第三章《はじまり》:月蝕
侵入者を迎え入れ、色素の薄い髪をした少女が笑った。彼女はこの小屋唯一の住人で、千瀬はこの少女に会う為だけにここへ通っている。稽古の片手間に来ていたはずが、最近ではこちらが本命になりつつあった。いつも何かを手土産に、時々は姉も連れて。この頃は姉も小学生で、まだ千瀬と同じ屋根の下で生活していたのだ。
「今日はモモちゃん、一緒じゃないんだね?」
「うん。姉さんは学校だから」
「そっか」
ふわりと笑ったその少女の名を、七見 月葉という。年は千瀬より、そして百瀬よりも僅かに上のようだったが詳しくはわからない。その髪は名前通りの月色、そして左右異なった色の瞳を持っていた。……それが異質であるということには、千瀬はとうに気が付いていた。
千瀬が彼女に出会ってここに通うようになってからもうどれだけ経つだろうか、数えるのはもう止めてしまった。ただここにいるだけで、千瀬は満足だったのだ。
「ちぃちゃん学校は?」
「今日は良いんだ。お稽古の日だから」
千瀬は姉の百瀬とは違う町外の小学校に通っていた。とは言っても、許された時間の殆どを剣術の修業にあてる毎日である。学校に行ったのは数えるほどしかない。
そんな状況でもちろん友達など出来なかったし、先日久しぶりに行った学校ではあまりにも幼稚なクラスメートに愕然とさせられた。千瀬はこの年頃の子供と比べれば、体力も知性も抜きんでていたのである。
(つまらなかった)
剣に没頭するのも、親類の期待に応えるのも、彼女を取り巻く世界も。
そんな千瀬であるが、月葉に初めて出会った時嬉しかったのを覚えている。月葉が何かを変えてくれる、そんな気がしたのだ。
「綺麗ー」
月葉はその日千瀬の持ち込んだ桜の枝に目を細めた。白い指でその花弁を慈しむように撫でながら、触ったの初めて、と嬉しそうにはにかんで。
「外はもっとすごいよ。満開……って言ったらわかるかなぁ。この花がね、枝一面にくっついてるの。桜の木が、大きな桃色の塊になって……」
「へぇ……」
千瀬の手折った桜の枝には八つの花が付いていた。月葉はそれにひどく感動したようである。千瀬はそんな彼女を見つめながら、ちくりとどこかが痛んだのを感じた。
――月葉は、この小屋から出られない。
人間という生き物は“異常”敏感だ。自分達とは違うものを遠ざけ、排除しようとする。それは人間の本能だ。歴史に刻まれた多くの過ちも然り、それは人間に許された防衛の手段なのである。月葉の両親も例外ではなかった、それだけのこと。
ブロンドにオッドアイ。そんな月葉の見た目を“普通じゃない”と判断した彼女の両親は、娘の存在を世間から隠し、この小屋から出さずに育ててきたのだ。訪問客などめったにない、小さな静かな町だった。だからこそ、それが可能だった。
千瀬が月葉のもとに通う理由を同情かと問われたら、少女は間違いなく、迷いようもなく否と答えただろう。
幼い彼女が月葉に抱いた感情は哀れみではなく、むしろ同族への思慕と愛惜であった。少女は月葉を、仲間だと思ったのだ。
(……そう、ひとりで、勝手に)
上水流は小さな町だった。住人はお互いを良く知り、千瀬もまた、ここに住む人々を細かく把握していた。
――けれど。千瀬の存在を知る者は、この町でもごく僅かだったのである。
住民間の情報が筒抜ける上水流の地で、唯一その詳細を語られない家が有った――それが黒沼だ。
古くから一族ぐるみでここに住んでいるということ以外、家族構成や職業もわからない未知の一家。
その中でも特に千瀬は家から出ることが少なかった。たまに学校に行っても周囲の子供は彼女に近づこうとせず(町内の学校ではなかったのでなおさらだ。地元には知り合いなどできなかった)常に少女を遠巻きにしていた。子供達にとって、黒沼千瀬は得体の知れない存在だったのだ。この時すでに千瀬は十分、“普通ではない”子供だった。
恵まれない環境で育ったにも関わらず月葉は気の強い性格で、千瀬が隠れて訪れるようになってからは、外の様子を聞きたがった。聞いたところで見るのは叶わないのだから、実のところはきっと余計辛くなるだけだっただろう。
……彼女は気を強くもつことで自分を勇気づけていたのかもしれないと、後になって千瀬は思う。
千瀬も率先して、彼女に色々な話をした。自らに課せられた役目を外部の人間に語ったのは月葉が初めてだ。
その日もそうやって、他愛もない話と幸せな時間を繰り返すつもりだった。そう、思っていたのに。
「桜ってさ、すぐ散っちゃうんでしょう?」
外に出たことのない月葉は、それでも知識が豊富だった。たくさんの本を読んで過ごしているからか、多くのことを知っている。(時には千瀬が知る以上のことを問われて困ってしまったものだ。)桜という植物の有り様もまた、彼女の脳に知識として収納されていたのだった。
「そうだね。でも、すっごく綺麗だよ」
散りゆく桜の美を、はたしてあの日千瀬は上手く伝えられたのだろうか。懸命に身振り手振りで説明しようとする少女を、彼女は笑って見ていたように思う。
窓一つしかない質素な小屋で、あの頃月葉は何を考えて生きていたのだろうか。
月葉の生きる世界は、千瀬には酷く淋しく感じていた。
小屋が常に暗かったのは、もしかすると彼女に若干の色素欠乏があったからかも知れない。
(そういう者は日光に弱い体質であることが多いからだ)(だとすればそれは月葉の両親の、愛の形だったのかもしれない)しかし幼い千瀬にはそんなことわかるはずもなく、どうしていつもこの場所は暗いのだろうと思い続けていた。それを月葉に問うことができなかった代わりに、幸せだとは言えない環境で生きる彼女を強い人間だと思い込んだ。
強い、そう、思っていた。
「……ねぇ、ちぃちゃん」
そう思い込みたかったのだ。あの日もあのままで、あの他愛もない話と幸せな時間を繰り返すつもりだった。強く生きる月葉に憧れながら、千瀬はどうにか毎日を生き抜こうとしていた。
「消えるのって、どんな気分かな」
月葉がぽつりとそう言ったその日、何かがおかしいとすぐに思うべきだったのだ。思ったその後、何か、せめて何かするべきだった。真直ぐだった彼女の目があまりにも儚くて、千瀬は体の奥底に震えを感じた。悟ったときには、遅い。
「桜みたいに、誰かが見ててくれれば散るのも素敵。でも、誰にも知られずに居なくなるのは悲しいよね。誰にも、ここに在ったことにさえ気付いてもらえずに、そんなの、」
「ツキハ、さん?」
あたりまえのことだった。たった一人の、他人より孤独を知るだけの少女が強いはずなどなかったのだ。強くあれと願っていたのは他でもない千瀬自身、己を彼女に重ねながら生きていく夢を見ていた。
少しずつ崩れていた何かに、本当は気が付いていたのかもしれない。それでも見なくなかったのだ。気が付いてしまったときは手遅れで、千瀬はただ無力だった。
「最近、お母さんが会いにきてくれなくなった。お父さんも帰ってこない。代わりに、知らない男の人が、頻繁にあたしを見にくるようになった……」
嫌だよ、ちぃちゃん、怖い。怖いよ。
そう言って震える月葉の肩を、千瀬はただ抱いていたた。そうすることしか、出来なかったのだ。
一回り体の小さい千瀬の肩に顔を埋め、消えたくないと彼女は泣いた。繰り返し繰り返し言葉を吐き出しながら流された涙は白い頬を伝って、千瀬にはそれを受けとめることさえできなかった。
その日唯一いつも通りだったのは、時間の流れだけである。無常にも訪れた別れの時に、月葉は赤くなった目を細めて手を振った。
それが、最後。
千瀬が再び七見家を訪れた翌日の夕刻には、もう全てが終わった後だった。
胸騒ぎを感じた千瀬が小屋で見たものは、踏み散らかされた桜の花。ただ、それだけ。
たった二十四時間だった。それだけの間に七見月葉という人間は、まるではじめからそこにはなかったかのように忽然と姿を消したのだ。
千瀬は百瀬とともに月葉を探して回ったが、やはり子供の手が届く範囲などたかが知れていたのだろう。わかってはいたことだったが、結局彼女を見つけることは叶わなかった。
――月葉の消えた理由を耳にしたのは、それから一月も後のことだ。その頃にはもう、上水流町内には七見家に子供がいたことが知れ渡っていた。というのも、七見家に最近妙な人間が出入りしていたという目撃証言が相次ぎ、そこから判明したことらしい。
『七見の娘は、身売りにあったんだと』
人身売買。それはあまりにもあっけなく残酷な選択だった。月葉はその珍しい容姿を理由にして、両親によって高値で専門の業者に売り払われたのである。七見の家に出入りしていた男達はその下請けであった。少女の値段を見極めるために、何度も家に足を運んでいたということ。
上水流の住人は皆違法に手を染めた七見夫妻を罵ったが、売られた娘については表面上の哀れみを述べただけだった。結局のところ、見ず知らずの他人に感傷的になれるのはせいぜい数日である。やがて七見夫妻は町を出ていき、誰もが彼らを忘れようとしていた。後に、どこか遠くの地で夫妻は逮捕されたらしいと風の噂が流れたが真偽のほどはわからない。
百瀬は泣いていた。千瀬は月葉を捜し続けた。姉が全寮制の高校に行くことになった後も、刀の稽古が本格化した後も、ただ一人で外に出てはあの月色の髪を探し続けた。
それでも結局、千瀬は月葉に何もできなかったのだ。短い時間を共有し、醜いエゴを押しつけただけ。謝ることさえしなかった、幼い自分。
(嗚呼、そうだ。思い出した。)
(あたしはあの日、わかってしまったんだ。)
(世界はなんて、汚いんだろうって。)
(ツキハさんは、あんなに綺麗だったのに。)