第三章《はじまり》:CATCH!(1)
前話の空気は忘れて読んでいただければ幸いです。
(――なんで、俺がこんな目に?)
武藤 駿は頭を抱えて蹲った。目の前に立ちはだかるは鼻息荒々しい牡牛である。
鋼鉄の蹄で力強く地を掻き、今にも襲う気満々といった様子。その巨体からは威嚇を含んだ鋭いオーラが溢れ出さんとしていた。否、既に溢れているのか。
……殺られる。思った刹那、少年の喉がヒュウと不気味な音を立てた。
――もしかして俺って、結構ピンチなんじゃないのか。
(神様は信じない主義なんだけど)
この時ばかりは真剣に祈った。この状況から抜け出せるのならば、稿だろうが糸くずにだろうが縋ろうと思う。だって、何で、ウシ?
(ちょっと、いや、これは)
……マジで助けてください。
* * *
話は三時間ほど前に遡る。
「……で。これは何なわけ?」
冷ややかな声でそう尋ねたのは、犯罪シンジケート・ルシファーの首領直属戦闘部隊、虐殺隊こと《特別戦闘能力保持部隊EPPC》における〈マーダラー〉――その代表、ミク・ロヴナスであった。
属に言う金髪碧目を実に良く体現した容姿の彼女は、その硝子玉のような目で周囲の者を鋭く射ぬく。
この状況にミクが怒りを覚えていることは一目瞭然だったので、見つめられた面々はおとなしく順序よく口を開いた。
「……牛だなぁ」
「牛ね」
「ウシ!」
「牛だろ」
「ウシ、です」
上から順に、レックス、サンドラ、ロザリー、駿、そして千瀬の言葉である。たぶんオス、と余計な解説まで付け加えた千瀬の言葉は問答無用でミクによって黙殺された。
行儀よく並んだこれら答えは、この幹部の少女の神経を逆撫でしただけであったらしい。ミクは眉間に一際大きな皺を刻むと、この事態の元凶に勢い良く指を突き付けた。
「そんなことはわかってるのよ! ロヴ、これは何!?」
「牛だ」
瞬間、ガツンと鈍い音が響き渡った。ミクが蹴りをロヴの脛に打ち込んだのだ。光速だ。思わず千瀬は目を見開いて、患部を押さえて顔をしかめた我らがボス――あまり信じたくない気がしてきたが――を見つめた。
「あたた。酷いじゃないか」
言葉とは裏腹にへらりと笑ってみせるロヴの前でミクは激しく溜め息を吐く。幸せが大手を振って逃げていきそうだ。痛がる素振りも演技であることはわかっていたので、それ以上は誰もこの男を気に留めない。(首領であることさえ忘れそうだ。普通首領はこんな所に居ない)代わりにミクは、目の前に存在する巨大な生物を睨み付けた。
モゥ、なんて鳴かれなくともわかっている。これは紛うことなき牛だ。問題は、なぜこれが此処にいるかである。〈ソルジャー〉たちの生活スペース――“監獄”に。
――彼女のもとに《テトラコマンダー》代表、七見 月葉から連絡があったのはつい先刻のことだ。
それは《ポート》――つまりは彼女の部下、からの目撃情報なのだという。
連絡を受けたミクは思わず我が耳を疑った。
『ルシファー内に、牛がいると言うのですが』
彼女が稀にも見ないほどの間抜けな返答を帰してしまったとしても、それはミクのせいではない。
その後半信半疑で建物を捜索してみれば、なんとソレを“監獄”の中に発見してしまったのである。
そして何故か、当たり前のようにそこに居座っていた《ヘッド》――組織の首領たる男、ロヴ・ハーキンズを見つけたとき、ミクは全てを悟ったのだった。
この状況を見れば一目瞭然である。この男こそが騒ぎを起こした張本人――否、これを見なくとも、こんなことをするのはロヴくらいのものなのだが。
「いや、実はな。ソルジャーの奴らに焼肉を振る舞ってやろうと思ったわけだ。この前の敵対者掃討戦の働きを労う意味で。あれ、チトセの初陣でもあったからな」
全ての元凶は悪怯れることもなくからからと笑う。
罪の意識は皆無だった。自らの行動が常識を激しく逸していることにさえ、気が付いてないに違いない。
「それと、帰還した遠征組の功労を讃えて」
「……へぇ。だからって、なんで生きたままの牛を連れ込むのかしら……?」
「肉は鮮度が命なんだろう?」
……この場で殺す気か。生肉即調理、獲りたて気分か。へぇ。
ミクは軽い頭痛と眩暈を感じながらも、ぐつぐつと煮えたぎる腹の中を必死で押さえ込んだ。
この男には常識というものが通用しない。長年の経験でそれはわかっていた。押さえろ、と自らに言い聞かせ、金髪の少女は引きつった笑みを浮かべる。牛をどうにかすることが先決であると思い出したのだ。
「ま、焼肉のやり方知らないんだけどね俺は」
「いっぺん死んでこい」
ミクの努力はものの二秒で崩れ去った。再び蹴り上げられた彼女の足、それを覆う黒いブーツがロヴの首筋を掠める。刹那ジャキリと音がしたかと思うと、その爪先から白銀の刃物が飛び出して空を一閃した。
靴底に仕込んであったらしいナイフの刃先を予想していたのか、ロヴはそれさえも綺麗に避けてやんわり笑う。
(えぇえぇ……)
千瀬は一瞬の攻防に目を白黒させながら冷や汗をかいた。こんな場所で命懸け、え、靴に仕込みナイフって、え? ていうかその人ボスなんじゃ?
思わず視線を彷徨わせれば、横に立っていた駿に『見るな。見なくていい』と頭を押さえ込まれた。
「とにかく! どーにかしてよこの牛。ロヴが責任取りなさいよ」
「大丈夫、調理場に行けばシェフが教えてくれるさ」
「そっちじゃない!」
誰が食べ方の話をした。駄目だ、埒が開かない。ミクが額に手を押しあてて本日何度目になるかの溜め息を零したその時、彼女のスカートを控えめに引いた者がいた。
「……オミ? どうしたの」
口数の少ないこの少女(お陰で存在感が希薄になってしまうことは否めない)が何か主張するのは珍しい事である。訝しんで顔を覗き込めば、オミはスカートを握ったまま、申し訳なさそうに呟いた。
「……牛、いなくなりましたが」
「……………は」
「あれ、ホントだぁ」
ぽかんとミクが口を開けた横で、無邪気にロザリーが笑う。
ひくり。ミクのこめかみの辺りが引きつった、ような気がした。
「……冗談でしょ」
冗談ではなかった。まさに忽然と、何時の間にやら巨大な牡牛はその姿を消していたのである。
まさか自分が食べられる事を察知でもしたのか、そんなことはわからない。
何にしても、だ。これだけの手練が揃っていながら、誰も牛が逃走したことに気付かなかったなんて。
「逃げられたな」
あっけらかんと言い放つロヴの純粋な笑みが目に入った瞬間、ミクの怒りが沸点を大幅に越えてしまったとしても、それは自然現象だ。
「……なんで縄くらい付けとかなかったのよ、馬鹿ロヴ――ッ!!」
*
「牛ィ。ウシ、うっしー。どーこでーすかー」
斯くして牡牛大捜索の幕は開始されたのである。ロザリーは『ウシ』コールを連発しながら千瀬の腕を取り、二人並んで出ていった。
サンドラはのんびりと中庭へ向かい、レックスは欠伸を一つ零してそれに続く。二人ともやる気は皆無の様子だが、動かねばならない――何故ならば唯一無二の主から命が落とされていたからである。牛の捜索に〈ソルジャー〉は全員参加するように、と。
椿という少女は仕事が早い質らしく、とうに“監獄”を後にしていた。帰還したばかりの遠征組も、強制的に参加決定だったのだ。
オミは嫌がるシアンを連れてルシファー内の巡回を開始。春憐は仕方ない、といった様子で牛探しに向かったが、朝深という男にいたっては全く動く気が無いようである。可哀想に、菫はこんなくだらないことがルシファー内での初任務になってしまった。
ツヅリは裏のある笑み――駿曰くいつものこと、なのだが――を浮かべながら出動したが、真面目に行動するかは疑わしい。不良少年・ハルは堂々とサボり宣言をし、部屋の隅で転寝を開始した。
総勢十三名――サボタージュ含む――導入の大捜索である。
あんた達でどうにかしなさいよ。そんな言葉を残してミクは早々に戦線離脱した。彼女は言うなれば被害者だ、責めるのはお門違いである。問題はその後だった。
――諸悪の根源ロヴ・ハーキンズが、最上級の笑顔と共に逃走したのだ。更には、『牛は殺さず生け捕りにして、厨房まで連れてくること』――そんな、無理難題を爽やかに置き去りにして。
「ふざけんなぁあぁあぁッ!!」
駿は全身全霊でそう叫ぶと“監獄”を飛び出した。悲しいかな、首領の命令は彼らにとって絶対なのであった。……例えそれが、どんなに馬鹿馬鹿しいものだとしても。
――そして、話は冒頭に戻る。
*
「マジ、勘弁してください……」
フー、フーッという獣独特の息遣いが廊下に響く。
牡牛を捜索しながらも、願わくば出てきませんように……などと調子の良いことを考えていた矢先だった。運命の悪戯は時に残酷である。それを今まさに駿は体感中であった。
……彼の置かれた状況を整理しよう。簡単に説明してしまえば、駿を乗せたエレベーターが四階に到着し、その扉が開いた瞬間――目の前に、牛がいただけのことである。言葉にするのは単純で良い。が、少年の現状はけして生易しいものではなかった。
「いや、あの、ちょ……」
エレベーターの中の人間を見つけて重々しく迫り来る牛。エレベーターから出るに出られない状況の駿。小さな箱の内と外で不毛な睨み合い――むしろ駿が睨まれっぱなしだが――を幾度か繰り返した後、ついに少年は決心した。動いてみなければはじまらない。
「と、とりあえず、さいならー」
……エレベーターの扉を閉めてみることにした。敵前逃亡は士道不覚悟だったっけか、とぼんやり考えたが、幸いなことにここは過去の日本でもなければ切腹の意味を知る上司もいない。ついでに駿は武士でもない。逃げも立派な戦術だと、無理矢理己を納得させた。
ボタンを押せば金属の扉が機械音を立てながらスライドする。ウィィィン、バンッ!
(……バン?)
予想外の音が響いたことに眉を止せ、少年は指で触れていたボタンから目を離す。顔をしかめて音の出所を見た瞬間、体中の血が逆流したような気がした。
「ぎゃあぁあぁあッ! すんませんすんません!!」
閉まりかけた扉の隙間から巨大な頭が覗いていた。迫力満点だ。バン、とはエレベーターが閉じようとするのを、牛が自らの首を用いて阻んだ音であったらしい。頭を閉まる最中の扉の間に挟んだ、挟まってしまった、と言うべきか。
ちょっぴり痛い思いをした牛は、当然のごとく怒り狂うわけである。わかる、わかるけど。
「いや、でもそれ自分のせいだろ!」
駿の叫びを無視してエレベーターの個室の中へ上半身を捻込んで来る牛。感知機が重量オーバーを告げて、ビィビィとけたたましい警報が鳴る。
このままでは、この中で圧死しかねない。そんな間抜けな死に方はごめんだ、と半ば自棄になって少年は思った。角の部分をどうにか手で抑えつけ、それでも猛った獣が止まるわけはない。瞬く間に駿の視界は牛の体を染め上げる白と黒の毛色で一杯になった。
……ん、ちょっと待て、と朦朧とする意識のなか駿は思う。そう、牛は白黒なのだ。日本ではお馴染みのホルスタインだ。
(これ、乳牛じゃねぇかあぁあぁ!)
駿は力を振り絞る。こんな馬鹿馬鹿しいところで潰されてなるものか、と息を吸い込み、意を決して牛の脚の間を潜り抜け外へ脱出した。あわや踏み潰されそうになりながらも奇跡の生還を果たし、ゼィゼィと肩で息をする。
「焼肉ならせめて肉牛持って来いよ! 何で乳牛! 乳牛なのにオス!? え、何乳牛のオスって食用なの」
最後のほうはわけがわからなくなりながら上司の無知っぷりに愚痴を零しても、誰も応える者はいない。もうやだ俺、と少年は嘆息する。
そもそも殺すな、という注文が無茶なのだ。そんなの無理に決まっている。
普通そういうことは、麻酔銃などの準備があって成功するものだ――それどころか今は、こちらの命が危ない。
駿は思わず天を仰いだ。柄にもなく呟いてみる。神様仏様、いてもいなくてもぶっちゃけどーでも良いですけどたまには助けてくださぁい。
「……あれぇ、シュン君じゃん」