第六章《輪廻》:いつかの影法師(2)
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名は、と、問われたのだ。
『………クロヌマ。そう、君が……』
『――え?』
『――いや。君は、黒沼、というんだね。チトセ、千瀬か』
くろぬまちとせ。
少年の繰り返しつぶやいた音は、まるで知らない国の言葉のようだった。
『チトセ。迷惑をかけたお詫びとお礼に、教えてあげよう――魔女に、気をつけて』
『――――――、?』
『東洋の魔女だよ。あれは、君を探してる』
『どういう、意味ですか……?』
『そのときが来たらわかるだろう。君も、僕も、歯車の一つなんだから』
『待って、』
『良いね、 に気を付けて』
待って。聞こえない。
待って。
…………………………、
「待って」
「…………なに」
真横から声が聞こえて千瀬はびくりと肩を跳ねさせた。それを見てハルが忍び笑いを漏らす。
「寝ぼけてんの?」
「………え、」
がたん、ごとん、カタタン、規則的な振動と堅い音。あたりを見渡してようやく、千瀬は自分が今電車に乗っていることに気が付いた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。心地よい揺れを座席から感じ、冷静さを取り戻した頭で考える。
平日の昼だ。都心といえど、方向によっては楽に座れる程度に空いている。現に同じ車両にいるのは連れと一般客数人であったが、その目が皆自分を盗み見ていることに気が付いて千瀬はぱっと俯いた。恥ずかしい。
「珍しいものばかりで疲れちゃったんだよ」
「ガキそのものだな……」
絹華の労るような言葉に被せて駿がからかうが、反論する気にはならなかった。まさにその通り、だったので。
ルシファーはその総本部を日本の首都に置いた。大都市東京の街並みは突如現れた者達をその雑踏に隠し、何事もなかったかのように機能する。
ロヴの用意したのはある地下空間で、表面上は何の変哲もないビル街である。立ち並ぶどのビルにも属さないその地下シェルターをどうやって彼が手に入れたのかは知らないが、千瀬たちはそこで生活することになった。太陽光の差し込まない場所での暮らしには慣れている。
さすがに日本へやってきた全員が同じ建物で生活するわけにも行かず、月葉や他の構成員は東京を中心した四方に隠れ家を用意しそこに駐在中だ。
「まぁ東京はな……」
「私もびっくりしたもの、人の多さに」
つまり千瀬たちは地上に出るやいなや、大都会の真っ只中……という状況に置かれていたことになる。そのどこから沸いたのかまったくわからない大量の人間と空を狭めるビルに、千瀬はいきなり目を回しそうになったのだった。
「私は東北の生まれだから。こんなに人はいなかった……ハルは?」
「俺は一応東京育ち。生まれは違うけど」
補導の思い出を語るハルにつられて絹華が笑う。呑気な二人を駿がひきつった顔で見ていたが、千瀬は気付かなかったことにした。
……今日のシュンは目深にニット帽を被り、度の入っていない四角い黒縁の眼鏡をかけている。それだけでかなり印象が変わって見えた。
「シュンもルシファーに来る寸前は東京暮らしだったんだろ?」
隠れるにはもってこいだもんな、言ってカラカラ笑うハルを駿が睨みつける。
「あァそうだとも。だから頼むから目立つことはしないでくんねーかな……!」
顔写真付きの手配所が発行されている身では、息苦しくて仕方ないのだろう。とくにチトセ! 小声で叫んだ駿に千瀬は苦笑した。
……何せ千瀬は、ルシファーに来る前はあの町から出たことがなかったのだ。ビル街はおろか、電車すら見たこともなかったのである。それを目にしたときの反応たるや、田舎者も驚愕の驚き方であった。
「あれは上京したての田舎モンってレベルじゃねーな。現代に飛んで来ちまった原始人みたいな……」
「そ、そんなに?」
「私は他の星から来た人みたいって思った」
ハルと絹華に口々に言われ、千瀬は思わず顔を背ける。確かに周りから向けられた好奇の目と良い、自分はかなり変だったのだろう。駿がはらはらするのも仕方ない。
「ところでチトセはどこ出身?」
「え、あたし?」
「――おい、降りるぞ」
千瀬のいらえは目的地到着を知らせる、どこか癖のあるアナウンスに遮られた。
「……静かだね」
降車駅は時間帯のせいか閑散としている。人混みに疲れてしまった千瀬達にはちょうど良く、一息吐くような心地になった。
コンビニとかねーかな、とハルが言う。日本の煙草を購入したいらしい。
「自販機でも良いんだけど。taspo持ってるし」
「……なんでお前が持ってんだよ」
「ロヴに頼んだら偽造してくれた。バッチリ使えるぜ」
「……たすぽ?」
駿とハルの会話に千瀬は首を傾げる。日本はわからないことばかりだ。
切符とSuica(こちらもロヴから与えられたものだ)の使い分けすらできなかった千瀬である。お前はわかんなくて良いんだよ、と駿が笑った。
「……お嬢さん、」
それは駿とハルがコンビニに入った後のこと。二人の帰りを外で絹華と待っていると、どこかからか嗄れた呼びかけが聞こえた。
声の主を捜すと路地の奥まった一角に、簡素な店を構えた老婆が見える。
「……占い、ですか?」
いかにも怪しいその様子に先手を打って問いかけたのは絹華のほうだ。薄い布で顔を覆った老婆は僅かに笑い――と言ってもその表情はわからないので、笑ったような気配がしただけだが――二人に向かって手招きをした。
「なに、とって喰いやせん。金もいらぬ。話を一寸」
砕けたその語り口に、千瀬と絹華は顔を見合わせた。僅かに肩をすくめてからどちらからともなく老婆に歩み寄る。
占いなど毛頭信じる柄ではない。連れが戻ってくるまでの、ほんの暇つぶしのつもりだった。
「物騒なものをお持ちだね」
近寄るやいなや、老婆は二人を指さしてくつくつと笑う。小首を傾げた千瀬は、その指が自分の鞄――さらにその中にあるナイフを示しているのだと気付いてぞっとした。刹那身構えた絹華を、しかし老婆はのんびりと窘める。
「案ずることはないさ。長年ここに座っているとね、様々なものを見る。しかしお嬢さん――特にそっち……あんたァのような面白いモノは、いつぶりだろうかね……」
老婆が千瀬を見て目を細める。
妙なことになった、と千瀬は思った。つくづく自分は、安寧というものに縁が薄いらしい。行く先々でなにか、まずいモノに出くわす。
「探し物は早いうちが良い。気にしていることがあるだろう?」
「……、」
「お前様の知らぬところですでに事は動いている」
今、この国に千瀬が帰ってきたこと。それは定められた運命だと老婆は言った。
千瀬は絶句する。自分の考えを見透かされているような、そんな気がした。老婆を取り巻く空気を知っているような、妙な気分にすらなってくる。
「あなたは……誰ですか」
ふっと老婆が煙を吐き出した。いつのまにか片手に煙管をくゆらせている。
「お前様の影法師を、追い続けている。覚えはなくとも、お前様の躯は知っている。夢は暗示。忘れてはならん」
「どういう意味ですか、」
「おーい、チトセぇ!?」
不意に聞こえた声にはっと千瀬は顔を上げた。聞こえた絹華と二人振り返れば、駿とハルが自分たちを探し近づいてくるのが見える。
「おーいたいた。じっとしてろっつったろー」
「だってこの人が……」
「この人って?」
誰の話?
心底不思議そうなハルの声が路地の壁に反響した。
老婆の姿は、跡形もなく消えていた。