第六章《輪廻》:Patrinia scabiosaefolia(4)
「………くそったれ、」
汚い言葉を吐き捨てるゾラは目に見えて苛立っていた。くまなく周囲を見渡しても老婆の姿はなく、気配すら追えない。
「あの、化け物め。僕を、コケにしやがって、くそ、むかつく!」
怒りのために区切られた台詞には、思慮深く聡い彼女にしては幼稚な単語ばかりが並んでいた。
千瀬はそんなゾラを恐々と眺めていたが、ふと姉が動き出したのに気付いて意識をそちらへ向けた。
「姉さん、」
「……本物だわ」
老婆消失の衝撃から立ち直ったらしい百瀬は、手渡された巻物を検分し始める。雑に扱えば崩れてしまいそうなくらい紙が古い。脆くなった表面に注意を払いながら、百瀬はそれをゆっくりと広げた。
(――――嗚呼、)
それを見た瞬間、くらりと一瞬千瀬の意識が揺らぐ。身体の最深部に沈んで消えかかっていた記憶が、ふつりと音を立てて湧き上がった。
(しっている。そうだ、これが、)
秘伝【黒縄】の指南書。後世にその奥義を伝えんと書き残された、黒沼家の家宝だ。
マニュアルとしての役を果たすものだが記された文字は字体が古く、古典の知識がなければ読み解くことは殆どできない。事実千瀬が技を習得した時は、これを呼んでいたのは父だった。そうだった、と唐突に思い出した。
「……面倒だな。三割くらい意味が分からない」
漸く落ち着いたゾラが、百瀬の手元をひょいと覗き込んで言う。
「……七割は分かるんですか? 日本人にも難しいと思うんだけど」
「情報屋たるもの、そのくらいの学はあるよ。語学は得意だし――ただこれは、妙に……暗号化されてるのかな」
トントンとゾラが指差した部分に千瀬も視線を落とす。そこで、おや、と思った。筆で書かれているらしい流れるような文字が連なる中、すんなりと読める部分があったのだ。
「これ……この部分が、術式です……何か、わかる」
「は? え、どれ」
ゾラが困惑の表情を浮かべたが、千瀬はそれ以上に混乱していた。文字は読めていないはずなのに、その意味だけが頭にすらすらと浮かぶ。響く。回る。まわる。まわる――。
(何、これ、きもちわるい……)
*
*
*
*
禊ぎの廻向
霊刃の病葉
化野の左契
生は鞘に、
死を切っ先に、
黒き血は八つの獄に。
八百万の神に梔の歌を。
芙蓉の峰の邂逅で――
*
*
*
*
*
くるくる、くらくら。混濁する思考の中で懸命に千瀬は考える。
これは子守唄だった。幼い千瀬が眠るとき、母親が繰り返し聞かせた詩。黒縄習得に必要な言霊を、幼子の身体に染み込ませるように――何度も、何度も言い聞かせられた。
意味を考えたことはない。けれど千瀬は、意味がないと思ったこともなかった。
(何だろう、今になって気になる……芙蓉の、峰。……“ふようほう”って、確か――)
『 ――そうじゃ 』
(――――――え、)
『 約束の地を、お前は知っている 』
(な、に、?)
『 逢うてやっても良い。お前が望むなら 』
頭を殴られたような衝撃を受け、千瀬は思わずその場にうずくまる。脳がぐわんぐわんと揺れているかのような感覚に襲われる中、遠くの方で、もう何度も聞いた声がした。女の、声。女郎花の声。
今までと唯一違うのは、それが夢や記憶の残滓に似たものではなく――こちらへ、語りかけている?
「――――せ、ちとせ、」
「……ぅ、あ?」
「おいチトセッ、どうした!?」
気付いた時には顔面蒼白の駿が、屈み込んだ千瀬の肩を抱き支えていた。
ぼやけていた視界が定まってくると、自分のおかれた状況が見えてくる。ゾラも百瀬も心配を隠しきれない顔で少女を見ていた。
「大丈夫かよ、どっか具合でも悪いのか」
「あー……ごめん、平気」
「……ったく、」
謝れば微かに、駿の顔に安堵が浮かぶ。少年の手を借りて立ち上がった千瀬の額に、今度はゾラがぴたりと手を当てた。
「……痛む?」
「いえ」
「そう。この巻物を見るのが辛いのかい? 悪いけど、この先君にどんな影響が出るのか僕にもわからない。嫌なことを思い出すかもしれない。ただ現状、精神面の辛さは耐えてもらうしかないんだ。ただ体調にも悪影響が出るなら休んで――」
「……大丈夫です、ゾラさん」
けして「逃げて良い」や「忘れたままで良い」とは言ってやれないゾラの、精一杯の気遣いを感じ取って千瀬は笑った。触れたままの手のひらは少し冷たく、優しい。熱を帯びた肌にはとても心地いい温度だ。
「声が聞こえたから、びっくりしたんです」
「声?」
「はい。女郎花の、声。姉さん、聞こえた?」
「……いえ。何も聞こえなかった」
姉が首を横に振ったのを確認し、千瀬は今し方の体験を語り始めた。しかし鮮明に聞こえた筈の声が何と言っていたかを思い出すことは叶わず、仕方なく話題を変えて“黒縄の術式”の言葉も同時に教えてやる。しかし案の定、ゾラをもってしても、千瀬にその部分だけ読み取れた理由はわからなかった。
「一番可能性が高いのは、やっぱり女郎花の影響だろうね」
「あの尾花って婆さんといい、女郎花といい……何なんだ一体」
「そのヒントがこの“術式”にあると、僕は踏んでるんだけどね――」
渋顔を浮かべた駿の横で、情報屋は何かに思いを巡らせているようだった。
千瀬の暗唱した言葉を近代の日本語に書き換えたメモを、彼女はじっと見据えている(ゾラの書いた日本語は書き順まで完璧だった)。現代国語として見ても、術式の言葉は難解だ。意味をなさない単語の羅列にすら見える。
「……チトセ。君の見る“夢”の話だけど」
「はい」
「僕はその内容を全般的に信用する。そこで、その夢が――女郎花の記憶であると仮定しよう」
「え?」
戸惑う千瀬を手のひらで制し、ゾラは続ける。
「あの尾花という婆さんの口振りからして、“黒縄”は本来居合いの技なんかじゃない――人の名前だ。いや、人と言うには語弊があるか……尾花な女郎花と同じ、この世に在らざる存在だろう」
「………、」
「君の夢で女郎花とおぼしき女は、『忘れまい』と言う。それも相当恨みのこもった口調でね。怨念の対象は“黒沼”であり、“黒縄”なんだよ。あの婆さんが、血がどうこう言ってただろう……黒縄なる存在は、君のご先祖かもね」
「え、えぇえぇ!? だって人間じゃないって……」
「そこがわからないんだけどね。まぁ可能性の話だと思って聞いてよ――で、ここからが本題だ。女郎花が黒縄に対して何を『忘れない』と言っているのか」
僕だったら、と。わざと狂わせた一人称を唇に乗せ、ゾラは猫のように笑う。
「忘れたくない、忘れさせたくない事柄は、言葉に出して暗記する。人間がものを覚えるには、視覚より聴覚に働きかけた方が良い。何度も何度も繰り返して、ね」
「―――! ってことは……」
「うん。つまり“術式”の内にこそ、女郎花が伝えたいことが含まれている可能性が高いんだよ。チトセ、君の記憶からこの言葉が消えていないことが、何よりの証拠にならないかい?」
ゾラの言い分は筋が通っていた。そこで千瀬は、改めて“術式”の内容と向き合ってみることにする。しかし見れば見るほど難解な文章だ。まずは単語の意味から調べる必要がありそうである。
「廻向って何だ……?化野、もわかんねーし」
千瀬の横に立って解読を手伝い始めた駿は、ものの数秒で諦めモードに突入した。
しかしそこで思わぬことに、百瀬の助け船が入る。
「化野は地名ですよ。京都に実在している……火葬場があったことで有名な場所」
「……へぇ?」
「転じて今は、“墓場”の意味で言われることが多いと思う」
「やけに博識だねえ。助かるよ――日本古来の言葉は難解なものばかりでね。僕もいちいち調べないとわからないことが多いから」
面白いモノを見つけた時のように、上機嫌でゾラが言う。
「意味など無いと思っていた」はずの百瀬が、術式を自分なりに解読しようと足掻いた過去があったとしても、ゾラには関係のないことだ。その矛盾を言及するつもりもない。ただし有効に利用はするべきなので、黙って続きを促した。
「廻向は『死者の冥福を祈ること』。普通は簡単なほうの字を書きます」
ゾラから渡されたメモに“回向”と書き付けた百瀬は浮かない顔をしている。その様子は自分の発言によって解き明かされるものを、恐れているようにも見えた。
「左契は、約束の証拠のこと。もともとは二つに分けた割り符の、左側のことを示してたみたいです」
「わくらば、っていう言葉が二回出てくるけど、これは?」
「“病葉”と“邂逅”ですね。前者は文字のまま、病気にかかって朽ちた葉。後者も漢字の通り、邂逅だと思います」
「ふうん。あとは?」
「それが……わからなくて。“八つの獄”とか、何かの例えなのかと思ったんですけど」
「八……八っていう数字は気になるね。日本や中国は数字に意味を持たせることが多いし……」
一度僕の事務所に帰って調べてみるか、とゾラは独りごちる。千瀬は与えられた情報を必死に噛み砕いたが、やはりこの“術式”が何を述べようとしているのかはわからずじまいだった。
「それにしても……考えれば考えるほど、女郎花は化け物だ。尾花の同類だと考えればなおさら――しかもあの婆さんですら、女郎花の存在を持てあましていたようだし。……妙だな」
「妙?」
声をひそめるゾラにならって、千瀬も囁くように問いかける。
「そう。妙なんだ――ずっと気になってた。女郎花は危険だ。人ではない上に、次元を超えた異能を持っている。不死身かもしれない。どう考えても、接触を図る相手としてはリスクが高すぎるんだよ。あのむかつくほどに聡明な男が……ロヴ・ハーキンズがわざわざそんなことをするか?」
「……興味本位ってやつじゃねーの。あいつならあり得るぜ」
「ハーキンズは部下の前じゃ愚かな振る舞いばかりしているけれど、本当に馬鹿なことはしない男だよ。それがまた腹立たしいんだけど……これまでだって一部の例外を除けば、大事な組織を危険に晒すことはなかったはずだ。安全なラインをあいつは見極めてきた。けど、今回は――」
「……ロヴはずっと、女郎花を探してたんだろう? ちょっと危険でも見つけたい相手だったから、安全なラインを自分から超えたんじゃないか。組織と目的を天秤にかけた時に、目的のほうが大きければ……あ、れ?」
はっと駿が目を見開く。事の重大さに漸く気付いた。まさか、と少年は思う。この想像が正しければルシファーという組織は今まさに、とんでもない局面を迎えていることになる。
「……そうだよ、シュン。僕らは根本的な考え違いをしていた。ハーキンズが女郎花を探していた理由が、気紛れや興味本位でなく、もっと大きな目的を持っていたら――」
ゾラの目がすっと細められた。
「例えば、“ルシファーという組織がそもそも、女郎花を探すために創られていたら”?」
「!」
「“ロヴ・ハーキンズの行動が全て、女郎花のためのものだったら”もしくは――“女郎花を利用して成し遂げたいこと”が、あの男の“本当の目的”なのかもしれない」
「そんな、」
「組織の存在と目的。その通常の順位は、ハーキンズの考えを知っていれば一目瞭然だ。あいつは何より仲間を大切にしてるんだよ。だから――その順位が入れ替わるとしたら、可能性は一つ。彼のルシファーという組織が、特定の目的のために存在していた場合だ」
千瀬と駿は二人揃って絶句した。
確かに千瀬は、ルシファーが“何をしているのか”を知らない。否、正確には――犯罪シンジケートとして膨大な金を集め、他者の領土を奪い、敵対組織を潰し、傘下を操って地位を高めたその先で“何がしたいのか”、を。深く考えたことなどなかった。ルシファーは千瀬の居場所で、それ以上でも以下でもない。一組織員に過ぎない少女にはそれで十分なのだ。
しかし全てを統括するロヴ・ハーキンズにとっては違う。ルシファーは彼の所有物だ。彼が目指す何かのために存在するべき、巨大な駒。
「こうなったら、ハーキンズの野郎がこれまでしてきた行動全てを洗い出す必要があるかもしれない……面倒だけど……女郎花をやみくもに探すより、そのほうがあいつに辿り着く可能性が高い」
「今からそんなことして間に合うのか?」
「だから狙いを絞る。まずあの、外部アクセスが禁止されてる研究所――あれの運営目的がわかれば、何か掴めるかも」
ゾラが何気なく零した言葉に、きょとん、と二人は首を傾げる。
「……、研究所?」
「何だ? 君達知らないのか?そりゃ、僕でさえ簡単に探れないくらいだから、研究内容は機密事項なんだろうけど――存在くらい、」
「いや、俺も初耳だ」
「……はぁぁ? 無知にも程があるぞ……! 君達って馬鹿? 馬鹿なの? ルシファーが犯罪シンジケートとして集めた金が、どこに使われてると思って―――っ、!?」
ヒートアップしていたゾラがそこで、不意に言葉尻を途切れさせた。彼女の纏う空気がみるみるうちに剣呑になってゆく。
「……あり得ない。誰か、この家を目指して来る奴がいる」
「え、」
ピンポーン。
千瀬が驚きの言葉を口にした瞬間、その場にそぐわぬ間抜けな音が響き渡る。実に数年ぶりに稼働した、玄関先のチャイムの音だった。