第三章《はじまり》:彼らの日常B
駿とハルは仲が良い。――と周囲からは思われているが、それは違うと本人達(主に駿)は思っている。
たまたま年令が近くて、性別と出身国が同じだっただけのことだ。それならば朝深やツヅリもそうである。しかしここに入隊するまでは真面目に生きてきたつもりの駿とは違って、ハルは根っからの不良属性で、やたらと駿に絡みたがるのだった。今のように。
「で、どうなのよ」
「ンだよ」
「さっきから言ってんだろー、好みのタイプだよ、タ・イ・プ!」
「……ちょ、ハルお前マジ黙っててくんない」
わざわざ一言ずつ区切って発音する彼に、駿はげんなりとして溜め息を吐いた。
青少年なら誰しもが一度は語らう話題であったが、彼らの生活する環境には酷く不釣り合いだ。
この不良少年、どうやら真っ昼間から酔っているらしい。
顔色は普段と何ら変わらないが、ハルからはぷんぷんと酒の良い香が立ち上っていた。
長い遠征から解放されて一息つきたい気持ちはわからなくもなかったが、これでは行き過ぎだ(ハルの後方には遠征時に日本で買ってきたのだろう、某有名社のチューハイやらビールの空き缶、それからウイスキーの瓶が転がっていた。)日本では十九歳以下の男を“少年”と表すらしいのだが、これではまるで悪酔いしたオヤジのようだと駿は思う。未成年の飲酒については言及しなかった。何を隠そう、駿自身もわりと飲むので。
「つれねェなぁ、おい、しゅーん」
「あーあーもーお前、酒より煙草臭い。あっちいけ」
この酔っ払いをどうにかしようと視線を彷徨わせれば、部屋の端に人影を捉えることができた。それはツヅリと朝深であったのだが、二人とも我関せずといった様子でこちらを見もしない。朝深にいたっては何やら熱心に手持ちの刃物を研いていて、下手に声をかけるとそれが飛んできそうな空気を発していた。
くそ、と駿が悪態を吐くと同時に酔っ払いが爆弾投下。
「あぁー、わかった。シュンは妹がタイプね、シスコンだもんな!」
「死ねェェェェ!」
この組織においての死刑宣告は冗談では済まされない。駿は半ば本気だったのだが、それはあるものに気を取られて未遂に終わる。彼が懐からナイフを取り出したのと、どこかで何かが破裂したような大きな音が聞こえたのは同時だった。
*
――がしゃああぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁぁんん。
いっそ清々しいまでのドップラー効果を伴って、ルード・エンデバーの背後の窓が砕け散った。どちらかといえば破裂に近い。細かく割れた鋭利な硝子片が頬を掠めていったのにそれを気にする余裕もない。少年には今まさに命の危険が訪れていたのである。
窓硝子を砕いたのは、ルードの上司にあたる青年の足だった。青年は彼を見つけるやいなや小蝿を潰すがごとくその音速の足技を繰り出し、ルードが上体を反らすのが一瞬でも遅ければ、彼の顔には今頃巨大な風穴が穿たれていたに違いない。
ルードは硝子を蹴破った(正しくはルードを蹴破ろうとした)張本人、エヴィルを恐々と見上げる。銀髪の隙間から猛禽のような金の瞳が覗いていた。組織の幹部である彼が、なぜこんなところにいるのだろうか? こんな――組織の建物に内蔵されたディレクターズキッチンの、小さなカフェテリアに。
「……ひっ」
ルードの背に戦慄が走った。咄嗟に逸らした頭のすぐ傍を青年の第二撃が突き抜ける。がしゃあぁあぁぁあぁん、二枚目の硝子が餌食になった。それと同時に、どこからか酷く冷めた声が聞こえる。
「エヴィー、そんなにほいほい硝子割らないでよ」
今月何枚目かわかってる? 淡々とそう告げたのはルードの天敵、(と彼が一方的に思っている)ミクであった。その姿を目にした瞬間、ルードはここ数週間の逃亡劇に強制的な幕引きがなされたことを悟る。
(ツイてない、)
少年がこの組織内で行方を眩ませ仕事から逃げているのは、もうルシファーでは有名な話である。こんなところで見つかってしまうとは思ってもみなかったと舌打ちをしたい気分に駆られたが、なんとか理性がそれを止めた。エヴィルがいたのでは、あまりにも分が悪い。
「あんまり割るとグレッタが可哀相だわ」
そう言って近づいてくるミクの唇が不敵に吊り上がった。つかまえた。その唇の動きを読みとってから、ルードは渋々両手を上に挙げる。ホールドアップ、参りましたのポーズだ。(ちなみにグレッタとはルシファーの掃除婦長を務める老婆のことである。)
「あら、ミクも先週割ってたじゃない。ロヴが牛を連れ込んだ腹いせに」
「……。」
突如聞こえた別の声にルードは瞠目する。ミクを絶句させた軽やかなソプラノは少年のよく知る少女のものだったが、彼女もエヴィル同様、こんなところにいるはずのない人間だ。なんで、どうして。
「どうしたの、ルカ姉ェ……」
「うん? 今日はねー」
「俺もいるよー」
脱力しきった少年に答えた男の存在に、とうとうルードはがっくりと項垂れた。今日は運が無かったとしか言いようが無い。詰めが甘かった自分を恨むべきか。よりによってこんな、ロヴ・ハーキンズ率いる幹部集団の集いの最中に現れてしまうとは!
すっかり観念した様子のルードをひょいと小脇に抱え、エヴィルが残るメンバーの元へと歩いてゆく。ちらりとルードが首を上げた先で、ルカとロヴが優雅にお茶を嗜んでいた。再び脱力。何してんのこの人たち。
「やぁルード、久しぶりだ」
ロヴは子猫のように宙ぶらりんになった少年をみてからからと笑った。この男が、脱走したルードに対して弁明を求めたことは一度もない。代わりにミクにこってりと絞られるのはもうお馴染みのことだった。
どさりと乱暴に椅子の上に放り出されて少年は小さく呻く。が、これ以上は無駄な足掻きなのでおとなしくそのまま席に着いた。
それを見たミクとエヴィルも着席し、カフェテリアは束の間の平穏を取り戻したように見える。
(うわーめっちゃ見られてる……)
ルードは周囲に目をやって小さく溜め息を吐いた。
先刻まで繰り広げられていた暴動を目の当たりにした従業員(組織の末端から数人ずつ引き抜かれて当番制らしい)がこそこそとこちらの様子を伺っている。撒き散らかされた硝子は床に落ちたまま、どうやら片付けるタイミングに困っているようだった。本来いるはずのない幹部達を(しかもたった今まで少年が殺されかかっていた)目撃してしまったのだから、従業員達の困惑も無理はないのだが。
「やけに静かじゃない、ルード」
「いや、はい……すみませんでした」
ミクが首を傾げるが、ルートは本日はひたすら下手に出ることにした。何よりエヴィルが恐い。ボスよりも怖い。今日彼がルード捕獲に協力したのは気紛れにすぎなかったのだが、その殺人ギリギリの方法は少年に対して至極効果的であった。
「つーか、何で今日はこんなところに?」
揃いも揃って。威圧感抜群の面子を見回してルードが口にすると、当たり前だといわんばかりにロヴが答える。
「見てわからないかい、お茶さ」
「違うに決まってんでしょ」
首領のふざけた返答を一刀両断したミクは、その勢いに任せて紅茶に口をつけた。確かにティータイムを過ごしてはいるが、勿論本来は別の目的である。傘下の組織への視察割り当てのシフトと予算のプランを組むのに、ロヴが会議室に行くのを渋った結果がこれだった。
「まぁ結果オーライじゃないか。最終的に、迷子の保護に成功したわけだし」
「……捕獲、の間違いだろ」
ぼそりと零されたエヴィルの一言はあまりにも的確だったため、ルードはひたすら俯いてこの場をやり過ごすことにする。居心地が悪い、悪すぎるのだ。ルード自身が幹部といえばそうなのだが、このメンバーの中で少年は浮きすぎていた。
「それにしても派手に割ったわね」
未だ片付けのされない硝子片を眺めつつ、ミクがエヴィルをちらりと見やる。早く掃除しないと怪我人が出るかもしれない。視線を浴びた青年はそ知らぬ振りで、不可抗力だと呟いた。
「……とても意図的な不可抗力だこと」
「まぁまぁ、そう言うなよミク。グレッタの活躍の場が増えて良いじゃないか」
「ロヴー? あんた掃除婦を何だと思ってるわけ」
妙な方向にマイペースを貫く我らがボスにミクは頭を抱えたくなる。が、抱えたところで無意味なのは彼女が一番良くわかっていた(長年の経験の賜物である。)
思考の方向を変えようと、彼女はルードに課す罰の内容を考えることにした。二度と逃げ出す気が起きないぐらい面倒な罰則を与えてやりたい、がなかなか上手く思いつかないものである(今までどんな罰を与えようとも、この子供は性懲りもなく脱走を繰り返しているからだ。)
さてどうするか。ミクがしきりに頭を捻っていたところで、ルカが彼女に話し掛けた。
「ねぇミク。ルードの罰則、私にやらせてくれない?」
えぇえぇ!? 少年から悲鳴じみた声が漏れる。が、ルカは楽しそうに笑って首を傾げた。
「いいけど」
ミクはあっさりと承諾する。どっちにせよ、自分で考える案はそろそろ限界だったのだし。
ミクの返答を聞いたルードは再び悲鳴を上げた。ルカの考えることは分からない。なまじ当人が(良い意味でも悪い意味でも)純粋な為に、裏も嫌味もなしでストレートに無理難題を吹っかけかねなかった。
少年の背を冷や汗が伝う。うわーやばいってこれどうしよう。
「いや、ルカ姉、マジ勘弁して……」
必死の形相のルードに、黒髪の少女は軽やかな笑みを浮かべてみせたのだった。
「――付き合ってもらうよ、ルード」