第三章《はじまり》:狂う歯車(4)
辺りを取り巻く空気が凍結した。そう感じる程に重々しく、ピリリと音が聞こえるまでに張り詰めたそれの中でくすくすと笑い声が漏れる。色を無くした空間でただ一人、鮮やかなのは笑う少年。
「……ルキフージュ?」
恐々と呟かれたルードの声は黙殺される。四人の人間がいるはずのこの場所で、未だ忍び笑いを洩らす未知の少年のだけが圧倒的な存在感をもっていた。
傍にいるはずの、ルカの気配が感じられない。けれど首を捻ることさえできぬまま千瀬とルードは立ち尽くしている。
――刹那、二人は背後の空気が急激に変化したのを感じた。触れているだけで体温がどんどん下がってゆく、異様な気配を纏った何か。
「……その名前を」
それが、ルカから少年へと発せられる禍々しいほどの殺気だと気付いた瞬間、千瀬は体中の血液が逆流するかのような錯覚に囚われた。息が、くるしい。
「どこで、きいたの」
それは千瀬に向けられているものではないのに、彼女の足は竦んで言うことをきかなくなってしまう。止まる事無く少年へと溢れるそれが皮膚を打って痛い。憎悪と怨嗟と、そういうものが一緒になって混ざりあっているようだ。いつも笑みを浮かべている黒髪の少女がこんな感情を持っていることさえ、千瀬は知らなかった。
(ルカ、)
千瀬の声は届かない。きっと声を出すことにも失敗してしまったのだろうが、少女にはそれさえわからなかった。立っていられない、目を開けていられない、これは畏怖だ。
代わりに答えるかのように声をあげた少年を、顔を歪めてルードが睨む。
「……あは! あはははははッ!!」
とうとう堪え切れなくなったのか、少年は狂ったように笑いだした。目に涙を浮かべ、この上ない行幸に巡り合ったかのような表情で体をくの字に折り曲げる。
「あはッ! 見つけた!! 本当にこいつだったよ!!!」
少年は腹に手を当てて笑い転げる。ひとしきりそうやってきゃらきゃらと騒いだ後、不意に真剣な表情を浮かべた。そして真直ぐにルカを見つめ、無垢な笑顔を作ってみせる。
「……僕の名前はユリシーズ。ギリシアの英雄の名を与えられた男です。って言っても、この名前はラテン語だけどね」
オデュッセウスって言ったほうがわかるかな? 言いながら、ユリシーズはゆっくりこちらへと歩み寄る。
そして無遠慮に、依然として殺気を放ち続けるルカの腕をとると芝居じみた仕草でその手の甲に口付けを落とした。
「貴女の大ファンです。ルキフージュ……いや、ルカ」
ルカがすんなりと少年――ユリシーズが身体に触れることを許したのに驚く千瀬の目の前で、次の瞬間パァンと乾いた音が反響した。
少年の身体が大きく弾けた。牛を用意に蹴り飛ばすほどの力を持つルカの平手打ちが、ユリシーズの頬に打ち込まれたのだ。そのまま彼は勢い良く弾き飛ばされるが、体が地面に着く前に態勢を整えふわりと立ち上がる。そして、にこりと笑みを浮かべた。
「初めて君のことを知ったのは三年くらい前になるかな。組織の文献を漁ってたら、トリクオーテの消滅についてのレポートが出てきたんだ。十一、二年前の物だったかなぁ」
ちょっとこの辺の記憶は曖昧なんだけどねー。ユリシーズは片手でやんわりと頬を擦りながら、上機嫌で続ける。
「レポートを読んで驚いたよ! トリクオーテを跡形もなく消滅させたのは、当時六歳ぐらいの女の子だって言うじゃないか!!」
じり、と再びにじり寄るユリシーズの動きに反応したのか、ルードが千瀬を庇うように一歩前に出た。
ルカはただ、少年を見つめたまま。千瀬はぼやけた視界を取り戻そうと瞬きを繰り返す。そうするうちに、なんとか腕中の刀の重みを思い出した。
「その日から僕は君の虜になったよ。絶対捜し出して、重犯罪者の君を僕が裁くんだ、って。それから二年かかって、当時その子がルキフージュと呼ばれていたことと、ルキフージュが今はどこかの犯罪組織に所属していることを突き止めた……貴女ほどの人がシンジケートの幹部に甘んじているなんて。今の貴女は、真の実力を隠してるんだ、そうでしょう……?」
悪魔の子、破滅の子、殺戮の申し子、なんて素敵!
指折り数えながらユリシーズはうっとりと喋り続ける。その目はどこか虚ろで、ドラッグの中毒症状を想起させた。
「……やっと。やっと会えた。僕らの言う“裁く”っていうのはね、世界に害をなす人間の抹消――文字通り、消すことなんだ」
ユリシーズは笑う。
そうさ、もうわかるだろう? 僕の夢は、
「僕の夢は――君を殺すことだよ、ルカ」
少年はうっとりと夢見心地でそう吐いた。同時に、千瀬の悪寒は確信へと変わる。
胸に抱いていた刀を掌に持ちかえ、そっと柄に触れた。馴れ親しんだ、鯉口を切る動作に時間は掛からない。
そんな千瀬の動きを見たルードが、口をあまり動かさずに囁いた。
――ギリギリまでやめとけ、お前はまだきっと、“こういう相手”に耐性がない。
臨戦体勢の子供二人にユリシーズは目を止め、しかしそれには気付かなかったように視線を逸らす。
彼が見ていたのはルカだけだった。追い求めた少女だけに向けて少年は笑う。嗤った、のだろうか。
「ねぇ、どうやったら貴女は本気になってくれる?」
恍惚。それはそう形容するのに相応しい表情だった。
次の瞬間彼は左手の指をパチンと慣らすと、二言、簡潔に言葉を言い放つ。
「ダモン、ピュティアス」
それが人間の名前だとわかったのは、少年がそう言った途端千瀬達の目の前に二つの人影が躍り出たからだ。子供たちは咄嗟に身体を硬直させる。一体、どこから。
「ユリシーズ様」
「ご命令を」
黒のコートに身を包まれた二人組だった。声のトーンで一方は女であることがわかる。ユリシーズ本人よりもずっと背の高い彼らは地に跪いて首を垂れ、そして少年は現れた成人の男女に向けてにこやかに告げた。
「殺れ」
御意、と二人が呟いたのが聞こえたのと、ルードが動いたのはほぼ同時。一瞬の跳躍で土煙が舞う。
次の瞬間、ダモンと呼ばれた男が懐からジャックナイフを取り出した。
「オレがやる」
「ルード!」
ルカの制止には耳を傾けようともせず、ルードは一方向目がけて飛び出した。得物を構えた男には見向きもしない。ルードが狙うのは最初からただ一人、ユリシーズ本人だったのだ。
ルードが勢い良く腕を振るうと、服に仕込まれていたスローイングナイフが袖口から彼の手の中に滑り出す。少年は右手に握ったそれを、こちらに向かってきたダモンに投げ放った。続け様にもう一本、さらに一本。何処に隠していたのか、投擲したナイフは計七本にも及んだ。
相手の男が手持ちの得物でそれを弾くのを見計らって、ルードは更にもう三本スローイングナイフを取り出した。それらを構える間もなく男の死角から別の方向へ投げ飛ばす。手首のスナップのみで放たれたナイフのその先、狙いはユリシーズだ。
しかし完全に不意を突いた攻撃だったにも関わらず、ユリシーズは首を僅かに傾けただけで全てのナイフを避けてしまった。
「……ちぇ」
口惜しそうに顔を歪めるルードの背後に降り立ったダモンがナイフを構え直して再び彼と対峙する。
一瞬の攻防のうちに為されたそれらの動作、その早さに千瀬は目を見開いた。少女が動く間さえなかった。
投げられたナイフは未だ宙を舞ったまま。ルードはそれをちらりと確認すると開いていた右手の掌を男の前へ突き出し――ぎゅ、と拳を握り締める。
(また、)
空気の重みが変わった。千瀬が先刻経験した、重量の変化したような、磁場の狂うような妙な感覚に身体を擽られる。同時にユリシーズもそれを感じ取ったのか、ぴくりとその柳眉を寄せた。
ふと顔をあげたダモンが異変に気付く。
「ユリシーズ様、」
男は僅かに焦燥を滲ませた声で警告を発した。彼自身の受け流したものやユリシーズが避けたもの、全てのスローイングナイフが空中で静止していたのだ。刃物が宙を漂いながら煌めくその光景は異様としか言い様がない。ダモン自身の握っていたジャックナイフや辺りに散らばっていた小石、煉瓦片すら何時の間にかゆらりと宙を舞っている。
ユリシーズがすぅっと目を細めたのを見やり、ルードがにこりと笑った。
「お前が、消えちまえ」
吐き捨てるようにそう言った後、ルードは握りこぶしを作ったままその手首をくんと折り曲げた。
次の瞬間、全てのナイフが意志を持ったかのようにぐるりと向きを変える。それらは小刻みに震えた後、そのまま凄まじいスピードただ一点、ユリシーズ目がけて襲い掛った。飛行とも落下とも言い難い凶器の雨が土埃を上げる。そのあまりの勢いに、金属音に混じって爆音のようなものが鳴り響いた。
「馬ッ鹿じゃねェの、」
オレ達に喧嘩売るなんて。
宙に浮いていた全ての物が無くなったのを確認して、ルードはその場に背を向ける。
それは一連の幕引きに思えた。
「――ルード!」
瞬間千瀬は叫び声をあげた。土煙がおさまり、ユリシーズが居たはずの場に何もない――死体さえも、だ。
僅かに抉れた地面にナイフが突き刺さり、その周りに砕け散った無数の石片が落ちているだけ。
「どこに……!?」
刹那、千瀬は日本刀の鞘を抜いた。突然背後に現れた女の一撃を辛うじて防ぎ、相手の首を狙って太刀を振るう。
ヒュン、と風を切る音が空に響いた。刀は女――ピュティアスと呼ばれていた――の髪の毛を数本落としただけで、そのまま女は塀の上に跳躍する。
「あははっ! 皆なかなかやるんだぁ。そっちの女の子まで戦えるなんて、予想外」
声が聞こえた先を見やれば、呑気に頬杖をついたユリシーズが楽しそうに笑う。
彼は三メートル以上ある街灯の天辺に腰掛け、千瀬達を見下ろしていた。
「あいつ……!」
塀の上のピュティアスは灰色がかったの長髪をはためかせ、同じように下を見つめている。その横にはいつ移動したのか、背の高い男・ダモンが悠々と立っていた。先刻ルードの攻撃に巻き込まれていたにも関わらず、外傷はないに等しい。
二人はユリシーズの下僕なのだろうか。風に乗って流れてくる血の香りが彼らからだと気付いて、千瀬は眉をひそめた。
(……これが、“正義の味方”?)
仮に敵対する関係であることを除いても、千瀬には、自分達よりユリシーズのほうがよほど歪んでいるように思えてならない。
一体何者なのだろう、と少女が再び思考を巡らせる先で、うーん参ったなぁと当のユリシーズは小首を傾げていた。
「君達を殺せばルカが本気になってくれると思ったのに……一筋縄じゃいかないね」
再び首を傾ける少年の前に、とん、と影が降り立った。ユリシーズの座るものの、真向かいにある街灯の天辺。ふわりと広がった黒髪を見て少年が目を細める。ルカの重力を感じさせぬ動きに、千瀬は驚愕するしかなかった。
「私を殺したいの?」
「……とっても、とーってもね。でも、貴女の本当の力を知らないと殺せない。興味があるんだ。貴女の能力の謎を、真の力を、知りたい」
にこりと笑みを浮かべて答えるユリシーズに、知ってどうするのかとルカは問うた。
お互い口調だけは穏やかだ。けれど周囲を取り巻く空気が、それは見た目のみであることを告げている。
「さぁね、確かめたいことはあるけれど……とにかく好奇心さ。でも、その為には手段を選ばないよ。本気で――消しに行っちゃうよ? 君の大切なもの」
僕の所属する組織なんて関係なくとも、僕個人で、必ず。そう言って笑う少年を見つめながら、千瀬は全身の血が凍ってゆくのを感じた。
(狂ってる)
ユリシーズがルカに抱いているのは、愛情でも憎悪でも羨望でもなく、ただの所有欲だ。質の悪い、独占欲。
ねぇ、ねぇルカ。ユリシーズは歌うように語りかける。
「“あの場所”はどうだった? 僕に本当のことを教えてよ。《悪魔》と呼ばれる所以となった、あの――――」
「あなた、ユリシーズだっけ。……そろそろ」
ゾクリと千瀬の身体震えた。ルードもそれに気が付いたのか、二人の間に緊張が走る。ルカの顔から、表情が消えた。
「……死ぬ?」