第六章《輪廻》:原点へ(2)
千瀬には、未だ駿たちに話せていないことがある。
一つは“学園”でユリシーズから告げられた、「東洋の魔女」の話だ。気を付けろと忠告した彼。なぜユリシーズがあんな話をしたのかはわからないが、千瀬にはどういうわけか無視することができなかった。
二つ目は、入隊直後からよく見る夢の話である。最後にそれを見たのは“学園”での仕事で負傷し、病院へ搬送された時だ。
その夢は、なぜか鮮明な色が付いている。見る場面は毎回異なるけれど、共通しているものも一つだけある。それは――声、だった。
『約束を守って』
千瀬の脳裏に響くそれは女のもの。悲しく、美しい誰かの声。
『忘れまいぞ、黒沼……!』
夢の終わりは必ず、怨嗟の念を孕んだ叫びが締めくくる。
それが自分に向けられたものなのか、そうでないのかは千瀬にはわからない。けれど自分は無関係ではないと、それだけはわかっている。
悲痛な叫び声は夢というには鮮やか過ぎて、まるで誰かの記憶を覗き見ているようだった。忘却されてゆく思い出の中で、それだけをはっきり覚えていた。
自分の記憶。忘れていた剣の技。父、母、自分と姉を残して消してしまった一族。
夢の中の女と「東洋の魔女」――ユリシーズの言っていたそれは、どこかで繋がっているのではないか。
あの占い師に告げられた言葉が、それを千瀬に確信させていたのだった。
「うわぁ、綺麗な所だねー」
両腕を空に向けて伸ばしながらロザリーが言う。
降り立った長閑な町は、懐かしい匂いを孕んでいた。上水流町――過去に千瀬がその人生の全てを過ごしていた場所だ。高校に通った姉とは違い、町から出たことは一度もない。かわりに千瀬は上水流のことならほとんどを知っていた。
「人がいないな」
時間帯も関係しているのだろうが、基本は住宅街のため人通りが極端に少ない。
遠くでチャイムの鳴る音がして、小学校の下校の合図だと千瀬が呟く。もうじき、子供たちが通りがかるのかもしれなかった。
「あたしの通ってた所が近くにあるの。……まぁ、ほとんど行ってなかったんだけど」
「へえー! 俺、学校って入ったことないや」
一応チトセも勉強とかしたんだなぁ。感心したように頷くルードに、いちおうって何、と千瀬は笑った。
(本当に、久しぶり)
この町を出てから三年以上経ったと、出発前に月葉に聞いている。時間感覚をすっかり失っていた千瀬は、もうそんなになるのかと驚いた。はじめよりずいぶんと背が伸びたルードや大人びたローザ見ると、確かにそうなのかもしれないと思う。特に駿などはもう、少年というよりは青年と呼ぶに相応しくなった。
ルシファーでの任務は短期で終了するものから、一度始まれば数か月を要する長期的なものまで様々だ。純粋な戦闘目的の仕事で戦争のように数日過ごすこともあれば、仕事が何も入らず一月以上が経過することもある。
そんなことをもう何度も千瀬は経験してきた。それだけの時間がいつの間にか、確かに流れていたのだろう。
自分の外見の変化はよく分からないけれど、とぼんやり千瀬は考える。
「……とりあえず、どこ行くんだ?」
お前に案内してもらわなきゃ困るんだぜ。ぼーっと突っ立っている千瀬の頭を困ったように駿が小突く。はっと我に返って、少女は一先ずの目的地を口にした。
「……家に、行ってみようと思うんだけど」
千瀬はちゃんと道順を覚えていた。今は誰も住んでいないはずのその場所へ向かう道すがら、この町は不思議だとロザリーが言う。風が吹いていない為、澄み切った空気は全く揺れることがなかった。そのせいだろうか、まるで時間が止まっているかのような錯覚に陥るのだ。
「黒沼は昔からこの町に住んでたみたいで、」
記憶にある限りの情報を、それが失われていないか確認しながら千瀬は口にする。ロザリーは相槌を打ちながら、駿とルードは黙ってそれを聞いていた。
「親戚もみんな、近くに住んでて」
「へぇ、うちもそんな感じだったよ。一族みんな同じ村で暮らしてた」
「そうなんだ」
談笑する少女達を見つめる駿の視線は厳しい。ルードもまた、この町に来てからずっと何かを警戒する素振りを見せていた。
なんか、嫌な場所だ。彼がそう呟いたのを聞いたのは駿だけである。
「女の子が生まれると、“瀬”っていう字を必ず名前につけるんだ。男の子なら“剣”」
「ふぅん、どうして?」
「……覚えてないや」
或いは、最初から知らなかったのかもしれない。
持っている記憶の数を数えながら千瀬は思う。考えてみれば昔から、黒沼という一族はどこかがおかしかった。問答無用で嫡子に剣を習わせるしきたり。その集大成が千瀬だ。
そして黒沼は、自らが生み出した刃によってその歴史を閉じた。
「―――着いた」
ここ、です。
静かに示された場所を見て、ロザリーがうわぁと声を上げる。残る少年達もまた、無言で目を見開いた。
千瀬の家だったというそれは、典型的な日本家屋――平屋である。敷地面積がその他の家の比ではなく、桁外れに大きい。
こんな家初めて見た、と感心したのは外国人二人だ。ルードとロザリーは珍しい形の家そのものに驚いたようだが、駿の着眼は別の点にある。
「……お前って、お嬢様かなんか?」
これは広すぎるだろ。僅かに言葉を失ってから駿はぼやいた。
そうなの? と千瀬本人は全く理解していないようだったが。
「まぁここは他よりちょっと大きいのかな、本家だから。ほら、周りの家もほとんどうちの親戚だったと思うけど……普通でしょ?」
「普通じゃねーよ」
この辺全部かよ? げんなりしながら駿は辺りを見回す。全体的に暗色の木で建築された家は、どれもしんと静まり返っていた。雨風に晒されて色あせた、立ち入り禁止の張り紙だけが白く浮かんで見える。
「あの日からずっとこのままなんだね、きっと………、あーダメだ」
「どうした?」
突然自分で自分の頭をぽかりと殴りつけた千瀬に、駿がぎょっとして問いかける。
困ったように笑いながら少女は自らの暮らしていた家を指さした。
「ここまでしか、覚えてないみたい」
「え?」
「家の間取りとか――わかんなくなっちゃった」
「……そうか」
言いながら駿は眉をひそめる。きっと千瀬自身も気付いているのだろう――彼女が忘れているのは全て、“黒沼”という一族の存在に関連したものだった。
例えば千瀬は、小学校のことは覚えている。当時のクラスメイトについても、朧気ながら記憶はある。
町そのものは覚えていたし、その道順も頭に入っていた。しかし家の事が絡むとどういうわけか、ぼろぼろとその端から崩れていってしまう。
親の顔、生活していた場所、身につけていた剣の奥義。人の名や風習など、辛うじて覚えているものもあったが――それがいつまで保つかは、誰にもわからなかった。
「中入ってみる?」
何かわかるかもよ。ルードの提案に駿は頷いた。危ないことはしない主義の彼も、今回だけは別だった。家の中がどうなっているかわからない以上、心してかからなければならないだろうが。
よし、と駿が気合いを入れたその瞬間だった。
「あの、そこ、入るんですかー!?」
突然かけられた声に四人は飛び上がる。家にばかり気を取られていて、誰一人その存在に気付かなかった。何でわかんなかったんだろ、と人一倍敏いはずのルードが悔しそうに呟く。
「こんな時間に肝試しですか? 少し前はそういう人もいたみたいだけど……その家、築七十年以上の木造だから脆くなってるらしいんです。危ないですよ?」
ただの通行人だったらしい彼女は、駿らと同じくらいの年頃に見えた。親切にも忠告してくれたらしい。
「あ、そうなんスか……地元の人?」
「今は隣町に住んでるけど……まあ、そんな感じです」
人の良さそうな彼女は、そう言って笑った。