第四章《慟哭》:晩餐に祈る
この世の中は溢れるほどの不条理と、一握りの虚勢で出来ている。
幸せだと信じるそれは、きっと貴方の願望なのだ。
実は誰もが知っていた。
生き物は皆死に向かって時間を過ごし、歩いても辿り着けない場所があり、見えない何かに縋ってさえ、予感がしたときはもう手遅れ。
(知っていた)
(知らないふりをした)
パンドラの開けた空の箱に黄金の蝶を描いて、救いを求めた我々は(本当は希望など残っていなかった。)
いつしかそれすら忘れて、偽善の中で生きるのでしょう!
(空を舞う天使の皆さん、その翼は本物ですか?)
さてここで言う者がある。
なら我々はせめて、世界を見返して逝こうじゃないか、と。
(他人の血糊で貼り付いていた偽りの翼なんぞ、剥がして捨てれば良いのです。)
“天に背け” “神を欺け”
声高らかに復唱したら、ほうら行く先が見えませぬか。
堕ちるところまで墜ちて見るのも、これまた一興!
『これが私の世界だから』4
「乾杯!」
ぶつかり合うグラス、カラン、カランと氷の音。
ルシファー本部の中枢、ここ大広間には現在多くの組織員が集結している。今ここで催されているのは盛大なパーティであった。通称、“最後の晩餐”。
某有名絵画の名を拝借したこの会食は、この組織では頻繁に行われる催しの一つである。不吉な呼び名であることを気にする者は無い。何故ならそれは整然たる事実だからだ。
「どの位留守に?」
「それぞれだけれど……私の場合は一ヵ月ってところかしら」
上質のワインを嚥下しながらサンドラが言う。質問の答えを得た千瀬はふぅんと一つ頷いて、長いテーブルに並べられた豪華な料理に目をやった。
次の任務が決まったのだ。今ここで行われているパーティは、これから遠征(本部外での長期任務)に向かう組織員を送り出すためのお決まり行事らしい。
全員が無事に帰って来られるかわからないから、“最後の”晩餐――などと、冗談にしては笑えない呼び名を考えだしたのは誰なのだろうか。
「チートセ! お前も飲めよ」
ホールの端、壁にゆったりもたれながら駿が缶ビールを振る。隣にいるロザリーは早々に酔い潰れてしまったらしく(小さな体には酒の回りも早かったのだろう)すやすやと寝息を立てていた。
「未成年……」
「関係ねェ」
ここではロヴが法律だ、と十七歳の少年はアルコールをあおった。(この組織の首領は酒に滅法強い。)駿に勧められるままにビールを口にして、咄嗟に千瀬は眉を寄せた。
(……へんな味)
少女が酒を口にするのは実はこれが初めてである。日本という国の決まりを考えればそれは当然だったが、彼女には一般家庭でしばし見られる、親が子に冗談半分味見させる――といった経験さえ皆無であった。
煙草は吸わないくせに酒には強い駿が、顔を顰めた千瀬を見て笑う。
「お子ちゃま」
「ウルサイ」
小さく丸まったロザリーに上着を掛けてやりながら、駿は三本目の缶を開けた。まだまだ余裕が見えているが、そんなペースで飲んでも平気なのかと千瀬は首を傾げた――今回の遠征には、駿も参加するのである。彼は春憐と組み、台湾に派遣されることになっていた。
今回遠征に向かうのは、駿と春憐の他にサンドラ、シアン、ツヅリ、ハルと朝深。うち四人は前回の任務に引き続いて二連続となる。ここにまだ日の浅い千瀬は居残りだ――とはいえもう仕事にも慣れていたし、それ相応の実力はあるのだが。
サンドラと朝深は単独任務で、他何組かは武器調達が目的と千瀬は聞いていた。
そして、菫は彼女本人の予想どおり、本日付けでまた別の地での勤務に移ることとなったらしい。情報処理に長けた少女は本部から離れたところで、影よりルシファーを支えることになるのだろう。
(後でお別れを言いに行かなきゃ)
淋しい、と思った。友達のいたことがなかった千瀬の人生で出会った、同じ年頃の女の子。菫が離れていってしまうことに感傷を覚えながら、しかし千瀬はそれで良かったと思う。
戦闘に不向きの彼女は、いつまでも前線にいるわけにはいかないのだ。きっとこの先、大きな仕事が待ち受けている。
〈ソルジャー〉による遠征とは別に、“ある仕事”に備える為に恭吾とルカも出掛けるのだという。千瀬はその仕事が“対カーマロカ戦”を示していることを知っていた。これを知っているのは未だ、〈ソルジャー〉の中では千瀬だけである。
(……ユリシーズ、)
千瀬の耳にはまだあの少年の声が残っている。耳元に直接囁かれる様な、寒気を伴う、あの声。
何だか嫌な感じだ、と千瀬は思った。あの少年の存在も、この晩餐会も。不吉な気配が拭えない。
「何だよ、お前。寂しいのかぁ?」
「……ばか」
黙りこくってしまった少女の顔を駿が覗き込む。憮然として返答を返しながら、その様子に笑った駿の顔を見て千瀬は無性に泣きたくなった。駿だけじゃない。ここの人々の笑顔は皆、千瀬の胸を締め付ける。
泣きたいだけで泣けないのが不思議だった。千瀬はもうずいぶん、泣くということをしなくなって久しい。
「――あらあら。どうしたのチトセ。酔っちゃったの?」
それともシュンにいじめられたのかしら、いじめてねぇよ。二人のやり取りを聞きながら、千瀬はくしゃりと顔を歪める。
これはなんだろう、と少女は考えた。優しく笑うサンドラを見ると、心の底から切なくなる。
「酔ってませーん。何でも、ないよ」
言いながら、千瀬はぎこちない笑顔を浮かべた。今自分は笑えているだろうか、考えながら目線をあげる。背の高い仲間の顔を覗き込んだ瞬間、上から何かが降ってきて千瀬の頭に着地した。それが駿の手だとわかったときには、滑らかな黒髪をくしゃくしゃと撫で回されていて。
「ほら、まだ夜は長いんだぜ? 次行くぞ、次」
切なさと愛しさで押し潰されそうになりながら千瀬は祈る。どうしよう、こんなにもう、大切になってしまった。
(嗚呼、みんな、大好きだよ)
あの少年の冷笑が消えない。嫌な寒気もしていた。千瀬がこれが予兆であったことに気付くのは、全てが終わった後の話になる。
この二月後に失うものを知らない少女は、ただ願うことしかできなかったのだ。
(お願い。この安穏を、もう少しだけ)