第五章《迷霧》:オリーブを見たか(1)
「一つ、消えた」
艶やかな黒髪が柔らかく靡く。あの子が勝った。言って少女はふわりと頬笑む。
「さすが呪われた血の一族。あとは貴方だけよ、マリア――【ミリアム】と呼んだほうが良いかしら」
「消えた、か――ふぅん? アンタ、“わかる”人ォ?」
金の巻毛と青い瞳。童話『不思議の国のアリス』に登場する愛らしいヒロインのような姿をした“少年”は、その眼を細めて目の前の人間をじっと見据える。数分前に仮初めの友人を刺したナイフは未だ手に握ったままだ。
マリア――否、【ミリアム】はルカと名乗った少女が、只者ではないということをこの時既に悟っていた。頼りになるのは長年この世界で培ってきた勘だけ、しかしコレが何よりも正確に機能する。
「“オリーブの子”、か。そう言うってことはぁ、こっちの素性は既に割れてるってわけ?」
「好きなように解釈してくれて構わないわ」
「………はッ」
【ミリアム】は唇を歪めた。黒髪の少女は気負った様子もなく飄々と彼を見据えている。その表情からは何も読み取れなかった。
この世には他人の思念を読み取ることが出来たり、目を閉じていても周囲の人間の居場所が分かるといった、普通の人間より少しだけ特化した能力を持つ者がいることを風の噂で【ミリアム】は知っている。生憎“オリビア”内でそのような人間を見たことはないが、おそらくルカはその部類なのだろう。
『あとは貴方だけ』――そう少女が言うならばそうなのだろう。【ジーザス】も【バプテスマ】も、あるいは【ペルソナ】も、既にこの世にはいないのかもしれない。
(――それが、何だというのだ)
【ミリアム】は焦燥など感じなかった。もとより他メンバーとの連帯感は薄く、仲間意識など全く持ち合わせていない。【ミリアム】は今この場で、任務を遂行できさえすれば構わないのだ。
「別にいいや、アンタが“アンノウン”の正体でも、そうでなくても。僕はさァ、お仕事さえ終われば良いわけ――――そこの標的殺して、バラして、ブツだけ持って帰る」
「あら奇遇ね。私も仕事なの」
ぬばたまの瞳が真直ぐに【ミリアム】を映した。その濁りない黒色を見て、良い色だ、と少年は独りごちる。
得体の知れない相手と向き合った瞬間の、独特の高揚感が彼を支配していた。次にルカが発した言葉に思わず【ミリアム】は顔を綻ばせる。
「私の仕事は、貴方に“あれ”を奪われないこと。残念だけど貴方は、私の敵」
「……そうこなくっちゃ」
少年は背筋を震わせた。けしてそれは畏れや寒さの為ではない。久々に対峙する手応えのありそうな敵に対する、武者震い。
【ミリアム】は天才だった。彼の所属する組織は数多の人間から逸材のみを選び抜き、独自の養成プログラムで成熟させる。少年はエリート中のエリートで、その先頭技術は若くして既に超一流であった。
普通の相手では、つまらない。
「……う、るき。うるきッ!」
突然のルカの登場に茫然としていた薫子が、我に返ったように友の名を呼んだ。刺されたままのうるきは既に意識を失っていて、呼吸は消えそうに細い。顔色も蒼白を通り越してしまっていた。
「たすけて」
このままでは死んでしまう。自らも危険に曝されている状況で、薫子は座り込んだまま必死にルカを見上げた。翠子もまた縋るように顔を上げる。
「お願い、うるきを助けて……!」
「どうして?」
落とされた言葉に少女たちは愕然とした。ルカは感情の無い瞳で二人を見下ろすと、機械的に首を傾げる。
「その子が死んでも貴女たちは困らないでしょう」
「そ、んな」
「今は自分の命を心配するべきなんじゃなくて?」
さも当たり前のように少女は言い放つ。その様子を見て薫子は不意に、自分達とルカの間に横たわる絶望的な溝に気が付いた。
物事の基準が違う。優先する物の順位が違う。ルカの生きる場所では、ひと一人の命の価値はとるに足らない些細なものなのだと。
「あなたには、そうでも」
「あたし達には、違う」
視線を逸らそうとしたルカに向かって双子は同時に声を上げた。黒髪をさらりと揺らして少しだけ、驚いたような反応が返ってくる。
「……人間は、いつか死ぬ」
確認するように呟いたルカに、そうだと翠子が頷いてみせた。それは真実だ、それでも。
「それでも、大切な人なら助けたいと思う。生きていてほしいと思うの」
きっとルカは人間が、自らの命と引き換えにしても構わないと思えるほど他人に愛しさを覚える事があるとは知らない。大切な友人に対する感情もわからない。自分は死にたくない、けれど目の前で消える命があれば繋ぎ止めたい、そんな考えは甘えと綺麗事にしか思えないのだろうと知りながら、双子はぎゅっと目を瞑った。
どう思われようと、今この場で縋れるのはルカだけなのだ。マリアの裏切りから目を背けようとする自分を奮い立たせて、少女たちは祈った。
これ以上、人が死ぬのは嫌だ。
「……グラモアみたいなこと、言うのね」
「――――え?」
ぽつり、と。落とされた言葉が弾けて消える。刹那ルカに浮かんだ表情がそれまでとは違う、しんみりと何かを慈しむような笑顔だったので、思わず薫子は翠子と顔を見合わせた。
「グラ、モア?」
どこかで聞いただろうか。記憶を辿り終えるより先に、思考はルカの声によって遮られる。
「ラムダ」
「はい、ルカ様」
一声かけるやいなや、柱の影から音もなく細身の少女が現れた。ぎょっとしたのは双子だけではなく【ミリアム】も同じだったようで、青い目を思わず見開いている。
「――救済措置を」
「了解致しました」
今までずっと身を潜めていたのだろうか。ラムダと呼ばれた少女は短髪で、黒いシャツに格式張ったネクタイをしめていた。ルカに何やら命令されるなり、ラムダは細い両腕で軽々とうるきの身体を抱え上げる。
助けて、くれるのか。翠子がそう気付いたときには既に、ラムダはうるきを連れてその場から離れようとしていた。
「ちょ、ちょーっと待てよー!?」
そこで漸く【ミリアム】も状況に気が付いたらしい。少年は思い切り顔をしかめてルカをねめつけた。
「なーにしてくれちゃってんのォ? せっかくほっとけば死ぬのにさ、助けたら口封じになんないだろー!」
邪魔立てが入ってすっかり憤慨した様子の【ミリアム】に、ルカは困ったように笑ってみせる。
「アンタだって見殺しにする気満々だったくせにさァ!」
「気が変わったの―――思い出した、から」
「はァ? 何が?」
「何でもない………貴方の目的はあの子じゃないんだし、別に良いでしょ?」
そーなんだけどさァ……。
不満そうに呟く【ミリアム】は子供そのもので、とても殺しをするようには見えなかった。不思議な因果だ、とルカは思う。あの時自分から採取された沢山のデータと独り歩きする伝説が、こうして現在を作り出している。
それもあの人の――――グラモアの、島の上で。
「ルールを決めようかァ。サシでやり合う? それとも“悪魔のデータ”を先にとったほうが勝ち?」
「……死んだほうが、負けよ」
データを優先すると言うことは、必然的に双子の死の確率が上がるということだ。実の所ルカはデータさえ戻ってくれば、所有者の生死など関係ないと思っていた。それをわざわざ自分の命を勝負の要にしたのは、ほんの気紛れ。
戦いを楽しむことを第一に考えるタイプの【ミリアム】は、ルールを遵守するだろう。その間、双子の安全は確保される。
(隙を見て逃げろと言いたいところだけど、無理ね)
しっかり抱き合っている少女たちを見て、ルカは小さく息を吐いた。これから起こることを人間に見せるのは少し気が引ける。大切なデータの所有者なのだから、ショックで口がきけなくなっては困るのだ。
……とは言ってもその“所有者”を、ルカは先刻の【ミリアム】の話ではじめて知ったのだが。
(チトセはちゃんとゾラから、全て聞いたかしら)
ぼんやりそんな事を考えていると、少年から声がかかる。
「ねェ、いつまで待たせるのさー。もう僕、いくからね」
「…………あれ?」
得物を構えた【ミリアム】は、黒髪の少女がきょとんと首を傾げたのを見た。次の瞬間自分の顔が、驚愕に染まる事など知りもせずに。
「もうとっくに“はじまって”いるわ」
「――――――!!」
己の身体に起こった変化に、【ミリアム】は直ぐには気付かなかった。
亡霊と呼ばれた少女の声ばかりが淡々と、壁に反響しては消える。
「わかるわ、【ミリアム】。貴方とっても“強い”のね」
「貴方に敵う人間なんていないのでしょう」
「でも」
「少し残念なお話」
「私は人間じゃない」
ぼとり、と何かが落ちる音がした。【ミリアム】はそれを見なかった。痛みはない。痛覚が麻痺しているのだということはすぐにわかる。
殺そうとしていた双子が自分を見つめ、声にならない叫びを上げているのに少年は気が付いた。
「特別に教えてあげる。私は“ルキフージュ”と呼ばれていたけれど、本当の“悪魔”は私じゃないの」
唇を震わせた【ミリアム】の頬を、白い手がするりと撫でる。この時既に少年は自らの負けを受け入れていた。立つこともままならないのは、足が無いからだ。
「本当の悪魔は、私の中に。私はこれの入れ物にすぎない」
「――ふ、く。クク、あ、はは……、あはははッ、アハハハハハッ!!」
突如【ミリアム】は狂ったように笑い出す。自分が今どんなおぞましい格好をしているのか、考えただけで笑いが込み上げた。目の前にいた本当の“悪魔”に気付かず侮って、あまつさえそのデータを利用しようとしていたなんて。余りにも滑稽だ。
「あはははは……!! アンタ、最高だよ! もう少し早く逢いたかったなぁ……オリーブよりきっと、面白かったのに」
まだ口は聞けるらしい。悟って【ミリアム】は唇を開いた。冥土の土産にはこの、悪魔の物語がぴったりだ。
「ねェ、一つだけ教えてよ―――――」
「――――ルカ!!」
バタバタと慌ただしい足音がする。【ミリアム】がその質問を口にしたのと、刀を提げた少女を筆頭に何人かが飛び込んできたのは同時だった。