第三章《はじまり》:Last quarter
過去の一場面が鮮明に思い出されてゆく中、足を止めなかった千瀬の前に似通った扉が現れる。
今度は迷わなかったらしい。そのことに安堵するのも忘れて、辿り着くやいなや千瀬はドアノブを引き抜いた。勢い余ってよろめいたが、気にしている余裕はない。
「H…A…」
サンドラに教わった解除コードを打ち込んでゆく。間違えたらどうなるのかは聞かなかったが、この組織のことだ、何か面倒な事態になるのは避けられまい。慎重に、と自らに言い聞かせる。
――D、E、
ここに来るまでに何度も唱えた五つのアルファベット。単調に入力するその指は震えていた。
入力失敗を恐れて緊張するほど、千瀬は繊細ではなかった。今更、だ。それでも体が震えるのは、きっとあの頃を思い出したせい。
(会って、どうする?)
会わなければならないと思った。ずっと捜していたから。何故、捜していた?
「……S」
最後の一文字を打ち込むと同時、カチリと小さな音がする。次いで落とされた重々しい金属音。体内に沈んだその音色に、千瀬の意識が浮上した。
(謝りたいと、思ってた)
許してほしかったのだ。何も出来なかった過去の自分と、こんなところに居る今の自分。月葉をこんな道に引きずり込んだのは自分だと、何故かそう思った。
――冥界への扉は、開いている。
*
蝋燭の灯りを頼りに壁を伝って前へと進む。月葉がいるのはもっと奥だろうか。あの、カーテンのあった場所。
(――急がないと)
月葉は逃げも隠れもしないだろう。けれど気持ちばかりが急いてしまい、無性に焦りを感じる。きっとそれは、再会を果たした時の彼女の態度だ。千瀬は未だにあれだけは釈然としない。
一つ息を吐いて少女は歩調を速めた。走るには、此処は暗すぎるのだ。彼女の所に辿り着いたらどうしよう、とぼんやり考える。先刻サンドラがどのように明かりを灯したのか、千瀬は覚えていなかった。暗いままでは、話すらままならないかもしれないというのに。
思考を巡らしながら歩を進めるうち、ふと千瀬は違和感に気が付いた。奥が明るい。目指していたその場所に、既に照明が灯っている。
――刹那、二つの人影が視界に入った。
「……!」
咄嗟に千瀬は柱の陰に身を隠す。先客が居るらしい。隠れる理由など何処にもないのだが、どこか後ろめたい気持ちが拭えなかった。意外と臆病な自分に気が付いて、そっと千瀬は嘆息する。
「……君が来てから六年」
「……そうですね」
突如耳に入った会話に千瀬は目を見開いた。ロヴの声だ。そして、応えたのはおそらく月葉。カーテンの奥の部屋から出てきている。影の正体は間違いなく彼らだ。
「私は、ロヴさんには感謝してるんです。私に新しい世界をくれた」
千瀬は耳を澄ませた。久しぶりに聞く彼女の声は懐かしさを帯びたまま、どこか落ち着いたものがあった。
出て行くことが出来なくなって、千瀬は必死に息を殺す。
「俺のところに人身売買のリストが流れ着くことは珍しくなかったんだ。月葉のことは一目見て気に入ったなぁ……俺は昔から、欲しいものは力ずくでも手に入れる主義でね」
「そして当時最高値のついていた私は、まんまと“謎の犯罪組織”に盗みだされたってわけですね」
月葉が此処に来たときの話をしているのだとわかって、千瀬は耳をそばだてた。捜していた、空白の時間がここにはある。後悔し続けた、長い過去。
身売りの話は本当だったのだと確信して、また千瀬は痛みを感じた。幼かった少女は月葉に何もしてやることはできなかったけれど、本当は、あの小屋から彼女を出そうと思えば出来たのだ。連れ出した後のことなど考えずに外に出してしまいさえすれば、売られることだけは避けられた。それなのに。
悲しいかな、千瀬というのは老成した子供だったのだ。月葉が外に出た後のことを考えた。現実を見すぎてしまった。子供らしくない目で世界を見据えていて、どうにもならないことを悟っていたのである。
「……私は親に売られたんだってわかって、全てがどうでも良かった。絶望してたの、この世界に」
月葉は外を見たいと言っていたが、一度も出たいとは言わなかった。そして千瀬も彼女に外に出たいかとは、一度たりとも訊ねなかった。
そうして少女が自らの狡さに蓋をしているうちに、月葉は彼女の前から消えたのである。月葉はロヴの手を取って、もう一度千瀬の前に現れた。
(ごめんなさい)
あたしは、ずるい。
――その時、未だ後悔の念に苛まれている千瀬は気が付いていなかった。展開される会話の節々にクスクスと小さな笑みが含まれていることに。
「六年、経ったんですね。私は今、ここで自分という存在を確認できていることが何よりも嬉しいと思える」
「正真正銘、悪の道だけどな」
ついに月葉とロヴは声をあげて笑う。その幸せそうな声にはたと顔をあげた千瀬は、ぱちぱちとゆっくり瞬いた。
あれ、なんか、様子がおかしい。どうして楽しそうなんだろうこんな、こんなところで?
千瀬は柱の影からそっと顔を覗かせた。スーツを着流したロヴの横には、ずっと捜していた金の髪。すらりと背の伸びた彼女は片手を口元にあてて、さも楽しそうに笑っている。あんな顔、あの小屋でしたことがあっただろうか。
(――そうか、違うんだ)
唐突に千瀬は理解した。今まで漠然と、なぜ彼女がルシファーという組織に、この暗い世界に足を踏み入れなければいけなかったのかばかりを考えていたのに。身売りにあうことさえなければ、彼女は違う幸せに出会えたと信じて疑わなかったのに。
――けれど、違うのだ。千瀬がここに居場所を見つけてしまったように、月葉にとっても、ここは闇なんかじゃなくて。
(ツキハさんが本当に苦しかったのは――)
エゴと体裁で塗り固められた、あの表面の世界――あの小屋の、闇そのものだったのかもしれない。
彼女は望んでこの場所に踏み入った。歪んだ世界の中で月葉には、ロヴが一本の道のように見えたのである。自分に正直に生きる彼が、何よりも正しいもののように。
「この六年で一つだけ気掛かりだったのが、あの子達のことだったんです。色んなものを貰ったのに何も返せないまま、私はあの子の前から消えてしまった」
後悔してるんです、そう言って月葉は顔を上げた。彼女のブロンドがさらりと揺れる。煌めく瞳の色はあの頃のまま。ロヴは口元に柔らかな笑みを携えている。
「……だから、あなたを見たとき何も言えなかったの。顔を会わせる資格なんか、ないと思った。――でもやっぱり私は、あなたに伝えたい」
月葉の双眸の向けられた先がロヴではないことに気が付いた千瀬はぎょっとして身を強ばらせた。まさか、そんなはずがない。
「――とまぁ、こういうことだ。聞こえたろう? チトセ」
ロヴが笑んだのは、まさに隠れている千瀬に向かってであった。少女は思わず瞠目する。暴れ回る心臓を必死に抑えつけ、観念したように影からそろりと這い出した。
「……いつから?」
いつから気付かれていたのか。大方この男のことだ、ずいぶん長い間知らぬふりをしていたに違いない。
少女の質問には答えずに、ロヴは千瀬を自分達の方へと手招きした。
「……久しぶり」
千瀬の見上げた先、月葉は笑った。少女だった彼女の、優しくて、気の強そうな面影はそのままだ。大人の女性に変貌を遂げた彼女は、やはりそれでも千瀬の知る月葉だった。
「七年、ぶりです」
堪えたつもりだったが、やはり千瀬の声は震える。七年。長いとは言えないけれども千瀬の人生の半分をかけて、ようやく果たした再会。
「モモちゃんは、一緒じゃないんだね?」
「……うん。姉さんは『学園』に」
「そっか」
ふわりと笑った月葉を見て、千瀬は胸が締め付けられそうになった。前もどこかで、こんな会話をしたのに。
あの時とはあまりにも変わってしまった、彼女達を取り巻く世界。どこから違ったのだろう。我武者羅にでもなく、ただあるがままに生きてきたはずだったのに。
「そっか……モモちゃん、生きてるんだね」
その呟きに千瀬は思わず両手で顔を覆うと、その場に崩れるように座り込んだ。頭の中で思い出が洪水のように押し寄せる。
千瀬と、百瀬と、月葉と。大人のエゴに飲まれそうになりながら、精一杯生きていた少女達。自らのそれに気付いてもひた隠しにしていた、幼かったあの頃。見たくなかった。汚いことは知りたくなかった。もう遅い、それでも。
「……よかっ、た」
千瀬の口から小さな言葉が零れ落ちる。月葉は表情を変えず、少女の傍に屈み込んだ。
「よかった……ツキハさんが生きててよかった……姉さんを殺さなくて、本当に、よかった……!」
自分を取り巻く世界を自らの手で壊したのだ。自分が一番汚れていると、千瀬は信じて疑わなかった。それでもまだ、良かったと思えることがある。
月葉の手が、千瀬の背中を緩やかに撫でた。
「ずっとずっと、探してたの。もしかしたらまた会えるかもしれないって」
必ず月葉に会いにいこう。そう姉と約束したのも、もう七年前のことだ。まだ百瀬は生きている。月葉もここにいる。たった一つの約束はまだ果たされていないが、これから、きっと果たすことが出来る。
幼くて無力だった自分を心の中で呪う傍ら、どうしても会って、伝えたいことがあったのだ。
大切なものを教えてくれた月葉に、ごめんなさいと、ありがとうを。
チィプなありふれた言葉でも、これ以上は他に何もない。
千瀬は息を吸い込んで、ゆっくりと顔を上げた。
「……ツキハさん、」
「ごめんね」
「……え、」
台詞を奪われた千瀬は口をぱくぱくさせながら、目を丸くして月葉を見やった。
だって、謝られることなど何もない。
「私の仕事ね、テトラコマンダーはEPPCのスカウトを行なうの。日本の情報網を管理してたのも私。ちぃちゃんをこの世界に引きずり込んだのは、」
「――後悔なんて、してません!」
咄嗟に千瀬は大声をあげた。なんてことだ、それこそこちらの台詞だったはずなのに。
確かにこの組織は綺麗なものではなかった。迎えが来なければ、ここにいることもなかったのだろう。
けれど千瀬はどこかで自分が親族を殺めたということ、それだけは変わらなかったと思っている。未だ切っ掛けも思い出せない、なのに漠然と――けして言い訳をしたいのではないが、運命であったとさえ思っているのだ。
あたしが姉さんを殺さずに済んだのは――頭のどこかで姉さんと一緒にツキハさんに会いに行かなきゃって、ずっと思ってたからかもしれない、と。むしろそんなふうにさえ、思う。
なら、居場所をくれたのは。
「……ありがとう、ツキハさん」
「ちぃちゃん?」
「あたしに新しい世界をくれて、もう一度出会ってくれて。生きる理由をくれて、ありがとうございました。生きててくれて、ありがとうございました」
月葉と出会わせてくれたロヴにも礼を述べるべきか。見つめた先で彼はただ笑っていた。
ごめんなさいはまた今度にしよう、と思う。百瀬と共に月葉に再会することは、できなかったけれど。
「いつかあたし、必ず姉さんと一緒にツキハさんに会いにくるよ」
一緒にありがとうって、言いにくるよ。だから、今度は。
――少女は自らの右手を、真直ぐ月葉の前に伸ばした。
「三人で一緒に、お花見しようね」
差し出された千瀬の小指に、月葉は自分の小指を絡める。そして、一度だけの指切りを。
そのあと重ねた掌の大きさは、少し千瀬が小さかった。それでも昔ほどの差はない。
千瀬は腕を下ろすと、しっかり顔を上げて冥界の出口へ向かった。
あたしは、前を向いた。
誰にでもなく、そう語りかけて。
「ちぃちゃん」
月葉が千瀬の背中に声を掛ける。その声は凛と澄んで少女の鼓膜を揺さ振った。
「私達、生きようね」
生きようね。生きていこうね。この世界で。
そしていつか、一緒に告げよう。
「――約束」
幼かった自分に、
弱かった自分に、
精一杯のさよならを。