第三章《はじまり》:月と邂逅(1)
『つきは』。千瀬がその名を口にした瞬間、その場の空気が大きく揺らいだ。呼ばれた女は微動だにせず、その長い月色の睫毛を僅かに伏せるだけ。
瞠目したサンドラは弾かれたように少女を振り返る。
「え……? あら、何? チトセったら、ツキハのこと知ってたの?」
疑問符だらけの問い掛けに千瀬はどうにか頷こうとしたが、その首は思うように動いてはくれなかった。少女は目の前のテトラコマンダーから視線を外せぬまま、沈黙のみが流れる。
「そういえばツキハも日本人だものね。知り合いでも不思議はないのかしら……」
一人納得したふうなサンドラ(無理矢理に、だが)だけがその空気の中で話を続ける。千瀬は何とか場を取り持とうとしている彼女の努力をひしひしと感じていた。何か言わなければ、と思う。言わなければならないことが、言いたいことが、たくさんあるのに。
「ツキハは日本人にしては珍しい容姿でしょ? 髪とか目とか。彼女が日本人だって知ったときは驚いたのよ、私……どうしたの、チトセ」
「……ツキハ、さんは」
サンドラが千瀬の顔を覗き込んだ。少女は半ば無意識のうちに動きだした唇に言葉を乗せる。
「ツキハさんは、うちの近くに住んでて……あたし、まだ小さくて」
ツキハを見た瞬間に流れ込んできた記憶の渦が痛い。フラッシュバックするかのように断片的に、けれどそれよりずっと明るく鮮明に。
千瀬は洋服の裾を握り締める。そうしないと、何かが出ていってしまいそうだった。
思い出したのだ、あの日のこと。無力だった自分。
(そうだ、あたしは、)
あの出来事を、ずっとずっと悔やんで生きてきたはずだった。片時も忘れたことなど、なかったのに。どうして、どうして。
(どうして、忘れてた?)
千瀬は自らの頭を殴り付けたいような衝動に駆られた。覚えていたはずの彼女を、彼女と過ごした記憶を、一時期でも忘れていたことに気が付いて愕然とする。確かにずっと記憶に刻まれていたはずのことを、何故かここ最近――否、ルシファーに来てからずっと。昨晩夢に見るまで、思い出しもしなかったのだ。
……少女の記憶が途切れたのは、間違いなくあの日だ。千瀬自身が父を殺し、母を殺し、祖父母を、従兄を、伯父伯母を殺した日。少女は漠然と、自分に残されたのは姉の存在と奪った命の重みだけだと思い込んでいたのだが、本当はまだあったのだ。祖国への未練や忘れられない思い出、忘れてはいけないことが。……他にもまだ、あるのかもしれない。
親族を殺したあの時――そう、切っ掛けさえも未だ思い出せない――唐突に体内へ落とされた重たい蓋が、千瀬の記憶を今も混乱させている。
「あたし、ずっとずっと、捜してたのに……」
どうして。
そう呟いた少女の問い掛けは、はたしてどちらへ向けられたものなのだろう。
僅かな間にでも彼女を忘れていた自分へか、それとも、
「捜して、たんです……」
――あの日、消えた彼女に対してか。
ツキハはもう一度僅かに目を伏せると、サンドラの手から書類(任務の報告書である)を抜き取り何も言わずにカーテンの向こうへと去っていった。一度も後ろを振り返らずに。
「ツキハさん、待って……!」
受け取られることのない少女の言葉は、空気に吸い込まれて静かに消えた。
ツキハが奥へと姿を消した瞬間、再びブレーカーの落ちるような音が辺り一帯に響き渡る。同時に空間を照らしていた光がみるみる消え、主人の消えた部屋には再び漆黒と蝋燭の明かりだけが残された。
暗くなった視界の中で、サンドラは俯いた千瀬の頭をゆるゆるとあやすように撫でる。
「チトセ、ツキハのこと知りたい?」
千瀬は仄かに赤くなった目でサンドラを見つめた。その視線の先、金髪の女は優しく笑う。闇にも浮かぶその髪色はツキハとは違う金色だ。暖かい、太陽のような色。深い紫の瞳を細めて女は言った。
「少し、昔話をしましょうか」
*
昔――そう、もうずっと前の話になる。それはまだ彼女が幼い“黒沼 千瀬”であった頃。
少女はある日、月に出会った。少女は彼女のことを、お月さまだと称した―――それは、千瀬と百瀬だけの秘密。
『ナナミさん』の家があったのは、千瀬の祖母宅の向かいだった。
――七見月葉。
それは子供のないはずの七見家の、隠された長女の名前。
この邂逅は必然だったのだと、あの時誰もが信じていた。
……消えたくないと、言っていたのに。
「ツキハさんを初めて見たのは、祖父母の家で剣技の初稽古を行なった日」
千瀬とサンドラはゆっくり話をできる場所を求め、ルシファーのディレクターズキッチン――要は上位組織員専用の喫茶店――へ移動した。サンドラがコーヒーを注文し、何でも構わないと答えた千瀬の為に温かいココアを追加する。
「そのすぐ側に“ナナミ”っていう家があって。あたしは祖父に用事を頼まれて、ナナミさんの家に荷物を届けるところだった」
祖父――当時は師範や師父と呼んでいた――の家に通うのは少女の義務であった。あれは姉の百瀬から妹である千瀬に、黒沼の剣技伝承権が移されて間もない頃。
その頃から人一倍人間の気配に聡かった千瀬が《それ》の存在に気付いたのは、きっと必然だった。
「人の気配がしてた。ナナミさんのご夫妻とは違う、すごく微かなもの」
七見家に子供がいないのは同時周知の話で。けれどその日その家にいたのは、世間から隔離されて生きる一人の少女だった。
――否、正確には家の裏の“小屋”に、だ。少女は偶然に、そして必然的に、彼女を見つけることになる。
「あたし、その日からずっとツキハさんのところに通ってた。両親と七見さんの目を盗んで、時々姉さんを連れて」
月葉、と名乗った少女は百瀬よりも僅かに年上で、右は淡い碧色、左は深い橙色の瞳をしていた。こういう色を琥珀色というのだ、と教えてくれたのは姉だったと思う。
暗い小屋のなかでも輝いていた月色の髪、美しい瞳、生きた宝石のような少女。
けれど月葉はいつも淋しそうに笑っていた。その儚い笑顔の理由は理解できなかったけれど、それはただ幼い千瀬の胸に突き刺さり、なおさら少女を月葉のもとへと通わせることになる。どうしようもなくその存在に引かれていた。淋しさを、共有していた。
『――こんなの、大嫌いよ』
そう呟いた彼女の声を千瀬は思い出す。あたしは見た目がこんなのだから。普通じゃないから、と。
(その月はいつから、この凍える空に浮かんでいたの)
(お願い、誰か、捕まえてあげて。)