第二章《模索》:間話‐ある男の話‐
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ある男の話をしよう。
モーガン・ウィッグワードは某裏組織の一構成員である。モーガンは本日行なわれる《ある作戦》を実行する為、組織の中から極秘に《特別戦闘員》として選抜されたのだった。
引き抜きの話が彼のもとに舞い込んだのは、今から約二週間前のこと。しがない末端構成員の自分に昇格のチャンス、そう思った彼はこの話を二つ返事で引き受けた。
モーガン持ちかけられた話の内容とは、新しく組まれる戦闘チームの一員となり、ある組織の掃討に参加するというものである。
『犯罪シンジケート“ルシファー”』――これが、今回作戦のターゲットとなった組織の名だった。
ルシファーとは一人の男が十代のうちに結成した犯罪組織である。瞬く間に力をつけ、所謂“裏”の世界をのし上がってきた強者。
現在所有している金は裏社会でも一、二を争うほどで、財力、権力、それを含めた他組織への影響力と統括力に於いては現段階で右に出るものはない。
モーガンの所属している組織(名を明かす必要はないので、仮に組織αと呼ぶことにする)は今までルシファーに財力面から押さえ付けられ、表向きは従う形をとらざるをえなかった。αはルシファーの傘下にあるわけではない、独立した一組織だ。それが新参相手(そう、ルシファーには古い歴史があるわけではなかった)に良いようにされていたのだから、なけなしのプライドも大いに傷つけられてきたのである。
さて、そんな彼の組織にとって最大の好機が訪れる。
ある日突然、ルシファーの支配している企業や取引の内部事情、及びその他の詳細情報が何者かの手によって流出したのだ。このチャンスを逃す手はなかった。
組織αはこれを切っ掛けにルシファーの支配から逃れようと、組織にとって最も邪魔な存在――ルシファーそのものの排除を計画したのである。方法は単純明快、武力行使だ。裏世界の住人は例外なく力技を好む(理由は定かではないが)。モーガンの組織もその例に漏れなかった、それだけの話である。
――ルシファーに戦闘専門要員がいるという情報が入ってきたのは、彼らがルシファー殲滅の日取りを決定した翌日のこと。モーガンがチームに組み込まれてからは一週間が経過していた。
戦闘専門? 馬鹿馬鹿しい、大袈裟だ、と。モーガンはそんなこと歯牙にもかけないでいた。それを言うならばこちらだって、特別選抜の戦闘チームなのだから。
話によれば、ルシファーの戦闘員にはまだ十代の者も多く存在すると言うではないか。今年四十になるモーガンにとって十代は『餓鬼・お子ちゃま』呼ばわりしたくなるような年代であり、そんなルシファーの戦闘員など怖るるに足りない。そう、それは至極当然な考えである……常識的に言えば。
簡単に片付けてしまう予定だったのだ。赤子の手を捻るように、なのに。
「……どういうことだ、これは」
常識の範疇で処理しきれない事態が起こっていることは明白だった。意気揚揚と繰り出した戦場で、モーガン・ウィッグワードは我が目を疑いそうになる。
組織αからルシファー抹消のために送り込まれた人間は九十。六人×十のチーム編成に加え、後援として三十人。それだけの(やや多すぎると感じてしまうほどの)人数が戦地に向かったはずだった。
「おい、聞こえるか」
『―ぁ、……――!』
トランシーバーから流れ出るノイズは無残に鳴り割れ、時折不気味な音を響かせる。もはやこれは、通信手段としての機能を失ってしまっているのだ。
「……くそっ」
雑音、騒音、微弱に聞こえる声らしきもの。ノイズ、ノイズ、ノイズ、喚声、悲鳴、またノイズ。
このちっぽけな街に入り、ルシファー抹消のためチームごとに行動を開始してから僅か四十五分。
モーガンが事の重大さに気が付いたときには、既に十チーム中、七チームとの連絡が取れなくなっていた。
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『……ガン、モーガン! 聞こえるか』
「……アッシュか?」
突如、トランシーバーが雑音の中から一つの声を拾いあげた。ざぁざぁと鳴く砂嵐の音に混じり、モーガンにとっては聞き慣れた仲間の声が擦れて届く。
『俺たちのチームはもうダメだ。あっという間に四人、殺られちまった』
緊迫した声に滲み出ているのは諦めか嘲笑か。モーガンがそれを考える前に、無線の向こうの相手は語る。
『俺とカールは予定を繰り上げて、もうルシファーの本部に向かうぜ。ここにいても無駄死にしちまうだけだ。お前はどこにいる?』
「……奇遇だな。俺のチームも残り二人……先に行って待ってるぜ。もう目の前だ」
モーガンは笑う。
何だか夢を見ているようだ。否、夢なら良かったものを。なんて酷い夢だろう!
彼のチームは街で戦うのではなく、はじめからルシファーを目指して進んでいた特異な組であった。街での騒ぎに目が眩んでいる隙に懐に打撃を与えよう、という安直な考えのもとでの実行だ。しかし快調に目的地に向かえていたのは途中まで。ロシア語を話す少女と遭遇してしまった瞬間に四人死んだ。
銀の拳銃を使って、確実に一人ずつ殺していった少女。生き残ったのは集合に遅れたモーガンと、隠れていたチームメイトであるラリーだけ。
自分達が残されたのは神の気紛れに他ならないのだと彼らは知っている。嗚呼ジーザス、少女の拳銃は、一度に六発の弾を装填するタイプだった……。
モーガンは顔一面に皮肉るような笑みを浮かばせた。あのツインテールの少女がわざと自分達を見逃したことに気付かぬ程、間抜けではない。
「――プラチナブロンドの天使には気を付けて来いよ」
可愛い顔してたのにな、と彼は自虐的に笑う。そのまま無線を切れば、ぶつり、世界の遮断された音が響く。
(嗚呼ジーザス、糞くらえ)
呆気なく辿り着いた目的地。ルシファーの入口である大きな黒い門は、今まさに彼の目の前に聳え立っている。
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ルシファーの警備は手薄で、モーガンとラリーは難なく建物内に侵入することができた。――否、警備は全くされていなかったのだ。いっそ不用心だと感じるほどに。
モーガンはかつてこれほどまでに巨大な建物を見たことがなかった。この施設を隠しておくことなど地球上では不可能だろうし、実際に裏の界隈ではルシファー本部の所在地を知っている者も多い。
……では何故、所在の割れたこの組織がここまでのうのうと、しかも警備もせずに生き延びていられるか。
「じゃあな、ラリー。生き残れよ」
二人は銃を片手に構えると、各自別々の方向へと歩き出した。これが今生の別れになるかもしれない、そんなことはわかっている。しかし今更引き返せもしない。これは最後の意地だった。
――ルシファーという組織に潜入を試みて生還したものは、未だ誰一人として存在しない。アンダーグラウンドではあまりにも有名な話だ。
(狙うは首領の首、か)
モーガンはそっと息を吐く。口が淋しかったが一服、というわけにもいかなかった。
この際何か功績を残し、生きて帰れさえすれば良い。例え首領に逃げられたとしても情報や金を奪って火でも放ち、ルシファーを再起不能にしてしまえば自分達勝ち。勝てなくともダメージを与えられれば、その功績が認められれば、モーガンのその後は安泰だ。報酬、昇格、全て手に入る。
さて何からはじめたものか、とモーガンは思考を巡らせた。首領の居場所に手っ取り早く辿り着ければ一番良いのだが、そう簡単にいく分けもない。まずは小手調べ、様子見から……そう思って彼がある一つの部屋のドアを開けようとした、その時であった。
(しまった)
声が聞こえたのだ。慌てて耳をそばだてれば、その声の主がこちらに近づいてくるのがわかる。物陰に隠れて息を潜め、視線をそっと奥へやれば、巨大な男と茶髪の女がゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。
話の内容は聞き取れないが、このままでは間違いなく見つかってしまう。モーガンは先程まで手を掛けていたドアを思い切って開けると、部屋に誰も居ないことを確認して中へ飛び込んだ。
ドアの隙間から見える影で二人が通り過ぎたことを確認。ほっと胸を撫で下ろす。情けないことに、これだけで心臓が早鐘のように脈打った。――どうやら、見つからずに済んだらしい。
(助かった)
あれがルシファー専属の戦闘員か只の警備員なのかはわからないが、この段階で見つかってしまっては話にならない。ラリーはうまくやっているだろうか。
当たり前ではあるが、入った部屋が見事に首領の自室だった、ということもなく。のんびりするわけにもいかないので、モーガンは(部屋の中に何か目ぼしい物はないか確認してから)さっさと出て行く事にした。しかし探索開始、と振り返った先。彼の思考はそのまま停止する。
――部屋の中央には小綺麗な椅子。いつからそこにいたのか、ちょこんと腰掛けている少女の黒髪は腰の位置よりも長く、風も吹かないのにさらりと揺れる。
少女は漆黒の瞳でモーガンを見つめ、桃色の唇で囁いた。
「こんにちは、おじさん」
年の頃は十七、八ぐらいだろうか。辺りを取り巻く空気のせいか、それ以上にも以下にも見える。闇から切り取られて浮き上がったように存在する少女を形容するならば、幻のようだと言いたい。透き通るような肌が髪の毛の黒に映えて、幻想的だと彼は思った。
(やあ、お嬢ちゃん。こんなところで何してるんだい?)
モーガンが心の中でシュミレートした言葉は、どうやっても口からは出てこなかった。出るのはだくだくと流れる気持ちの悪い汗ばかり。
少女がこちらを見ている。闇を凝縮した瞳で。その深い色で。
モーガンは息を吐く。吐いた、つもり。――嗚呼、なんてことだ。
(俺が、)
(この俺が)
(こんな小娘に、畏怖の念を抱いているなんて)
凍結した男の前で、少女がにこりと微笑んだ。柔らかい、優しい、愛らしい笑みだった。
それから少女はその表情で、朗らかに言葉を紡ぐのだ。
「さよなら」
――ある男の話をしよう。モーガン・ウィッグワードの話をしよう。
彼の断末魔を聞いたものは誰もいない。誰の耳にも、届かなかったのだ。