第三章《はじまり》:狂う歯車(5)
ぴくりと少年が肩を震わせる。羽織った外套をはためかせ、座っていた場所から地面へと飛び降りたユリシーズは目を細めて黒髪の少女を見つめた。ルカもそれに合わせるかのように地上へと舞い降りる。双方足音もたてぬその動きは猫よりも身軽であった。
「……僕を、殺せるの」
「見たいの?」
少女がそう言うやいなや、確実にまた一つ空気が重量を増した。耳鳴りが酷い、千瀬とルードは圧迫感に思わず身を捩る。
潰れてしまう、と千瀬は思った。これは何なのだろう、ここにいるのは、だれ。
ユリシーズはそんな中で心地よさそうに目を細めていたが、その首筋に薄らと汗が浮かんでいるのを少女は見た。
(駄目だ)
何が駄目なのかはわからない。それでも何か、あってはならないことが今起ころうとしている。
刹那、めき、と何かに亀裂が入るような音が響き渡った。重圧に耐えかねた路地の壁が軋む音。足元から何かが這い上がるってくるような感覚に捉われて、千瀬は体を震わせた。
(何かいる)
ぞわりと蠢く何か。無音の気配が多数犇めきあい、沸き上がってくる。どこから、そう思って何とか首を捻った千瀬の瞳にルカの背が映った。揺らめく黒髪に目を奪われた後、そのまま視線を彼女の足元に落とす。瞬間、千瀬は大きく目を見開いた。
「ルカ姉、止めろ!」
ルードが叫び声をあげたのと、“それ”が見えたのはどちらが先だったか。
ルカの足元が仄かに発光していた。煉瓦とコンクリート敷きの道しか無いはずの地面、そこに立つ少女の足元に円形に広がった影のような何かがごぽりと音を立てて泡立つ。千瀬は自分の目が信じられず、ただそれ一点を凝視することしかできなかった。一体あれは、
「――ルカ!」
もう一度叫ばれたルードの声、その切迫した響きに黒髪が揺れる。はっと顔を上げたルカの下から仄明るい光がさっと消え失せた。同時に千瀬の感じていた君の悪い気配も嘘のように消失し、身体も自由になる。
ぐらりと傾いだ身体を立て直し、千瀬は周囲に目を走らせた。地面の至る所に亀裂が入っている、それ以外に変わりはない。再び訪れる静寂。
「……どうして、」
どうしてやめるの。絶望的な響きを帯びたその声はユリシーズのものだった。少年は悲しそうに顔を歪め、どうして、ともう一度呟く。
ルカはそんな彼からふいと目を逸らし、ゆるりと一つ頭を横に振った。
「――ユリシーズ様」
その時淡々とした声が割って入る。今までどこに控えていたのか、少年の二人の従者が地に膝を付いて頭を下げた。女がどこか遠くに視線を彷徨わせながら、ユリシーズに届くぎりぎりの声量で囁く。
「……サブナック様が。こちらに向かわれています」
「バレたか」
時間切れだ。苦々しげにそう吐き捨てると、淡い巻毛の少年はさっと踵を返した。それに男女の下僕が続く。
「……おい、テメェ!」
呆然とそれを眺めていたルードが思い出したように罵声を浴びせかけると、ユリシーズはその首だけをこちらに捻った。蒼い瞳が瞬いて、すっと細められる。
『――諦めないよ』
ぐわん、と響くような声が聞こえた。しかし上質な上着に覆われた肩越しに見える顔、少年の唇は固く閉ざされたまま。動かさない口からではなく、頭に直接言葉が聞こえる。諦めない、ユリシーズはもう一度そう告げた。
『きっと後悔する。今日ここで、僕を殺さなかったこと』
頭の芯を締め付けられるような痛みに千瀬は小さく呻いた。特異な能力を持つ少年。ルードや、そしてルカのように。
(……能力者)
千瀬の見つめているその先、ユリシーズの瞳の中でちらちらと火炎が踊っていたのは気のせいだろうか。
真偽のほどは終ぞわからなかった。千瀬が思わず瞬きをしたその一瞬で、少年とその従者は影も形もなく消え失せてしまったからである。一吹きの熱風と共に。
(何かが狂う音がした)