第六章《輪廻》:Patrinia scabiosaefolia(1)
なんてこったい!200話突破です。読んでくださる方、本当にありがとうございます。あと30話くらいで終わるかな、どうかな……最後までお付き合いいただけたら幸せです。
『 約束、を 』
嗚呼、これは夢だ。何度も見た夢だ。
いつの間にか自分は眠ってしまっているらしい、と千瀬は思う。車に乗っていたはずだから、この光景はおかしい。一面に広がる黄色の花畑。絨毯のようにゆらゆら揺れる、この花の名にはもう気付いている。遠く聳え立つ山の裾は、美しい藤色だ。
(………だれ?)
夢だとわかる夢を、明晰夢と言うらしい。そんなことをぼんやり考えながら、心の中で少女は問う。声に出さなくたって相手には伝わるだろう、夢なのだから。
『 約束を、守って 』
声の主はいつも同じことを言う。千瀬が忘れてしまった、過去に見たたくさんの夢の中で繰り返す。
忘れているのに繰り返しているとわかるのは、やはり夢だからだろうか。わからない。
わからない。
(どこに、いるの。教えて)
(わからないよ)
(約束って、何)
教えてほしい。どうすればいいのか。
教えてほしい。声の主が、自分に何を求めているのか。
千瀬はいつも見ているだけで動けない。この夢だってそうだ。流れる景色を、声を、只管に脳裏へ刻むだけ。のんびり屋の自分が事態を静観していたせいで、大切な人を巻き込んだ。たくさん巻き込んだ。そして、失おうとしているのかもしれない。
「あなたに、会いたいんです」
ついに千瀬は唇を動かした。夢の中でそう、はっきりと口にしたのは初めてのことだった。
千瀬はもう、全てを受け入れるだけの子供ではない。
『 ―――――……、 』
ふと空気が揺らいだ。一方的に見せられるだけだったはずの夢が、こちらに呼応する。
声が聞こえた。何かを言っている。何か、これまでとは違う、何か重大な――。
『 よかろう 』
お前を 待っていてやろう
だから、
だから――――――
***
かくん。
深い闇の中へ墜落する最中で、急に意識が浮上した。深海の中をたゆたう身体が誰かに腕を掴まれて、思い切り上へと引き上げられる感覚。言いようのない浮遊感にくらくらしながら目を開けると、じっとこちらを見つめている眼に気が付いた。黒目がちの美しい瞳。それが動揺しているように、微かに揺れている。
「……姉さん?」
どうしたの。こちらを凝視する姉の顔がどこか青白く見えて、千瀬は思わず声をかけた。寝起きで喉が渇く。
百瀬はしばし硬直していたが、漸く妹から視線をそらした。己を落ち着かせるように息を吐いて、車のシートにゆっくりと身体を預け直す。
……車。そう、車だ。黒沼姉妹は今、車の後部座席に並んで座っている。
“学園”から帰還した先の、ルシファーに主立った変化は見られなかった。しかしそれはあくまでも表面上の話で、上層部は消えた首領の行方を掴もうと必死になっている。
今、一部の事情を知る組織員のみで捜索部隊を構成している最中らしい。千瀬に車を手配してくれた青年、デューイ・マクスウェルはその一員になると言っていた。七見月葉の直属でEPPCの事を知っており、ルカとも接触のある彼が選ばれたのは自然なことなのだろう。
『ボスは俺達が必ず見つけます。だから、』
チトセちゃんは心配しなくて良いっすよ。
そう笑ったデューイの表情が微かに陰っていたことに、聡い千瀬は気付いていた。けれど少女には、やらねばならないことがあるから――だから、黙って頷いた。
「……夢を、見て」
数刻前のやり取りを思い出していると、百瀬がぽつりと呟く。車を運転しているゾラには聞かせたくないのだろう。
「しばらく見てなかった、あの夢だったから驚いたの」
「あの夢って……まさか、」
姉の言わんとしていることに漸く気付き、千瀬は愕然とする。つい先程まで千瀬自身が沈んでいた、黄色花の夢。
「ただ、前に見たものと少し違って……チトセ、が」
「あたし?」
そこで百瀬は何かを言いよどみ、口を噤んだ。自分に良く似た横顔が頑なに一点を見据えている。それをじっと見つめ、千瀬は言葉の続きを促した。
「チトセが、誰かと喋っていたわ。だから驚いて――女、だった。あれはたぶん、」
黄金に輝く小花が千瀬の頭を過ぎる。百瀬が何を言いたいのかは、もう知っていた。あえて口に出して、これ以上傷つく必要はないだろう。そう考えて、少女は姉の言葉をやんわりと遮る。
「……うん……不思議だね。姉さんも、同じ夢を見たなんて」
「同じって……そんな、」
「――同調。共鳴。君達なら起こり得るだろう。偶然か必然かと問うならば、間違いなく後者だ」
突如第三者の声が割って入り、姉妹は目を見開いた。前方に目をやればミラー越しに、細められたゾラの眼がこちらを覗いている。
この情報屋には、二人の会話など最初から聞こえていたのだろう。
「二人とも、よく眠っていたね。もう着くよ」
「あ、はい……すいません、寝ちゃって」
「構わないよ。言っただろう、君達の場合は必然だって……ま、彼の場合は素で寝てるみたいだから――そろそろ起こそうかな」
言うなりゾラは運転を続けたまま、左足を隣の席に向けてぐんと突き出した。刹那、ドスッ!という鈍い音が響く。
「うぐっ!?……げほッ」
助手席でうたた寝していた駿が低く呻いて跳ね起きた。余程の勢いがあったのか、そのまま何度か咳き込む。
「ゾ……ラ……、てめぇ」
「無防備。危機感の欠如。ルシファーの戦闘員にあるまじき醜態だよ、君。何のために来たんだい」
加害者に非難の視線を向けた駿は、しかしそれ以上は何も言わなかった。薄く涙を浮かべながら、情報屋に蹴られた脇腹をさする。
「君がどうしてもって言うから連れてきてやったんだ。足手纏いになるようなら、この場で放り捨てるからな。どうする」
「――っ、ならねぇよ。このまま行くに決まってる」
今、千瀬を乗せた車はまっすぐ上水流町に向かっている。黒沼の家がある、あの場所だ。
前回との一番の違いは百瀬が同行していることだ。そしてゾラと駿がいる。ごくごく一般的な乗用車に4人。異色の組み合わせではあるが、端から見ればそこまでおかしくもないだろう。
「アンタだけには任せられない。……アンタは、こいつらを見殺しにしても良いと思ってる」
「……はッ。生意気な餓鬼だ」
低く小さく呟いた駿とゾラの会話は、後部座席の二人には聞こえていない。
ゾラは小馬鹿にするような笑みを浮かべ、ちらりと駿に目をやった。先刻まで寝ぼけていたはずの少年は、微かに殺気を纏っている。
――ルシファーの一員ではないゾラを、けして信じていない眼だ。あくまでも情報屋は協力者で、商売相手。仲間ではない。
(……ちゃんとわかってるじゃないか。それで良い)
ゾラは常識人だが、仕事のためには冷徹にも残忍にもなる。何があっても遂行する。それがポリシーだ。
今ゾラがルシファーに協力しその首領を追っているのは、彼との契約が――大変不本意ながら――完遂できていないから。それだけだ。
黒沼姉妹はゾラにとって駒の一つにすぎない。ターゲットを誘き出せれば後はどうなろうとも構わない、というのが本音だった。駿はそれに気付いていて、自分が守る側に立つことを選んだのだろう。
(生意気だ。悪くは、ないけど)
ウィルヘルム姉妹は本部で待たせてある。姉のロアルには戦う術がないし、ロザリーは姉にばかり気をやって弱くなるからだ。
ロアルが精度の高い“予見”をするには、目標物にまつわる何かがあった方が良い。ゾラは黒沼家に行ってひとまず、適当に持ち帰れるものを見繕うつもりだった。
――百瀬を連れて行けば、或いはそれ以上の収穫があるかもしれないと、心の中で思いながら。
「――さ、到着だ」
静かなエンジン音を響かせて、黒沼家の門扉前に車が滑り込む。一庶民の家とは到底思えない、格式張った門構え。家というよりは武家屋敷のような印象を受ける、一番大きな建物が本家。近隣の家とは全て血縁関係にあったというのだから驚愕だ。
そして百瀬と千瀬はこの、由緒ある本家の人間である――だった、と言うのが正しい。
「……やっぱ、でかいなァ」
ゾラに促されて車を降りた駿は、聳え立つ家々を見て息を吐いた。ここに来たのは二度目だが、やはり驚きは拭えない。
この家にずっと囚われていたのであれば、千瀬のような世間知らずができるのも当たり前のような気がした。
黒沼の敷地は広大で、しかし、その世界はあまりにも狭い。
「車は目立つから、裏に隠してくるよ。先に中に入ってるかい?」
「え、良いんですか?」
「誰もいないはずの家の門前で待たせて、通行人に見られたら面倒だからね」
ゾラの言葉に駿は同意を示す。前回そうして、まんまと一般人に見られてしまったことを思い出したからだ。あれはあれで成果があったのだが、あくまでも結果論にすぎない。
「……僕に見られたくないものがあったら、先に隠しておくと良い」
一瞬、百瀬が虚を突かれたような顔をした。
ゾラはひらりと手を振り、再び車に乗り込む。裏手の竹林にでも置きに行くのだろう。
「……姉さん?」
「………、行こうか。久しぶりに入るね、家の中」
にこりと笑う百瀬が何を考えたのか、千瀬にはわからない。