第六章《輪廻》:神みつる場所(4)
「八つの地獄を司る神でありました」
低く落ち着いた藤袴の声が淡々と紡ぐ。
しかしその突拍子もない内容に、思わず千瀬は声を上げた。
「か……神!?」
「……つまらない冗談なんか言ったらこの神社は消し飛ぶと思え」
ゾラが不穏な言葉を続けるが、藤袴は僅かな動揺も見せずに微笑む。
「ええ、信じ難いでしょう。ですがこれから私が申し上げるのは真実のみでございます。――この世には、ひとの魂の流動がある。身体から離れた魂ぱくの行き先である極楽浄土……もしくは天国と、その反対の地獄の存在は耳にしたことがあるでしょう?」
「宗教上の思想では、ね。」
「お、おい待てよ!」
「君は黙ってろ」
想像を絶する方向に進み始めた話にたまらず駿が制止を求めたが、ゾラにあっさりと黙殺される。
「神、というのは正確ではないかもしれない。我々の存在を明確に言い表すことはできず、それをこの現世での言葉に当てはめてみたに過ぎませんが……我々は奈落に在る八つの地獄、その一つ一つを各々担っておりました」
藤袴は告げながら、ついと指を伸ばして菩提樹に触れるとその葉を一枚もいだ。彼がふぅと息を吹きかけると、心臓に似た形をしたそれがみるみる大きくなってゆく。駿と千瀬が目を見開く間に、いつしか菩提樹の葉は小振りのスクリーン程度にまで大きくなった。
視覚的にお示ししましょう、と藤袴が笑む。
「一番浅い位置にある地獄が“等活”。これは殺生を働いた者が落とされる場所です。それに罪を重ねるごとに、さらに深い位置にある地獄へ落とされる。等活地獄の次にあるのが、“黒縄地獄”」
ぴくりと千瀬の肩が震えた。藤袴はそれを一瞥しつつ、拡大された菩提樹の葉の正面なぞる。黒板に字を書いて教師がものを教えるように、巨大な画面と化した葉に“黒縄”の文字が描き出された。
「お察しの通り、我々が“黒縄”と呼んでいるのがこの黒縄地獄を司っていた存在です。我らには名はありませんでしたが、便宜上それぞれに冠された地獄の名称で呼びあっていた」
「……では藤袴、お前は」
「わたくしは“衆合”。この、黒縄の一つ下層に在った地獄です」
藤袴がすいと指を滑らせればまた、葉の表面に文字が現れた。
「そのさらに下に位置するのが“叫喚”。それに続いて上から順に、“大叫喚”、“焦熱”、“大焦熱”、そして――」
「……、」
「地獄の最下層に位置するのが“無間”。一層上の“大焦熱”の千倍の苦しみを与える場所です。他の七つの地獄よりも大きく、深く、堕とされた者はそこに到達するだけで二千年の時間を要する」
「むけん、って……」
全ての地獄が葉上に映し出されたのを見た千瀬の脳裏に、一人の老婆の姿がよぎった。黒沼の家に現れた、あの尾花だ。無間。確か彼女がその言葉を吐いていなかっただろうか?
尾花の話は不明瞭で、独り言に近い部分も多かった。その断片を繋ぎあわせるだけでも至難の業だ。千瀬は眉間に皺を寄せながら与えられたヒントを賢明に照合しようとする。
「これら八つを合わせ、“八大地獄”と呼ばれます」
「八つの地獄に八人の神、ね。それがお前たちの正体、本来の姿だと?」
「ええ」
「……はっ。仮にそれが本当だったとして、神様とやらがこんなところで何してる」
心のどこかでは馬鹿馬鹿しいと思う気持ちを棄てきれないのだろう、顎に指を当てて情報を品定めするようにゾラが質問する。対して藤袴は薄く笑っただけだった。真相はこれから、ということだろうか。
尾花に比べて藤袴の話は順を追っているし、格段にわかりやすい。けれど全貌は未だに見えず、駿が苛立って地面を蹴飛ばす。
何かが引っかかっているような気がして――しかしその違和感に一番早くたどり着いたのは、意外なことにぼんやりと聞き流している様子のルカだった。
「一人、足りないのね」
「え?」
唐突に呟く黒髪の少女を一同は振り返る。
「八人の、地獄の神。でも藤袴――あなたたちは今“秋の七草”を名乗っているんじゃ?」
「あっ」
千瀬が小さく呟いた。そうだ、一人足りない。
「もしかしてそれが女郎花? あなたたちの仲間から抜けて……あれ、でも名前……」
「ええ、違います。いなくなったのは、女郎花では――“無間”ではない。」
ぞわりと千瀬の背筋を冷たいものが走った。無間――奈落の底にある地獄の番人、それが女郎花なのか。他の七人よりも深い闇の主。
その名を口にした藤袴は、一呼吸の後、さらに驚くべきことを口にした。
「いなくなったのは、“黒縄”だったのですよ。彼は我々を――そして無間を、裏切ったのです」
一瞬、なにを言われたのか理解ができなかった。
轟々と風が吹く。
神社を囲む結界の中に作られた、この夜だけを吹き抜ける風が渦を巻いている。首筋からすくい上げるように髪を浚われるのを感じながら、千瀬は言われた言葉の意味を反芻していた。
「裏切っ……た?」
黒縄なる人物――といえるのかは甚だ疑問だが――の血を引いている、と尾花に言われた千瀬にすれば穏やかではない話だ。同じことを駿も感じたらしい。おい何だか雲行きが怪しくなってきたぞ、と身を屈めて耳打ちしてくる。
「お前の家っててっきり被害者側だと思ってたんだけど。違ったりして……実はその黒縄が一番悪い奴なんじゃ」
「ええ……」
嫌な想像に千瀬は渋顔を浮かべる。しかしそれに答えた藤袴の声は、存外穏やかなものであった。
「ご安心ください。裏切ると言っても、あくまでも我らだけの問題です。それも心情に依るところが大きい。あの日、黒縄は彼の持つ選択肢の一つを選んだに過ぎない。それは彼の自由だった」
「それは……どういう……」
「何が起こったのか、先に結論だけ申し上げましょう」
藤袴が手首から先を動かすと、それと連動して菩提樹の葉が一度大きく揺れた。次の瞬間、葉の表面から“黒縄”の文字だけが剥がれ落ちて霧散する。
「その日“黒縄”は、黒縄地獄の番人を降りると言いました」
霧散した文字は黄金色にきらめきながら菩提樹の幹を取り囲み、上へ上へと昇ってゆく。次いで取り残された地獄の名前達がぐにゃりとその形を歪めはじめた。
「黒縄が抜けることで、必然的に残った我ら七人も地獄を担う役目を降りることになりました。そのまま八人、次の役につくはずだったのですが、黒縄だけがいってしまった。何者でもなくなったわたくし達は、別の名称を冠することでひとまず互いを識別しようと考えた。この国の暦で季節は丁度、秋。その代表的な草花の名を借りることにしたのです」
一度融解した葉上の文字があらたな形に作り変わってゆく。
衆合と書いてあった場所には“藤袴”の文字が。無間は“女郎花”へ。そして叫喚が“尾花”に変わった。他にも目を凝らしてみると、他の地獄名が記されていた場所も萩、葛花、撫子、朝貌というように変化してゆく。ここでの“朝貌”は現代でいうところの桔梗にあたる植物だ。正真正銘、秋の七草である。
しかし全ての名が一新された後ただ一カ所、黒縄の名があったところだけはぽっかりと空白になっていた。
「……なぜ、黒縄だけが消えた? お前の口振りからみるに、その役割とやらを降りるのは特に問題なかったんだろう」
不自然な文字の隙間を睨みつけながらゾラが問う。藤袴はそれにゆっくりと頷いてみせた。
「黒縄が任を降りたいと希望することは、可能でした。ただし一人だけとはいかない。我らはそれぞれが別の地獄を担っていましたが、けして単独で意味のある存在にはなれないのです。黒縄が降りるのならば、我らもその役を降りようという話で意見は一致しました。もう時間の感覚もわからぬほど長く八大地獄を司っていたわたくし達ですが、その任を降りることの叶う周期がある。配下から次の役を選ぶ必要はありましたが――その日はちょうど、その周期にあたっていた。不可能では、なかった」
仲間は皆、黒縄の希望を叶えてやるつもりだったのだと藤袴は言う。
「ところが……黒縄の願いは、もっと深いところにあった。――彼は、」
ゆっくりと、藤袴の白い指が千瀬のほうに伸ばされた。警戒した駿が割って入ろうとしたが、それを制したのは千瀬自身だ。
「彼は、ひとになりたかったのです」
千瀬の頬を手のひらで撫で、その面影を懐かしむように……慈しみ、哀しむように、藤袴は笑う。
「黒縄は我らとの繋がりを棄て、膨大な力も捨て、ちっぽけな人間になりたいと願った。そうして本当にひとになって、あっという間にその命を終えてしまったのですよ。何百、何千という年月を過ごしていたわたくし達にとっては一瞬の出来事でした」
「それって……」
「人間になった黒縄。お察しの通り、それがあなたの祖先です――黒沼の娘」
本当に、なんて、短い。何に想い馳せているのか、遠くを見つめながら藤袴はぽつりと漏らす。
「無間――女郎花も、昔はただ哀しんでいただけだったのです。我らの永遠に近い命から見れば、ほんの微かな執着に過ぎなかったのです」
最後にもう一度だけ藤袴の指は千瀬に触れた。細い黒髪を数束すくい上げて、離れてゆく。
「今はもう醜く歪んで、なぜ固執するのかさえわからなくなっているのでしょうが」