第三章《はじまり》:月と邂逅(2)
注文した飲み物がウェイトレスに運ばれてやってくる。ここの従業員も一応ルシファーの組織員なのだろうか、と千瀬は首を傾げた。
サンドラに促されるままに、ぽつりぽつりと過去を零し始めた少女はどこか物憂げな表情をしている。サンドラはそれを気遣って無理はしなくていいと声を掛けたのだが、千瀬はただ首を横に振った。
――サンドラが心配しているように、過去を思い出すのが辛いというわけではない。千瀬が本当に不安なのは、自らの記憶に抜け落ちた部分があるという点だった。自分自身でさえよくわかっていない現象なのに、それをサンドラに告げることができるはずもない。
――これは記憶喪失ではないのだ、と千瀬には何故か自信があった。無理矢理覆い隠されてしまったかのような過去の断片は、喪失ではなく塞がれているだけ。どこかに、きっと。
「……ツキハさんは、七見家の長女でした。近所の人がツキハさんの存在を知らなかったのは、ご両親が、一度もツキハさんを外に出していなかったから」
千瀬は言葉を続け、過去の月葉に思いを馳せた。
――娘の容姿をありのままに受け入れることができなかった七見家の人々。存在を隠されて、ひっそりと生きてきた月葉。それでも、気丈だった彼女。
普通じゃない、それは、どんな気持ちだっただろう?
同年代の子供のなかでは『普通』ではなかった千瀬だが、それでも一般の教養はそれなりに身につけて育っていた。四六時中刀を握っていたことを除けば自由に外にも出られたし、それが千瀬への期待の表れだったとしても、親族は少女に優しかったのである。
出会った月葉からこの場所から出たことがないのだと言われたとき、外の様子を尋ねられたとき、少女の心に渦巻いた気持ちは今となっては表現できない。
「……。」
物思いに耽ってしまったのか、すっかり黙り込んだ千瀬にココアが冷めると忠告し、今度はサンドラが静かに口を開く。
「さっきも言ったけど、ツキハは〈テトラコマンダー〉よ。組織の運営をやって、彼女の場合は“スカウト”の管理もしているわ。スカウトは……ほら、あなたみたいな、迎えが行くタイプ。EPPCに日本人が多いのは日本に詳しいツキハがいるからね、きっと」
サンドラはコーヒーにミルクを入れるとくるくるとかき回す。美しいラインを描きながら溶解する乳白色を、ぼうっと千瀬は見つめていた。
「あの子はあんな目立つ容姿をしているから、今まで苦労はしてきたみたいね」
千瀬は目を伏せ、カップにゆっくりと口をつけた。甘やかなカカオの香りと僅かな苦み。僅かに温くなっていたけれど、体を暖めるには十分である。
日本で暮らしていたはずの月葉がどういう経緯を経てこの組織にやってきたのか、聞くのは少し恐かった。幼いながらにも“あの別れ”を経験した千瀬にとっては、その後の月葉の運命はぼんやりと想像できてしまうものだったのだ。
「ツキハがルシファーに来たのは今から六年ぐらい前になるかしら。組織が本格的に始動してから三年目の春だった」
サンドラは首を傾けながら懐かしむような口調で語る。
「十九才だったロヴが『十代のうちに何かやりたい』って馬鹿みたいなことを言い出して、何をするのかと思ったら突然女の子を一人連れて来たのよ。嘘みたいに綺麗な容姿でびっくりしたわ。日本人だっていうし。それからルシファーの内部の構造をロヴが整えはじめて……」
「馬鹿みたいとは心外だな。それに“連れて”来たんじゃなくて、正確には“盗んで”来たんだ」
あら、とサンドラが笑う。いきなり割り込んだ声に、千瀬はあんぐりと口を開け目を瞬かせた。
「身売りのリストで見て気に入ったもんだから」
突然あらわれて、恐ろしいことをサラリと言い放つ彼。この組織は大丈夫なのだろうか。トップの人間が、こんなところで優雅にティータイムを楽しんでいて。
頭を抱えそうになる少女の前に、彼は悠々と歩み寄る。ハローハロー、チトセ。元気かい?
「お茶菓子はどうだい?」
飛びっきりのを用意させよう、と。ロヴ・ハーキンズは快活な笑みを浮かべたのだった。
*
「ツキハは此処にくる前は誰も殺してないよ。〈ソルジャー〉みたいな戦闘員として連れてきたわけじゃないからな」
君とはまた別ルートでここに至ったのさ、と。朗らかにそう言いながら、ちゃっかりと千瀬の向かいに陣取りお茶を楽しむロヴ。
そんな彼を当たり前のように受け入れるサンドラと目を白黒させてばかりの千瀬を、気のせいか店員が遠巻きにしているようだった。
「えぇと……六年って、ツキハさんが来てからそんなに経つんですか」
そんな状況でも、千瀬の中では話を聞きたい気持ちが勝っていて。意を決して話を元に戻せば、サンドラではなくロヴから返答が返ってくる。
「俺がルシファーを創設してから九年経つんだ。そうすると、ツキハは結構な古株だな」
「え、ちょっと待って。九年って……ロヴ、今何歳?」
「二十五だけど?」
千瀬は驚愕した。
そういえばさっきサンドラがそんなことを(組織始動三年目で十九歳、だとかなんとか)言っていたが、月葉のことが気になって聞き流してしまったのだ。
千瀬は頭の中で久しく引き算を実行する。彼らの話を総合すると、つまり。
「ルシファーを創設したの……十六歳の時……?」
「ご名答」
ロヴが朗らかな笑みを浮かべた。じゅうろく、と言ったきり硬直する千瀬を不思議そうに眺め、どうした? と男は聞く。なんかおかしくないですか、とは聞けない。聞けるはずが無い。
「おや、そこってびっくりする所なのかい? 驚くのはまだ早いぞ。サンドラ、初期メンバーで一番小さかったのはどいつだっけ?」
「ルカ」
にべもなく即答したサンドラが、普通忘れないわよ、とロヴを小突いた。あいた、とオーバーな仕草で突かれた腕を押さえてみせるロヴにサンドラは呆れたような笑みを浮かべる。
なにしてるんだろうこのひとたち。未だ目を見開いたまま、ぼんやりと千瀬は考えた。
「あぁ、そうだそうだ。ルカ! あいつはその時まだ九歳だった」
「き……」
九歳?
今度こそおかしい、確かにおかしいと千瀬は思った。十六とか、九とか、それは独立して犯罪シンジケートを組織するような年令なのだろうか。そんなはず無い。断言できる。
「でもルカは正確な生年月日がわかってないから、もう少し下だったかもしれないわ」
「あぁ。あいつ見るからに幼かったしな」
楽しそうに、懐かしむように笑い合うロヴとサンドラ。なんだかとんでもないことを聞いてしまったと少女は思う。
――それに、よく考えれば気になることがもう一つ。サンドラだ。一組織員にしては余りにも、詳しすぎはしないだろうか。
「……あの、初期メンバーって?」
「なんだ、知らなかったのか?」
千瀬は頷く。駿もロザリーも、それは教えてくれなかった。教えなかったのではなく、知らないのかもしれない。彼らだって、千瀬のようにスカウトでやってきたのだから。
「そもそもルシファーは」
ロヴは紅茶のカップから手を離し、その指を折ってゆっくりと数えはじめた。
「ルカ、エヴィル、ミク。サンドラとレックス、それに俺で六人だ。これがはじまりだった」
「――サンドラと……レックスも?」
サンドラが微笑む。それは肯定の意。
すとん、と千瀬の心に何かが落下して納まった。唐突に納得したような気がする。レックスというニックネームを考えたのがルカであることや、誰もが近付きがたく感じるエヴィルにレックスがちょっかいをかけることがあること、サンドラがルカやロヴの母親のような振る舞いを見せること。千瀬を迎えにきたとき、ルカはミクと一緒だった。
「俺達の出会いはもっとガキの頃だったけどな」
ロヴがウェイターに持ってこさせた茶菓子を一つ口へと放り込み、千瀬もそれに倣って食べてみる。彼ご贔屓の洋菓子店から直輸入したというそれは、ひどく上品で、甘くて、でもどこか庶民的な懐かしさを感じさせる味だった。