第六章《輪廻》:神みつる場所(3)
長い時間が空いてしまいましたが、また少しずつ書き始めました。待っていてくださった方がいたら本当に申し訳ありません。
地鳴りがした。
足元を突き上げられるような感覚に千瀬は思わずしゃがみこむ。瞬間、すぐ近くから驚愕に満ちた駿の声が降ってきた。
「嘘だろ!?」
咄嗟に顔を上げて辺りを見回した千瀬は、思わず我が目を疑うことになる。眩しいばかりだった青い空が、見る見るうちに濃紺に陰りはじめたのだ。
すさまじいスピードで雲が流れて太陽が沈んでゆく。まるで映像をコマ送りにしたようだ。
「ゾラが情報屋なんてものを一人でできるのは、この力に依るところが大きいの」
ただ一人のんびりと解説を始めたルカの髪が夜風に吹かれて闇の色に溶け込んだ。ゾラの力が作動してから僅か数秒。すでに色濃い影が辺りには落ちている。
「時間操作。ずるい能力よね」
「進めたり戻ったりできる範囲は限られるけど、ターゲットの行動を追うには便利な力だよ。ちなみに今、夜になってるのはこの神社だけ。結界を張ってあるから、一般人が外から見る分にはわからないだろう」
「なん……だそりゃ…!!」
何でもアリにもほどがあるだろ! 駿が渾身の突っ込みを入れている傍らで、千瀬はゆっくりと後ろを振り返る。一般人にはわからない――そうゾラは言ったが、今まさにここに、一般人が一人いやしなかっただろうか。
恐る恐る見てみると、想像通りに梢が硬直していた。何が起こったのかまるでわからないといった様子である。
フォローは後で入れよう、もしくはミクの力を借りよう……考えて千瀬は小さくため息をついた。ゾラもルカも、己の異質さを隠そうという気がまるでない気がする。
――カチリ、と時計の針の音がした。揺れが少しずつ緩やかになり、それが収まったと同時に完全な闇が訪れる。見上げれば星すら見えて、風もどこか冷たい。
「夜」がやってきたのだ。ほんの少し前までは完全に日が昇っていたというのに、今や僅かな光すら見えない。
「さーて」
傾けた首をコキリ慣らしながらゾラが梢をのぞき込む。何が起こったのか未だ理解できていないのだろう。茫然自失、といった様子だ。
「これで出てきてくれるんだろう?」
「ゾラさん、そんな無茶な……その人にもきっとわからないですよ」
急かすように梢に確認するゾラを窘めながら、千瀬自身も状況の変化を探して菩提樹に視線を戻す。
「……え、」
次の瞬間、千瀬はとんでもないものを目にした。隣にいた駿もまたあんぐりと顎を落とす。
「……!?!?」
それは白い腕だった。あまり節ばっていない中性的な剥き出しの腕が、肘から先のみ、菩提樹の幹からにょきりと生えている。どう見ても心霊現象だ。
刹那、その指先が空を掴むような仕草をする。そうして何かに引っ張られるかのように――腕に繋がっている肩が、胴が、腰が、ずるずると菩提樹の中から現れた。
誰もが固唾を飲んで見つめる中、静かな声が響く。
「――随分と急なことをするのですね」
ほう、と息をついたそれはようやく一人の人間の形になって、柔らかな視線をゾラの方に向ける。誰がこの“夜”を呼んだのか、とうに気付いているらしい。
無駄だとは知りつつも銃口を持ち上げたゾラの口元が、期待通りの展開に微かな笑みを形作った。
「皆様、お初にお目にかかります。私はこの菩提樹と共にある者」
穏やかな、しかし朗々とした声が響く。
白い着物を着た男だった。一見死に装束のように見えるが、合わせは逆になっていない。落ち着いた声色には反して年若く見えるが、その外見が正しい年齢を映したものでないことは、この場にいる誰もが気付いていた。
本当に出やがった。呟いたのは駿だろうか。
「名を、藤袴と申します。または――――」
名乗った男の目が一瞬だけ、ぼんやりと座り込んでいる梢を見た。
「この土地で暮らす人々からは―――“サトマ”、と」
瞠目したままの梢がパクパクと唇を動かすが、言葉は音にならない。だが現れた男が梢の言っていた、彼女が四年前に出会った「サトマ」なのだと言うことは間違いなかった。そしてその存在が、女郎花や尾花と同じなのだと言うことも。
ふじばかま、と確かめるように千瀬が呟く。
「ご足労いただいてどうも。僕達のことはわかるね? 藤袴―――サトマ、と呼んだ方が?」
「どちらでもお好きなように」
「じゃあ藤袴。そのほうが統一感があって良いだろう」
君も植物の名を持つんだな。確認するようにゾラが言えば男は微笑む。直感的に危害を加えてくる相手ではないとわかったのだろうか、ゾラはすんなりと銃を下ろした。
「尾花に、会ったのですね」
皆無言で肯定すれば、藤袴がゆっくりと目を伏せる。
「あれは傍観に徹しているべきなのですが、どうにも世話焼きの気質で。ご迷惑でしたら、申し訳ありませんでした」
「……あなたは?」
問いかけたのはルカだ。藤袴の宿っていた菩提樹の幹を撫でながら、目線だけを男の方にに向けている。
「あなたもまた、傍観するだけ?」
「……いいえ」
一呼吸の後、藤袴は大きく破顔する。
「私は変えたかった。女郎花の不毛な行いを、ずっと止めたかった――それがかつての同胞であった我々の、役目だと思っておりました。だから……あなた方を待っていた」
「かつての……同胞?」
気になる単語を駿が拾い上げた瞬間、横からあっと小さな声が上がった。振り向けば千瀬が目を見開いている。
「わ、わかった!“秋の七草”だ!」
「?」
「藤袴も、尾花も、女郎花も……秋の七草の名前なんですね。何か聞いたことあるなって思ってたんです。あー、そっかぁ……」
「ああ?」
未知の存在相手に一人スッキリした様子の千瀬とは相反し、駿の脳内には疑問符がびっしりと浮かんでいた。春の七草、ならばどこかで聞いたことがある。セリ、ナズナ……忘れたが確かそんな感じだ。秋ってのは何だ、そんなものあるのか?
ぐるぐると思考していると、またにっこりと藤袴が笑む。
「その通りです、聡い娘よ。……貴女が黒縄の子ですね」
「!」
見透かされるように真っ直ぐ瞳をのぞき込まれて、一瞬千瀬の身体が強ばった。だがここまで来て臆するような繊細さは、もう千瀬には残っていない。
――はい、そうです。一拍の後、返したいらえは震えてなどいなかった。
「藤袴さん。私たちを、待ってたんですよね。教えてくれるんですよね?」
強い意志の宿った黒い瞳が揺らぐことなく藤袴を見据える。
「教えてください。黒縄とは何ですか? 女郎花は何をしようとしてるんですか?」
「――――、」
「私に、止められますか?」
「……可能性は、皆無ではありません」
藤袴は少し身を屈めると、白い指先で千瀬の頬に触れた。ひんやりとしたそれは幽霊のように思えたが、確かな実体を持って肌の上を滑る。
「お話しましょう、我々のこと、貴女のこと。ようやくその時が来たのですから」
触れられた感触に目を細めれば、千瀬の脳裏に一瞬だけ、見知らぬ男の姿が浮かんだ。知らないが、それがなぜか目の前の藤袴と同一人物だと思う。外見は違うが同じ存在だ。懐かしいような気さえするのは何故なのだろう。
「では、その前に」
藤袴の手のひらが千瀬から離れる。何をするのか見守っていると、今度は彼が梢の方に手を伸ばしたので駿と千瀬は驚愕した。
「おい、そいつは――――!」
「わかっておりますよ。この娘は、これ以上来ない方が良い。大丈夫。手荒なことは誓って致しません」
硬直したままの梢が、サトマさん、と呼んだ。絞り出したようなその声に藤袴は優しく「はい」と返事する。
「過去に一度、お会いしましたね」
「……サトマさん、わたし、」
「藤袴の花言葉を、ご存じですか」
「……え?」
不意をつかれてきょとんとする梢の額に、藤袴がそっと手のひらを押し当てる。
「私の言葉は“躊躇い”、“あの日を思い出す”、そして――」
「……、」
「“優しい思い出”、です。貴女の優しい記憶は、ちゃんと永遠になったでしょうか」
瞬間、梢は目を際限まで見開いた。瞳の表面がみるみる潤み始めると、大きく溢れてこぼれ落ちる。ぽろぽろと落下する滴をそのままに、梢は唇を戦慄かせた。
「……っ、はい、」
藤袴の手がゆっくりと滑り落ちて梢の瞼を閉じさせる。途端に涙はぴたりと止まり、同時に梢の身体から力が抜けた。ぐらりと傾いで倒れそうになったその身体を藤袴は支えると、菩提樹の幹にもたれかけさせる。
「おい、そいつに何を――」
「眠っているだけです。目が覚めたらきっと、ここでのことは夢だと思っているでしょう」
その口振りから、男がミクの行う『忘却』に近いことをしたのだとわかった。千瀬がのぞき込めば、梢はすやすやと気持ちよさそうに寝息をたてて目覚める気配がない。
「……さて、何からお話しましょうか」
梢がドロップアウトしてしまえば、この場にいるのはめでたく“普通ではない”者ばかりだ。これでようやく話に入れると、ゾラはどっかり地面に腰を下ろした。つられたように千瀬もその場に正座する。
「時間があまりないんで手短に頼むよ」
「そうですね。そちらのお嬢さんに樹を枯らされないうちに始めましょう」
「……ルカ、いい加減菩提樹から手を離してやれ」
ゾラに言われて渋々樹から離れたルカは、瞬間足元から“水”を放出すると空中でくるくるとひとまとめにした。ぷよぷよとゼリー状に固まったそれを地面に下ろすと、まるでソファーのように腰掛ける。
(何だそれ……!?)
そんな使い方もできるのか。まじまじと見ていた駿の視線に気付いたのか、ルカが声をかけてきた。
「一緒に座る?」
「……遠慮しとく」
心からの断りを入れて駿も地面に腰を下ろすと、それを待っていたかのように藤袴は口を開いた。
「ではまず、遠い遠い過去の話を少々。我々が一体“何”なのかについて」
伏せられていた男の目線がふと持ち上がり、遠くを見るような仕草をした。瞬間ひときわ大きな風が吹き、ざわざわと菩提樹の葉がゆれる。
それはまるでこれから始まる物語に、観客が拍手を送っているかのようで。
「……遙か昔。我らは、八つの地獄を司る神でありました」
――――それは、途方もない物語で。
梢と藤袴の話が「最後の三日」にあたります。ここまで長かった。