第一章《始動》:終わりの日
そう、その日は唐突にやってきた。
黒沼家には、古からの習わしが廃れることなく受け継がれている。
先祖は一体何をしていたのだろうか、一族は昔から武道を嗜み、一家の長男もしくは長女は剣技を習得し、常に剣客であれ、というのが代々の教えであった。故にこの家に生まれた子供たちは、幼いときから両親や祖父母にスパルタじみた訓練を受けて育つ。
また、この家に産まれた子供が男児なら「剣」、女児なら「瀬」の字を名前に与えるのがもう一つの習わしである。真意の程はわからないが、黒沼家の人々はその掟を忠実に守って現代まで暮らしてきた。
『チトセ』と名付けられたこの家の次女は、剣技の才なしと判断された姉に代わり毎日を父との修業にあてていた。彼女の名もまた古くからの風習に則り、祖母・瀬津が考えたものである。
黒沼千瀬は、三日後に十四の誕生日を迎えようとしていた。
*
うちは、普通じゃない。
そう思い始めたのはいつからだっただろう?
一族のなかでは『出来損ない』だった自分が、実の妹に剣技の継承資格を奪われてしまった日だろうか。
否、と彼女は思う。
彼女にとって一家の伝統などは別段どうだって良いことだったし、むしろ自分の身代わりにされてしまった妹を不憫に感じているくらいだ。
問題はそこではない。けれど。
「……セ、モモセってば! ちょっとぉ聞いてる?」
「……え、あ、ごめん恵子。何?」
「もぉ。妹の誕生日近いんでしょ? って聞いたのよ。何か買ってかないの?」
「……そうだね」
いい店知ってるんだ、と満面の笑みを浮かべた友に引きずられるようにして彼女は一軒の雑貨屋へ入っていく。
恵子はこの辺りにひどく詳しい。逆らう理由は見つからなかったのだ。
彼女――百瀬の妹は特異だった。彼女の一族自身が、妹をその環境へ追いやったのだ。
一族の期待を一身に背負った少女は来る日も来る日も真剣を片手に父親と戦っている。まだ十三歳だが学校へもろくに通っていない。
本当ならばその『役』は百瀬が負うべきものだったのだが、彼女は刀に興味を示すことができないばかりか厭うてさえいた。妹が代りに選ばれた原因は百瀬にあると言ってもおかしくはない。
かわいそうな、わたしのいもうと。
地方の高校で寮生活をしていた百瀬は明日、一年ぶりに実家に帰る。妹の誕生日を祝うためだ。
常に重苦しい妙な空気の漂うあの家に帰る理由なんて他に無い。
はやく妹に会って、ただいまと言ってやろう。それから、ごめんねと言おう。
そのとき既に百瀬の胸には、えも知れぬ不穏な気配が渦巻いていたのだ。
――この忌まわしい風習が一族を滅ぼすことになったのだと、この時誰が知り得ただろう。
千瀬にとって、姉の百瀬は特別な人間だった。
親類の期待を一身に背負いながら一日の殆どを道場で過ごしていた彼女には友達もいなかったし、大人達は皆、千瀬に一人前であることを要求する。そんな中で、百瀬だけが自分を年相応に扱ってくれた。
歳の差は三つしかなかったけれど、彼女の大人びた笑顔が好きだった。毎年彼女が欠かさずくれる、誕生日プレゼントが楽しみだった。……けれど、今年はもらえないかもしれない。
少女はそっと息を吐いた。憂いを含んだそれは誰に知られることもなく空気に溶けて消える。
大好きな姉。今の千瀬にとって、一番大切な存在。
――姉さん。
灰色の空を見つめながら、千瀬は重い足取りで道場へ向かう。頭に浮かぶのは父との会話だ。
昨日父が彼女に、廃れてしまった黒沼の伝統を復活させる話を持ちかけたのである。
死合、だ。
もともと黒沼の剣技は、最後に真剣を使用し師と弟子で命懸けの試合を行なっていた。そこで弟子が生き残れば、晴れて免許皆伝である。
時には死者を出すことのあったこの最終試験はずいぶん前に廃止されていた。現代の日本で行おうものなら、即刻警察が出動するだろう。ただでさえ千瀬の修行は一族しか知らない、極秘のものであったのに。
その試験をもう一度執り行うことが、先日の親族での話し合いで決まったらしい。
黒沼の一族の家は、どういうわけなのかこの区域に密集していた。千瀬の従兄の家は三軒先に建っているし、祖父母が暮らすのはすぐ裏手だ。
そのせいなのか、親類を集めて各家庭の近況報告などをしあう『親族会議』が頻繁に催される。
会議を主催するのは、たいてい一族の伝統を重んじる年寄り達なのだが、最近の話題は千瀬の剣技についてがほとんどであった。千瀬は、女児にして稀に見る傑士なのだ、それ故に一族の期待も大きい。
なぜそんなことをするのだと、質問する権利は少女には与えられなかった。黒沼の一族はただひたすらに掟を遂行することを考えている――まるで何かに取り憑かれてしまったかのように。
お前なら生き残れるだろうと笑った父の顔が、ただ少女の胸にのしかかる。
姉さん。
あたし今日、死ぬかもしれない。
道場では既に父が装束を纏って待っていた。
……それで。あたし、この後どうしたんだっけ。
*
全てが崩れたのはいつかと考えれば、もうとっくに崩れていたのかもしれない。
胸騒ぎを感じて急いで家路に着いた百瀬を初めに出迎えたのは、玄関に満ちていだ怖気のするほどに生暖かい空気だった。次いで濃厚な鉄の香りと、僅かな腐臭。
床には綺麗に生けてあったはずの百合の花が、無残に散らばっている。
百瀬は鞄を玄関に投げ捨てると、その花を踏み越えて居間へ向かった。
鉄の香りが強まる。嗅いだことのある臭い。
嗚呼、血だ。
そう思った瞬間、百瀬の目の前に赤が広がった。彼岸花のように弧を描き壁を染め上げる大輪の花。白塗りだったはずの壁一面を濡らしたその赤は、てらてらと光沢を放つ。
百瀬はゆっくりと手を伸ばす。目の前光景が信じがたかったのだ。少し触れればどろりとした雫が垂れて、思わず一歩退いた。
――ごとん。
退がった拍子に何かに躓く。こんなところに、なにかあっただろうか。
頭がぼんやりしてしまってうまく考えられない。踵に触れている物を確認するために、百瀬はゆっくりと体を捻った。
「……嗚呼、」
どうして、叫ばないでいられたのだろう。
ただ少女は、自分の体温が静かに下がってゆくのを感じていた。
焦点の定まらぬまま、見開かれた目。
散らばっているこれは髪か。
僅かに濡れる半開きの口からは乾いた舌が覗いていた。
『そこ』から下に、あるべきはずのものがない。
母の首が、彼女を見ていた。首から下を切り離されて。
「……姉さん」
聞き慣れた、けれど懐かしい声がした。百瀬は声のほうへゆっくりと振り返る。
彼女は現れた妹をただ見ていた。喉の奥に声が張り付いてしまったかのように何も言うことができない。口を開いても漏れるのは呼吸の音だけだ。それがはっきり聞こえるほどに、今この家の中は静まり返っている。
悲しそうな目で、ごめんなさい、と呟く妹。彼女が着ているものは深紅の浴衣――否。【死合】を執り行う際に着用する、死に装束を模した衣裳だ。純白だったはずの、それ。
血糊でべっとりと頬に貼りついた髪や赤く染まった着物を見れば、何が起こったのかは知らざるをえなかった。
けれどそれを既に享受してしまっている自分がいることに気が付いて、百瀬はふいに笑いたい気分になる。
何故だろう。いつかこういう日が来るとわかっていた気がした。
たぶん、ずっと前から。
千瀬が今握っているのは、刃渡り僅か10センチほどの果物ナイフである。そんなもので母の首を刎ねることができたのだろうかと、百瀬はぼんやり考えた。ナイフから滴る雫は、悲しいほどに赤い。
百瀬ははっきりと悟っていた。自分は今この瞬間に失ったのだと。
家族のみならず、おそらく親類全てを。そして、自分達の生きてきた世界を。
「姉さん……ごめんなさい、ごめんなさい……」
自分も死ぬのかなと、少女は静かに思う。妹に殺されるのなら受け入れられるような気がした。不思議だ、どうしてこんなに穏やかでいられるのだろう。
「ごめんなさい、姉さん…あたし、行くね」
「……え?」
「お話は終わった?」
突如、朗々とした声が響く。百瀬は目を見開いた。何時の間にか、千瀬の後ろに二人の人間が立っていたのだ。
いったいどこからやってきたのか。
そんな疑問が浮かぶ前にまず、その二人の容姿に目を奪われる。
一人はすらりと背の高い女だった。少女というには大人びているかもしれないが、女性と形容するにはやや幼い。鮮やかな金の髪が、真っ黒なスーツによく映えている。マリンブルーの瞳はどこを見つめているのかわからない、不思議な色を湛えていた。
もう一人は腰まである真直ぐな黒髪の少女で、今百瀬たちに声を掛けたのはこちらのようだった。小柄で華奢な体つきをしている。
二人ともまだ十代、顔立ちからして日本人ではないのだろう。
彼女達はこの部屋の惨状を気にも止めず、悠然とそこに存在していた。
黒髪の少女が、大きな漆黒の瞳で百瀬を見つめて言う。
「ごめんね。もうこの子、連れて行く時間だから」
少女の声は、柔らかなソプラノ。
何処に、とは聞けない気がして、代わりに百瀬は少女に問う。
「あなたは、だれ?」
自分でも声が擦れているのがわかった。
少女は物音をたてずに千瀬のそばへ歩み寄ると、その腕で後ろから千瀬を抱擁する。ふわりと黒髪が揺れた。
「――私は、ルカ」
ルカは、笑った。
「チトセを迎えにきたわ」
それは全ての終わりの日、そして全てが始まる日。
この日この瞬間、世界から二人の少女が消えた。