第六章《輪廻》:機会仕掛けの神様(2)
「……ロヴ」
人知れず去ろうとしている背中を見つけた。また誰にも言わずに姿を眩ませる気なのだろう――エヴィルはそっと息を吐いて、門を潜った彼を呼び止める。
「あぁ、エヴィルか」
振り返ってロヴは笑う。腹の中をさっぱり読ませない、彼お得意の笑い方だ。それを見たエヴィルは不機嫌さを隠しもせず眉を寄せる。
「――気付いていたくせに、白々しい」
ねめつけても男はにっこりと笑みを濃くするだけだ。誰が何を言おうと聞く耳持たないロヴには言うだけ無駄、ということをエヴィルもわかっていた。
――思えば、もうずいぶんと長い付き合いになる。
「で、お前はまた一人で何か企んでるわけか」
「察しがよくて嬉しいよ、エヴィル」
「馬鹿にしてるのか? ロヴ、お前――ルカにも、行き先を言っていないな」
問えばロヴの纏う穏やかな空気は変わらぬまま、沈黙だけが流れる。それは無言の肯定だった。
「……お前が何をしようと俺は、“俺達”は構いやしない。お前について行くと決めたあの日から――でも、」
「………、」
「チトセは、どうだ。何も知らないあの娘をお前は一体――」
「珍しいな、エヴィル」
お前が“俺達”以外の人間を気にかけるなんて。言いながらロヴは酷く興味深げにエヴィルを見つめる。
「シュンやルードに何か言われたかい?」
「……それも、ある。けれど俺は――今回のことは、前から気にかかってたんだ。ルカにも教えないでお前、何をする気だ?」
エヴィルの猛禽類に似た金眼がすっと細められた。鋭い視線を送られても、ロヴは飄々としたままである。それは彼が、エヴィル・ブルータスの本質を全て理解しているからだった。
「“オミナエシ”を見つけて、何をするんだ――?」
誰よりも冷たく、誰よりも“狩る側”に相応しい性を持つ青年。けれど彼はけしてロヴに敵意を向けることはない。
「……約束を覚えているか、エヴィル」
そして幼い頃から共に育ったルカのことを、誰よりも案じているのがエヴィルである。そんな彼にロヴは気まぐれで、ほんの僅かなヒントを与えてやることにした。
「約束?」
「“最果て”の話だよ」
「――ああ」
エヴィルは一度目を閉じる。刹那の間、瞼の裏に赤い炎がちらついた。それは目の前の男が、エヴィルとルカに手を伸ばした日の情景。
「行こう」と言った彼。何処へ、と訊ねたのはルカ。二人の背を追うと決めた自分。
「お前が話したあの、子供騙しのまやかしを、ルカはまだ信じてるぞ」
「知ってるさ。あるいは信じたいと願っているだけだとも――でもな、エヴィル」
すっとロヴの口角がつり上がり、美しい三日月の形になる。それは、その瞬間だけは、彼の笑顔は紛い物ではなかった。
「俺はまだ、あれを叶えてやろうと思っている」
「は……?」
思わずエヴィルの口から気の抜けた音が漏れる。ロヴは気にせず言葉を続けた。
「見せてやりたいよ、あいつに沢山のものを。それには時間が足りないだろう」
「何言って――」
「お前も実は気付いているんじゃないか、エヴィル。タイムリミットは着実に近付いている」
その瞬間背筋に感じた悪寒は、きっと警告だ。言葉にならない何かを本能的に察知して、エヴィルは微かに顔を歪める。
「ロヴ……?」
「ま、心配はいらないよ。来るべき時にはちゃんと言うし、ルシファーにもお前たちにも何の問題もない」
増兵する必要はあるかもしれないが、とロヴは訳の分からないことをひとりごちた。エヴィルがそれを問い詰める前に、さっと踵を返してしまう。
「じゃあ留守は頼んだよ、エヴィル」
「……早く帰ってこい、この馬鹿ボスが」
投げつけられた悪態に笑ってロヴはひらひらと手を振った。
黒塗りのリムジンに乗り込んで何処かへと消えてゆくその姿を、今度こそエヴィルは見送った。
…………そうして彼を送り出してしまったことを、この後エヴィルは後悔する。
それは人らしい感情をいくつか欠いていた彼が、生まれて初めて心に抱いた「後悔」だった。
***
(まーたコレか……)
波音と浮遊感に包まれながら駿は溜め息を吐く。海を切り裂いて進むクルーザーはルシファーの物だが、勝手に恭吾が持ち出したのだ。乗り込んで目指すのはあの、忘れることなどできない島。
エリニュエス=グロリア―――“孤島の学園”である。
朝霞恒彦という男と、彼が持ち去ったデータを求めて赴いたあの任務。犠牲になった命、データを狙った敵、そして想定外の人物の介入はまだ記憶に新しい。
(……まだ、あそこにいるんだろうか)
駿はぼんやり考える。あそこにいるのは自らの肉親だけではない。あれから月日が流れたとはいえ、学園で出会った多くの生徒たちはまだ在籍中のはずだった。
――例えば、播磨亮平。駿のことを「友」だと言い切った彼に、ろくな別れも告げられなかったことを、実は後ろめたく思っている駿である。あの時は最後まで必死でそれどころではなかったのだが。
(嗚呼、)
亮平のことと同時にもう一人思い出して、駿はそっと息を吐いた。亮平と同じくらい、あるいはそれ以上に、関わりを持った人物がいたな、と。
彼だけはもう学園にいない。否、この世にさえも。
――ウォルディ・レノ・ファンダルスは、あの場所で命を落とした者の中の一人だ。彼が誰に殺されたのか、結局駿にはわからないまま。理解できたのは彼もまた“普通の”生徒ではなかったことと、朧気な彼の素性のみである。
(カーマロカ、か)
異能の集う平和維持組織。現れたユリシーズと、彼が連れ帰った娘・アイジャ――そして彼女の実兄であったウォルディ。彼らの関係を統合してようやく、駿はウォルディもまたカーマロカに縁ある人物だったのだろうと思い至った。
……よもや彼がカーマロカを率いる一族の直系であったことなどは知る由もない。
ウォルディを殺したのはルシファーの敵でもあった“オリビア”だったのか、はたまた違う何かだったのか。駿に知る術はないが、彼の身を大きな災いが襲っていたことは確かだった。そしてウォルディはその身を呈し、争いの渦中にありながらたった一人の妹を守ったのだ。
(最後まで何かムカつくやつだった、)
心中で呟く。けれど何処かで己の立場と重ね、ウォルディを羨んだ自分がいたことを駿はわかっていた。
「なーにぼーっとしてるわけ、シュンくーん?」
「……っ」
はたと顔を上げた駿は自分の今いる場所を思い出した。すっかり思考の渦に飲み込まれていたらしい。
「何、現実逃避? あの島に行くのは嫌かい?」
「ンなことは――いや、そうかもな」
珍しく素直な駿の様子に恭吾は片眉を上げる。
「……まぁ気持ちはわからなくもないけど。そこにいるお嬢さん二人のほうが、心情的には複雑でしょー」
恭吾は笑いながら後ろを指さした。そこには甲板に直に腰を下ろしている千瀬と、彼女を心配して付いて来たロザリーがいるのだった。しかし、同じく同行しているはずのルードは寝室に引っ込んで早々に寝息を立てている。
「で、さっきの話の続きだけど」
人差し指を立てて恭吾は言う。それで漸く、駿は今まで何をしていたのかを思い出した。情報の共有、だ。
「――その千代田って女は、黒沼百瀬は焼死だったって言ったんだね?」
駿は恭吾に、千瀬の実家を見に行ったあの日の話を聞かせていたのである。
通りすがりの娘に聞いた、あの家に降りかかった事件の全貌。凄惨な殺人事件の記録。
役所に残された長所や彼女の話には、事実とは異なっている部分がある。それは犯人に関する記述と黒沼百瀬の生死だ。
犯人に関しては、日本の警察は千瀬を疑いすらしていない。行方不明になった末の娘はおそらく殺されてしまったのだろう、と考えられているのである。
――しかし姉に関しては、その死に疑問の声も上がっていた。
「ああ。当時百瀬が通ってた学校の寮が燃えて……」
焼死はルシファーが人間の存在を秘匿したいときに使用する常套手段だ。焼けた死体からは個人の断定がしにくい。ダミーの死体があれば、社会的にこの世からその存在を消し去ることもできる。
「寮を燃やしたのは間違いなくルシファーだろうね。黒沼百瀬の社会的抹消。学園で保護するためにそうしたんだ」
「だろうな。俺の妹の時もローザの姉の時も、同じようにしたって聞いてる」
「問題はね、シュン君」
恭吾がにやんと笑う。
「なぜルシファーは偽の黒沼百瀬の焼死体を、実家でなく寮に用意したか、だ」
「――あ?」
「チトセが一家惨殺の事件を引き起こしたその日、百瀬は一時自宅に帰ってきてたんだろう。不自然じゃないか」
「それは……」
「表世界の連中に疑念を残すようなアホな真似、普通ウチがすると思う?」はっと駿は顔を上げる。千瀬を見れば、恐る恐る頷いた。
「確かにあの日、姉さんは……うちに帰ってきた。……うん、覚えてる。姉さんの目の前でルカは、あたしをルシファーに連れて行くって言ったもの」
「つまりさ、」
恭吾の瞳がすっと細められる。
何か確信を孕んだその色に、駿は背筋が冷えるような気がした。
「ルシファーは……ロヴは、あの家でダミーの焼死体を作りたくなかったんだ」
「それは、……」
「あの家を燃やしたくなかったのさ。綺麗なまま保管して、調べたいことがあったんだろう」
やっぱり君の実家には何かあるよ、チトセ。
言いながら恭吾はにこりと笑う。
「ま、聞いてみればわかるんじゃないかな? ――君のお姉さんに、さ」