第五章《迷霧》:盲目のララバイ(4)
「 ―――ユリ、シーズ 」
その名を呟いた千瀬の声は途切れ途切れになる。彼を見たのはあの日以来だった。全ての歯車が狂い始めた日。偶然の重なりが悲劇を呼び、結果ルシファーは大勢の犠牲者を出した――――千瀬の大切な仲間が、尊い命を失った。
「あのひと、」
小さく呟いた一咲の声で刹那、駿は全てを悟る。突然現れたその少年こそが、自分の妹をこの場へ引きずりだしたのだ。全てを一咲に伝えて利用し、自分は裏で。
「ユリシーズ、だって……?」
「お兄ちゃん、?」
妹を背後に庇うようにしながら、駿はふらりと立ち上がる。千瀬の呟いたその名には嫌というほど聞き覚えがあった。
実際に目にするのはこれが初めてだ。ロヴはあれを必然だと言い、レックスは少し時期が早まっただけだと言う。けれどそんなもの、駿は納得などしていない。あれ以来誰も言及はしなかったが、駿は心の奥底で発散できない思いを燻らせていたのだ。
(こいつさえ、余計なことをしなければ)
サンドラは死ななかった。
ルカがサンドラを殺す必要はなかった、のに。
「……ッてめえェ!!」
思考が脳裏に過った瞬間、頭の奥でかっと何かが発火した。激情に任せて腕を振るえば駿の掌に、隠し持ったスローイングナイフの最後の一本が躍り出る。
投げることはしないでそのまま直にナイフを握り締めた。
「シュン!?」
「お兄ちゃんッ」
千瀬と一咲の呼び声が重なるのを無視して少年は真直ぐユリシーズに刄を振り下ろす。
――――しかしそれはユリシーズの首筋を掻き切る前に、強制的に阻まれた。
「やめなさい、シュン」
「……どういうつもりだ、ルカ」
ぐぐ、と腕に力を込めるが全く動かない。駿の右手はナイフごと何かに絡め取られて拘束されていた。
――ルカの能力だ。時に水の包容力を持ち時に氷の鋭利さを持つ未知の物質は今、粘性と弾力を持つ触手のように形質を変え駿の腕を締め上げている。
「これは命令よ、シュン」
「――くそ、」
こうなってはどうすることもできない。小さく毒吐いて駿は肩の力を抜いた。すると絡み付いていたものもするりと外れて地に落ちる。ずるずると床を張ってルカの影の中に戻ったそれは、気付いたときにはまた跡形もなく消え失せていた。
「―――久しぶりね、ユリシーズ・ルイン」
「逢えて嬉しいよルキフージュ…………僕、セカンドネームを名乗ったことあったかな?」
首を傾げる少年にくすくすとルカは笑ってみせる。その様子をしばし見つめていたユリシーズは、ああ、と息を吐いて頷いた。
「……なるほど。サブナックから色々読み取ったわけか」
「実際にやったのは私じゃないけれど」
ちらりとミクを見ながらルカは言う。ミクはその視線に気付かなかったようで、腕を組んだまま苦い表情でユリシーズを睨み付けていた。次から次へと嫌になる――その顔にはありありとそう書いてある。
「……もう貴方の前には現れないって、言ったのにね」
ふっと表情を和らげて困ったように笑うルカに、ユリシーズもまた笑い返す。
「その節はどうも。伝言はちゃんとサブナックから受け取ったよ――けれどお陰であの後しばらく、アイツ使い物にならなかったからね。何言ってもすぐ忘れるしボーッとしてるし、ボケちゃったのかって本気で心配したよ」
「あら……それはご愁傷さま」
二人が何の話をしているのかさっぱりわからない駿は眉を寄せた。割って入っても無駄なことは経験済みだ。
一咲の腕を引いて端の方、千瀬やミクのいる場所に連れて行く。大丈夫かと尋ねてくるロザリーには小さく頷いて、駿は再びルカのほうに目を向けた。ユリシーズの背後にはまだアイジャが座り込んだままだ。
「……ねぇルキフージュ。僕を殺したいと思う?」
「いいえ」
小さな問い掛けにいらえを返したルカの声はあまりにも穏やかで、駿は思わず目を見開いた。
何故、と駿は呟く。自分を制止したのもルカがその手で、ユリシーズを仕留めるためだと思っていたのに。
驚いたのはユリシーズも同じだったようで、僅かに見開かれた瞳が困惑の色を湛えていた。
「……アタマ、おかしいんじゃないの。 君たちに僕が何したかわかってる?」
「貴方は何もしていないのよ、ユリシーズ。私たちの組織は何一つ変わらず動き続けている」
「―――ッ」
息を呑んだのは駿だけではなかった。千瀬もロザリーもはっとして口元を押さえている。
サンドラの件はもう終わったことだ。振り返るなと言われ続けた意味を少女たちは漸く知った。――――激情のままに流されては、任務など完遂できようはずもない。
「貴方こそ私を殺したいんでしょう、ユリシーズ」
ふいにルカの声のトーンが下がる。
皆が固唾を飲んで見守る中ユリシーズだけがぴくりと肩を震わせた、その瞬間を千瀬は見た。
「――あなた、フレデリックの子ね?」
「……そうとも。フレデリック・ルインは僕の父親だ」
囁くように言葉を紡いだユリシーズの、語尾に微かな怨嗟が滲んだ。
やっぱりそうなのね? 問い掛けたルカに少年はこれまでと一変した、卑屈な笑みを浮かべて答える。
「でもね、君の考えてることはたぶんハズレだよ――父は僕に名前すら与えてはくれなかった」
「お、いちょっと待てよ、意味わかんねー!」
声を上げたのは駿だった。どういうことだと問い詰めようとするのをミクが制する。
「おいルカ、」
「……貴方は、私を恨んでいるのでしょう? 私に執着するのは、」
「………、」
「父の仇を討ちたかったからじゃないの?」
「――――違うよ」
黙り込んでいた少年が低く呟いた。ゆるゆると首を横に振る仕草を見て、ルカはことりと首を傾げる。
「……違うよ。父親のことで君を恨んだことなんて、一度だってない」
「おかしな人。貴方は私を恨む権利があるのに―――それどころか、私に殺されたがっているみたいだわ」
ルカの言葉に誰もが目を見開いた。殺され、たがっている?
そんな馬鹿な。駿が思ったところで、ありえない肯定の声が降った。
「……驚いたな。バレちゃってたんだ?」
「……ッ、ユリシーズ!?」
すぐ傍らから甲高い声が飛ぶ。力を使い果たしてぐったりと目を閉じていたはずの、アイジャの顔が恐怖に染まっていた。
「なに、ゆってるの、ユーってば。ねぇ、ユリシーズ、ねぇってば……ッ」
嫌……!! 叫んでアイジャがユリシーズの身体にしがみ付く。小さな背中でその姿をルカから隠そうと必死になった。嫌だ、嫌だと繰り返すアイジャをユリシーズは困ったように見つめている。
「……僕は、ただ」
「やだ、嫌だ、いなくならないで………っ!」
泣き叫ぶアイジャの顔を上げさせることになったのは、ルカの静かな声だった。言ったはずだ、と。言い切る少女の表情は凪いで何も読み取らせない。
「あの青年に頼んだ言伝を聞いたでしょう? 私は、仕事でしか殺さないのよ」
「…………、」
「貴方の私情に付き合う気はない。貴方のシナリオ通りにはならない。殺してなんて、あげない」
「……どうして、」
最初から貴方は変だった。小さく零してルカは少し遠くを見るような仕草をする。
「貴方の目的はルシファーじゃなくて私一人。何を考えているのかは知らないけれど、私は自殺幇助も墓標代わりになるのもごめんだわ」
「……君はいじわるだね」
「そうかしら。――――貴方この子を迎えに来たんでしょう、ユリシーズ」
言外にここから早く立ち去れと言われているのに気が付いて、少年は目を瞬かせる。小さく震え続けるアイジャのつむじをそっと撫で付けて、ユリシーズは細く息を吐いた。
「そこまでわかっていて殺してくれないなんて、君はやっぱりいじわるだよ……」
まぁいいや、言ってゆっくりと少年は笑った。邪気のすっかり抜け落ちた笑みだ。
「本当に、君の手にかかって死にたかったんだよルキフージュ。……でもちょっとね、もう少し生きようかなって気分になった」
大切なものが出来たよ。
ユリシーズがそう呟いた瞬間、轟音を立てて火柱があがった。炎はユリシーズとアイジャを包み込みみるみるうちに膨れ上がってゆく。
このまま二人が消えることを悟って駿が叫んだが、ルカは微動だにしなかった。
『君に気付いてもらえたら、それでよかったんだ』
灼熱に包まれた深紅の世界で、直接頭に声が響く。いつかの日に千瀬が感じたものと同じ、テレパシーのようなもの――――その発信源が今は炎の向こうに消えた少年であることは、考えずともわかった。
『サンドラ・ジョーンズを殺すつもりはなかった……そう言ったら』
『君は信じないだろうね、ルカ』
膨れ上がった炎が一際まばゆく発光すると、刹那小さく収束してゆく。それに合わせてユリシーズの声も、気配とともに消え去った。
「サンドラを殺したのは私よ」
ルカの声だけが響いて石膏の壁に吸い込まれる。
「貴方じゃなくてね。ユリシーズ・ルイン」
駿が目を開けた時にはもう、アイジャの姿もユリシーズの姿もどこにも見えなかった。あの膨大な炎でさえ跡形もない。
「………アイツら逃がして良かったのかよ、ルカ」
ルカは駿の質問に答えなかった。かわりに淡く微笑んで、約束は守ったと独りごちる。
「約束?」
「グラモアとの、ね」
「………ハァ? 何だそれ」
「ルカ」
少年の疑問はミクの声によって掻き消されてしまう。僅かに煤を被った金髪を指先ではらうミクは、微かに眉をひそめていた。
「あの子供……ユリシーズの目的はやっぱり、“父親を殺した”あなたへの復讐?」
「そう思ってたけれど――」
ルカは心底不思議そうに首を傾げて呟いた。
「違ったみたい」
「………え?」
ねぇチトセがいないよー! ロザリーの呑気な声だけが響いて、少しだけ涼しくなった風を呼ぶ。
更新頻度が下がっていてすみません…(>_<)学園編もようやく終わりに近づきました。ユリシーズの父親については次話で。