていることが。それでもエヴィルとミクに傷を負わせることさえ叶わなかったのだが。
(……本当に強い、)
千瀬はそっと手元に視線を落とした。(一応)殺し無しとはいえ、本気を出さなければ殺られるかもしれない――それを感じ取った為、今や千瀬の攻撃は全力である。
にも関わらず、一時間ほど前に千瀬の放った渾身の一撃は――ミクの左胸を確実に捉えてしまったはずの一太刀は、彼女のブーツのヒールに刀ごと弾き飛ばされてしまったのだった。
「それじゃあ、休憩にする?」
そして冒頭の通り、またしてもエヴィルの動きを追いきれなかった千瀬はミクの声を耳にして肩の力を抜いた。本日初めての休息だが、昼食にはまだ少し早い。どうやらミクの気紛れらしいが、千瀬はありがたく頂戴することにする。そうでもないと体力が保たないのだ。
訓練は廃棄場を利用して行なわれていた。異臭にさえ慣れてしまえば(あまり喜ばしいことではないが)広いスペースを保持するこの場所は訓練には丁度良いのである。勿論、今ここに廃棄すべき“ゴミ”はない。
しかし時々箒を片手に、黒のゴミ袋を引っ提げた老婆がやって来るのだった。まさに、掃除婦のような出立ちの。
(………誰?)
質問のタイミングを逃した千瀬は首を傾げることしかできない。今度見かけたら聞いてみよう、と小さく心に誓った。
「差し入れ持ってきたぜぇ、チトセ」
突然上空から声が降った。どこからともなく現れたルードが、奇妙な形の果実を持って隣に座り込む。偶然か、休憩時間ぴったりに合わせたような登場だ。
この少年はどこからか千瀬の訓練の話を聞き付け、こうして度々顔を出していた。
見学だけで帰る時もあれば、千瀬と一戦交える時もある。大抵はルードがお得意の“超能力”を使って勝負にならなくなってしまい、見かねたミクが止めに入るのだが。
差し入れ、と差し出された果物を目にした千瀬はぱちくりと瞬きを繰り返した。
どうしてこんなものが?
「これ、柘榴じゃない」
「へぇ、ザクロっていうんだ。ロヴに貰ったんだよ、珍しい食いもんだって」
言いながらルードが柘榴を口に放り込み、よくわかんねぇ味、と呟く。
千瀬は懐かしい日本の果物を手の中で転がしながらルードの隣に腰を下ろした。
柘榴の果実は人肉の味。そんな話を聞いたような気がしたが、隣の少年に言うのはやめておく。はたしてそれが本当に柘榴の話だったのか、千瀬の記憶は曖昧だった。
少女が日本にいた頃の思い出は日々薄れている。ここでの生活が積み重なっていくにつれ過去が流れてゆくのは自然なことなのだろうが、余りにも簡単に消えていく自分の記憶に千瀬は少々不安を覚えていた。
(あるつはいまー、とかだったりして)
悲しむべきは、不安に思うポイントがズレているのに本人が気付いていない点である。
「食わねぇの?」
「あ、いただきます」
ぷちりと口内で果実が弾ける。人肉の味なのかはわからなかった(人の肉など食べたことが無い、当たり前だ。)
千瀬は思い切り伸びをする。彼女はこの“休憩時間”が好きだった。それは体を休めることができるからではなく、様々な話を聞かせてもらえるからである。
ミクやルード、それから冷酷なイメージのあるエヴィルまでが、この時間中に色々なことを語ってくれるのだ。
千瀬の知らないルシファーについてや、彼らの過去の一ページを。