第五章《迷霧》:盲目のララバイ(1)
――Good bye, Mother Mary.( さよなら 聖母様 )
囁いたルカの声は謡うようだった。今し方目の前で起こった出来事を信じることができなくて、誰しもが言葉を失う。全てを知っているのであろうミクとルカ本人だけが、平然とその場に立っていた。
――――サンドラに、似てたから。
零れ落ちた一雫の本音は雨音のように響いて千瀬の胸を濡らした。千瀬はあの日ルシファーの“廃棄場”で見た光景を思い出す。ルカとエヴィル、白い指先が撫でた頬、黒い布、生温い風。消えたサンドラの遺体はあの日の空と同化した。
ルカが、消した。今のように。
(泣いてたんだよ)
覗き見てしまった千瀬の手を取り逃がしたルードに、そう話をしたのだ。彼は信じなかったけれど、今になって千瀬は確信する。
ルカは泣いていた。涙を流さずに慟哭していた。自ら手に掛けた親友であり、母のような愛しい存在を悼んで。今もきっと少女はその影を追っている。柔らかな笑顔の裏に隠した傷を、圧倒的な強さで塗り潰して。
「…………終わった、のか」
一番に立ち直った駿が小さく声を上げる。忌まわしい記憶と彼女達の捜し物。この学園での戦いに、終止符が打たれたのか―――そう問い掛けた駿にしかし、ルカはゆるゆると首を横に振った。
「まだよ」
「――――ッ!? 伏せろ!!」
ドォォォン! 鈍い爆音とともに火柱が上がる。咄嗟に叫んだ少年に従って床に這いつくばった、全員の頭上を何かの破片が掠めていった。
ルカだけは直立したまま音の方向を静かに見つめる。――爆発の瞬間少女を守る盾のように、薄い膜のようなものが広がったのを千瀬は見た。
「―――来たわね」
ミクが低く呟く。皆が見つめる中土煙は徐々に薄くなった。吹き飛んで穴の空いた壁の向こうから姿を現した小さな影に、駿が目を丸くする。
その名を茫然と呟いたのは、愛だった。
「―――――アイジャ、」
カラン、破片を踏みしめる小さな足と衣擦れの音。呼び声に応えることなく一歩前に出た、少女の姿はこの場においては異質であった。
今までの彼女が身につけていた制服とは違う深紅のドレスには、胸元に厚みのある白いリボンがあしらわれている。丈がふくらはぎの辺りまであるスカートの、裾を縁取る数多のフリルが煌びやかだった。
まるで中世の貴族のような出で立ちである。そうでなければアンティーク・ドールのような。
「……お前、」
小さく声を上げた駿は、瞬時にそのただならぬ空気を感じ取っていた。しろい靴下に覆われた爪先を包む赤い靴が、また微かな音を立てて床の破片を踏みしめる――――今“彼女が”破壊した壁の残骸だ。
「……が、……たの?」
今にも擦れて消えてしまいそうな声だった。それがアイジャのものであるということにその場の人間が気付くまで、暫しの時間がかかる。
「誰が、ウォルディを殺したの?」
「――――ッ!」
待て!!
制止の声は届かなかった。駿が少女の言葉を理解したときには既に目の前が真っ赤に染まっていたのである。それが紅に発光する炎の塊だと気付いた瞬間襟の辺りを何かが捕まえて、駿の身体は思い切り後ろに引き倒された。
「ここから離れなさい!!」
女生徒達へ向けたミクの怒号は爆音に掻き消される。はっとして振り向いた先、駿を掠めた炎が壁に巨大な穴を開けたのが見えた。淵がおぞましく焦げているそれは一歩間違えれば自分の未来だ。ぞっとして駿は、咄嗟に自分を炎の軌道から動かしたロザリーの俊敏さに感謝した。
「こっちへ!」
「――ちとせ!」
少女達を立ち上がらせて避難させようとする、絹華に腕を捕まれて百瀬が絶叫した。手を伸ばしてもこちらを振り向かない、彼女の妹はその立ち姿そのものが抜き身の刀のようだった。
「……ッ行くよ、モモセ」
押し殺した声はロアルのもの。彼女もまたこの場に肉親を置き去りにする苦しみに身を裂かれそうになりながら、それでも静かに百瀬の肩を掴んだ。
オミとカイが気を失っている双子を一人ずつ抱え上げたのを合図に、少女たちは絹華の先導に従って走り出す。愛が一度だけ振り返ると、千瀬とロザリーがこちらを見ているのが見えた。視線は交錯して次の瞬間にはそらされてしまう。
「……マリ、ア」
今になって漸く言葉を思い出した亜梨沙を沙南が引っ張って出てゆく最後の後ろ姿を確認し、ミクは小さく頷いた。同時に千瀬とロザリーが地を蹴る。
しかし一歩近付いただけで火柱が上がり、二人はそれ以上アイジャに近寄ることができなかった。
「………の、なのに」
白い腕に巻き付くように炎が走る。肩から手のひらに到達したそれは蛇のように一度うねって巨大な塊になった。
「……アイジャの、お仕事なのに」
「オリビア」
「アイジャが、アイジャの……」
「ウォルディに、見せなきゃ」
「アイジャの頑張ったところ、なのに、ねぇ、」
「どうしてウォルディがいないの」
「どこにも、いないの」
錯乱している。思って駿は瞳の奥が真っ赤に燃えた少女を見据えた。彼女の言う“ウォルディ”は死んだ。駿がその目で見取ったのだ。
――刹那、アイジャが叫ぶ。
「―――お前の、お前たちのせいだ!!」
「…………ッ!」
「――――ルカ!」
轟音と共に第二撃が襲い掛かった。放射状に飛び散った火炎が近くにいる少女たちに真直ぐ向かう。
避けろと名を叫ぶ暇さえ無かった。見開いた駿の瞳が映したのは炎に飲み込まれた千瀬とロザリーの影だけ。
「…………な、」
少年の全身の血が音を立てて引いてゆく。
めらめらと燃え立つ校舎を背景に佇むアイジャは、恐ろしいほどに美しかった。ひと一人の命を容易く摘み取る力を持つ人間離れした存在。壮絶な威圧感はルカのそれと酷似していた。
「お前たちが、いけないの。横取りした! オリビアはアイジャのお仕事だったのに、なのに!」
少女は表情を失っていた。能面のような顔で横取りしたと繰り返す、その執着の度合いは狂気を孕んでいる。
「ウォルディも、あなたが殺したんだわ。今みたいに――」
「………ッ違う!」
ルカの方を真直ぐ見つめて言い放ったアイジャに向かって、駿は思わず声を上げた。
アイジャは知らないのだ。ウォルディがどのような最期を迎えたか、最期に、何と言ったのか。
(ウォルディが言葉を伝えたかった相手は、こいつだ―――)
“あの時”のことを思い出して唇を噛み締める。次の瞬間両サイドから派手な音がして、駿は慌てて顔を上げた。見れば立ち上る炎が揺らいで消えるその隙間から、千瀬とロザリーが軽く咳をして這い出してくる。
「お、おい! お前ら大丈夫なのか!?」
慌てて二人に近付いた駿に二人は小さく笑ってみせた。頬の煤を軽く手の甲で拭って、ロザリーが首を傾げる。
「死んだかと思ったんだけど……見てこれ。銃のはしっこが溶けちゃった」
見れば銀の拳銃は銃口がどろりと溶解して塞がってしまっていた。一瞬でこれだ。あの炎の温度が想像できて駿は顔を歪める。
その直撃を受けたはずの二人がほぼ無傷というのはあまりにも不自然であった。駿の表情を読み取ったように、千瀬がそっと口を開く。
「たぶん――ルカが助けてくれた」
「……うん」
ロザリーも硬い表情で頷く。炎に飲み込まれる瞬間ルカの名を呼んだのはミクだ。同時に己の身体を包んだ見えざる力の存在に、少女達は確かに気が付いていた。
咄嗟に身体に抱き込んだ千瀬の刀は無事だったらしい。ロザリーの銃は少しだけ、その保護下から外れていたのだ。
「……っか。ローザ、それもう使うなよ。暴発すんぞ」
「お気に入りだったのに……」
【ミリアム】が目の前で消えてゆく様子を見た駿が、ルカの力を疑う理由など存在しなかった。不満そうな顔を浮かべるロザリーの頭をくしゃりとかき回して駿は、代わりに自分の短剣を分け与える。絹華に渡した銃を返してもらえば良かったか、と少しだけ後悔した。
「――――はなして!」
刹那響いた甲高い悲鳴にはっとして三人同時に振り返る。
未だ赤く染まる空間の中で、ミクが背後から小さな身体を拘束していた。自分を押さえ付ける腕から逃れようとアイジャが身を捩る。
「はなして、離してよッ!」
「はいそうですか、っていうわけ、ないでしょ……!」
「嫌、いやぁぁぁぁぁ!」
暴れ回るのを強制的に押さえ付けて、せめて正気を取り戻させる。ミクの行ったことはけして間違ってはいなかった。
いやいやと駄々を捏ねるように泣き喚いていたアイジャがふっと肩の力を抜く。―――しかし、
「悪い人は、やっつけなきゃいけないの」
色を失くした瞳がゆるりと瞬く。少女がそう呟いた瞬間、ミクがはっとして身体を引いた。
「だから、死んでよ」
アイジャの身体が橙色の閃光に包まれる。光は渦巻いて少女の胸の前で収束すると、次の瞬間凄まじい音を立てて炎上した。
――――ルカ!
名を叫んだのは誰だったのかわからない。火炎放射機から噴出するそれのように爆ぜた炎が、一直線に襲う先にいたのは。
(あれを食らったら、)
彼女といえども一溜まりもない―――その結末が脳裏を掠めた駿はしかし次の瞬間、信じられないものを見た。
黒髪の少女が白い腕を横に振り払う。その指先に従うかのように、宙に見えない亀裂が入った。
みるみるうちに切り裂かれた空間がぱっくりと口を開けてブラックホールのような闇が現れる。何もなかった、今まで景色の一部でしかなかった場所に切り取ったような黒い影――――ごぽり、という水音を少年は聞いた。
次の瞬間、ルカの開けた“穴”から凄まじい勢いで何かが吹き出した。
「なん、だ!?」
太い柱のようなものが真一文字に突出する。一見水のように見えてジェル状に流動するそれは、生物のように蠢いてアイジャの放った火炎に激突した。