第五章《迷霧》:盲目のララバイ(3)
聞こえるはずのない声。いるはずのない人物。何故、どうして、そんなことを考えている暇など与えられないままただ駿は叫んだ。
「―――――カズサッ!」
視界が白く濁る。飛び込んできた柔らかい身体を抱き抱える。轟音と誰かの絶叫と冷たい感触、全てに包まれて何が何だかわからなくなった。
手放しかけた意識をギリギリのところでつなぎ止めて駿はぐっと両腕に力をこめる。掻き抱いたかいなの内側で、トクトクと温かな鼓動を感じた。
……生きている。
「おにいちゃん、」
どれほどの時が経ったのだろうか。訪れた静寂に小さな声が降り注いだ。ゆっくりと目を開けた駿の視界いっぱいに、記憶より少し大人びた少女の顔が映る。
「一咲、」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……!」
何度も己を呼んでしがみ付く妹を身体からそっと離し、かわりに駿はその頭を撫でてやる。見渡せば辺り一面黒く焼け焦げていたが、駿と少女のまわりだけが綺麗に白く焼け残っていた。目を凝らして少し離れ対置に立つ、仲間たちの無事も確認する。
(……あれ、か)
あの冷たい、水のような感触。頬に触れたそれを思い出して駿はそっと息を吐きだした。
また、守られた。
「お兄ちゃん」
「うん」
「お兄ちゃん、ごめんなさい……ッ」
一咲の喉が引きつったような音を立てる。泣きじゃくりながら少女は、知っていた、と繰り返した。
「あたし、知ってたの。お兄ちゃんがここに来てることも、あの人たちと一緒にいることも、アイジャのことも、」
「アイジャ……?」
はっとして背後を振り返った駿の瞳に、茫然と立ち尽くすアイジャが映り込んだ。髪や服の端が焼け焦げてはいるがおおよそ無傷のその状態に、思わず駿は安堵の息を吐く。
おそらくは兄妹を守るために割って入ったルカの能力が、あの炎を相殺したのだろう。
かずさ、と。ぼんやり呟いたアイジャの言葉に駿はまた一つの真実に行き当たる。
「……知り合いか、」
「芽衣子は私の友達だった。アイジャがここに来て、あの子と同室になって、それからずっと私、私……」
小さく震えて一咲は俯く。昔から人一倍聡い子供だった、思い出して駿は静かに言葉の続きを待った。
「……私、本当はここに来ちゃ行けなかったの。何もしない約束で、全部見てた」
「約束――?」
「わ、私、手伝ったの。アイジャのお兄さんの、死んでしまった彼の、身体を運びだした……!」
「なん、だって?」
予期せぬ言葉にその場にいた誰もが驚愕を顕にする。
一咲は人知れず何者かと“約束”を交わし、ウォルディ・レノ・ファンダルスの遺体を動かす手助けをする代わりに真実を知らされていた。――今、この学園で起こっていることの全てを。
「何もしない約束で、ずっと見てた。お兄ちゃんが無事なら私はそれでよかった、でも、」
ついに耐えきれなくなった一咲の飛び出した場面は、兄を狙う炎の真っ正面だ。なんて無謀なことを、思って駿は恐ろしくなる。一歩間違えばこの唯一の肉親を永遠に失うところだったのだ。護りたいからこそ、一咲をこの島においたのに。
(一体、どこのどいつだ?)
その妹を前線に引きずりだした何処かの誰かを、一発殴ってやらなければ気が済まない。誓った駿の耳にまた、泣きそうな一咲の声が飛び込んでくる。
「アイジャ、アイジャ……お願い、もうやめよう? これ以上は苦しいだけだよ」
名を呼ばれたアイジャの、虚ろな瞳が一咲を見る。白い手を伸ばしてそっと煤のついた頬に触れた、一咲の仕草は母親のそれに似ていた。
「ごめんね、アイジャ。私、知らないふりをしていたの。でもホントはね、全部聞いちゃった」
「ぜんぶ」
「あなたのお家のことや、お仕事のこと。不思議な力のこと、お兄さんのこと……」
「おにい、さん」
言葉を知らぬ幼子のように鸚鵡返しに呟いて、アイジャはことりと首を傾げる。力の限り熱を放出したその身体では、思考能力が低下しているようだった。
「……そのひとは」
やがてアイジャはゆっくりと瞬きをする。のろのろと腕が持ち上がり、手の平が何かを指差す形になった。小さく呟いた後その指を真直ぐ駿に向け、アイジャは問い掛ける。
「そのひとは、かずさの、たいせつなひと?」
「――うん」
私の、お兄ちゃんだよ。
一咲が呟いた瞬間、アイジャ顔がくしゃりと歪んだ。涙を零す一歩手前のその状態でアイジャは突然絶叫する。
「ちがう、ちがう違う違う違う! アイジャにはお兄さまなんていないの、最初からいないの! 誰かが死んでもそれはアイジャのお兄さまじゃない、知らない、知らない………ッ!」
「―――でも、ウォルディはお前の兄貴だろう」
駿の喉から自分でも驚くほど、静かに澄んだ声が出た。
「お前たちに何があったかなんて知らない。けど違うって、お前は本当に思ってるのか?」
「……お兄ちゃん、」
静かに己を呼ばう妹に、大丈夫だと頷いてみせる。今なら伝わる、その確信があった。
「少なくともあいつは――――ウォルディは、お前のことを妹だと言っていた」
「…………っ!」
兄妹の繋がり、温もり、その愛しさを駿は知っている。絆が引き裂かれることの苦しさを誰よりもわかっている。――――伝えたいと、思った。
「お前に、生きろって。大切だったって、そう言ってた」
アイジャの瞳が大きく揺らいだのはその次の瞬間のことである。みるみる膨れ上がって決壊した、透明な涙が滑らかな頬を伝って落ちた。
うそつき、うそつき。呟いてアイジャは手の平で顔を覆う。
「うそつき、ウォルディの嘘つき。妹じゃないって、ゆったくせに」
床にぺたりと座り込んだまま、アイジャは涙を拭うこともしなかった。取り戻せない存在に痛んだ心を隠す必要は、もうない。
「ばか、だわ。ウォルディのばか、」
「ああ、そうだな」
小さく笑った駿の声はしかし、次の瞬間第三者のものによって掻き消される。
「――――もっと愚かなのは、僕達かもしれないけれどね」
「………ッ!?!?」
どこからか聞こえた、この場の誰のものでもない声に空気が凍り付いた。誰もが瞠目するなかでただ、アイジャだけが静かに頷く。
「……そうだね、ユー」
全ての駒が盤上に並んだことを、その時駿は理解した。ひらりと舞い降りるように現れてアイジャの手を取り立ち上がらせる少年の姿に、千瀬が声にならない声を上げる。
「さよなら、ウォルディ」
零れ落ちた最後の一雫と共にアイジャは全てを受け入れる。同時に決別をも行う小さな身体を、彼は寄り添うことで支えていた。
「………さよなら、わたしのお兄さま……―――」
少女の頬を濡らす水滴を袖口で拭ってやりながら、ユリシーズ・ルインが笑った。
慈しむように、わらった。