第五章《迷霧》:Break a seal.(2)
「忘れて、いる?」
百瀬の切迫した言葉に対し、絹華はただ首を傾げるしかできなかった。戦い方を忘れている、ともう一度百瀬が口にする。わけがわからなくなって視線を彷徨わせると、困惑したのは同じだったらしい駿に行き当たった。怪訝な色を瞳に湛えてじっとこちらのほうを見つめてくる。
「どういうことだ?」
構えは解かないまま、じりじりと駿は少女たちとの距離を縮めた。素早く問い掛ければ百瀬は僅かな逡巡を見せる。
「教えてくれ――アンタのしってるやり方と、今のアイツは違う?」
「……、違う」
小さな声で、しかし力強く少女は答えた。忘れているのか、あるいはあえて“それ”を封じているのかもしれない――と。その言葉に駿は眉をひそめる。
「そんな話は聞いたことねェよ。俺たちは戦場が職場だ――戦法を封じるメリットなんて無い。その“コクジョウ”ってのは?」
「剣の、型の名前よ。……黒沼の家に代々伝えられた奥義の名」
激しく繰り広げられる戦いの一端を担う少女は、その奥義の正当な継承者だ。常に剣客であれ。理由などわからないその教えを忠実に守り続けた一族の、要となるもの。それは一振りの刀と、その力を最も発揮させるための術だ。
黒沼の人間ならば継承者でなくとも皆、それの正体を知っている。知ったところで実現できるのは、黒沼の血に眠った才を引くものだけだ。
(どうしちゃったの……?)
その才を唯一受け継いだのが、目の前の妹だというのに。
百瀬は唇を噛み締めた。あれは人殺しの技だ。あんなもの無くなれば良いと思っていたし、千瀬が習得することを厭うてもいた。
けれど今は違う。均衡する戦いが長引けば妹の負けは目に見えていた。周りは手出しができない。状況を打開するにはどうしても、あれが必要なのだ。
「なーにこそこそしてんだよッ」
「……っ!」
キン、と高い金属音が響き渡る。飛んできた小刀を咄嗟に駿が弾き飛ばした。それを見て僅かに顔を曇らせながら千瀬が下段から切り付けるが、鹿島にはまだまだ余裕が見える。対する少女は肩から息をし始めていた。
息つく間もない切り合いは、既に十数分に及ぼうとしている。
「そろそろ諦めたらー?」
「っ、まだですよ……!」
ひゅんと風を切る音がした。腰から身体を捻った千瀬の頬を紙一枚の差で鹿島の刄が掠める。微かな鮮血が散り白い頬に一閃、赤い筋が走った。同時に切れてしまった黒髪が数本ぱらぱらと宙を舞う。
「そーら、頑張れよ」
鹿島が笑みを浮かべた。態勢を立て直せないままの少女の腹に勢い良く少年の足が打ち込まれて、百瀬は喉の奥から悲鳴を上げる。鈍い音とともに千瀬の小さな身体が軽がると飛んで、勢い良く壁に叩きつけられた。
「チトセッ!」
血相を変えて声を荒げた駿の横から絹華が二発、連続で発砲する。追い打ちをかけようとしていた鹿島はそれに阻まれ小さく舌打ちすると、一度千瀬から距離を置く。
「おいチトセ、大丈夫か!?」
「……けほ、」
小さな咳をして立ち上がった妹の、ぐらついた足元に百瀬は眩暈を覚えた。もうこれ以上は見ていられない――限界だった。
「刀を鞘にしまいなさい、千瀬……!」
突然声を上げた百瀬に、その場にいた全員が仰天した。モモセ? 困惑の滲む声でロアルが呼ぶが返事はない。
「なに、してるの……! やらなくちゃ死んじゃうのよ……っ」
「……お、おいアンタちょっと待てよ!」
焦ったように駿が声を上げる。刀をしまう? それこそ自殺行為だ。しかし錯乱しているのだろうと覗き込んだ百瀬の瞳は真剣そのもので、思わず駿は息を呑む。
「姉さん……?」
ぽつりと千瀬が呟いた。姉に言われた言葉の意味を図りかねているらしい。
やはり“忘れて”いるのだ。確信して百瀬は一度目を瞑る。次に妹を目にした時、彼女の心は決まっていた。
最後の賭けだった。
「――“禊ぎの廻向、霊刃の病葉”」
「……え、」
「言って。“化野の左契”」
有無を言わせぬ響きに千瀬は瞠目した。いつも穏やかであった姉のこんな様子は初めて見る。
「えっと……み、みそぎの、えこう。れいじん……わくらば?」
「馬鹿チトセ、お前も呑気に何言って――」
「あだしの、の」
そこまで口にしたその瞬間、千瀬は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。耳の奥でごうごうと音が鳴る。
鹿島への牽制を続けている駿と絹華の声が遠かった。聞こえたのはただ、姉の言葉だけ。
――知っている。
(禊ぎの廻向、霊刃の病葉、化野の左契、)
自分はこの言霊を知っているのだと、直観的に千瀬は悟った。嗚呼そうだ。幼い頃からこれを毎日、身体に叩き込まれたのではなかったか。
(なんだ、こんなに簡単なこと)
何かがすとんと音を立てて少女の胸中に落下した。失くしたピースを見つけたような、外れた歯車が噛み合ったような感覚だ。するりと唇が音を紡ぐ。
「……化野の左契」
頭の奥にかかった靄がみるみる晴れてゆく。
続きの言葉も勿論、千瀬は知っていた。
「生は鞘に、死を切っ先に、黒き血は八つの獄に。八百万の神に梔の歌を――芙蓉の峰の邂逅で」
「……なんだいそりゃ。お呪い?」
クッと喉の奥を鳴らして鹿島が笑う。千瀬はそれに頬笑み返してみせながら、すらりと光る白刃を目の前に掲げた。駿の制止も無視しそのまま、涼やかな音を走らせ黒鞘に収めてしまう。
瞬間、百瀬は自分の賭けがうまくいったのだと言うことを知った。妹の身体は覚えていたに違いない。あの詩はちゃんと引き金になった。
「……いいえ。これは、子守歌」
それから罪の唄だ。声には出さず千瀬は思う。幼い頃から聞かされたこの言葉の、意味を教わったことはない。
けれど千瀬は知っていた。この言霊は罪の唄、受け継いだものはその咎を償う為にあるのだと。漠然と、それが体内を廻っていることに気が付いていた。
(――思い出した。あたしには、まだできることがある)
少女は己の罪を思う。エリニュエス=グロリア。
女神エリニュスは尊属殺人を許さない。この島の名前を聞いた日、その由来を教えられた時、戸惑わなかったと言えば嘘になる。罪を犯した自分は、けして赦されることの無い場所だから。それでも今、千瀬はこの地に立っていた。数多の血を吸い込んだ刀がその手にはある。
守りたいと思った。あの日凄惨な光景を生み出した二本の腕で、ただ一人の姉を。鈍く輝くこの刄で、仲間たちと世界を。
「……シュン、あたしから離れて」
「はァ!?」
深い思考に沈んでいたかと思いきや。戻ってきてすぐに少女が発した言葉に駿は目を剥いた。一体なんだというのかさっぱりわからない。
千瀬の刀はしっかりと鞘の中に納まってしまっていた。そんな状態で敵と対峙する神経が駿には信じられなかったのだが、そこでまた別方向から声がかかる。
「その子の間合いに入らないで!」
それは百瀬のもので、強い響きに駿は渋々千瀬から距離を置いた。
あたしはもう、大丈夫。そばを離れる瞬間聞こえた声に少年は眉を寄せる。なんなんだよ畜生、駿が呟けばそれに答えるように百瀬が目を閉じた。
「あの子はもう、大丈夫」
「……何がだよ、」
「日本刀はね、世界で一番斬ることに特化した刃物だと言われてるわ。その日本刀の一番強い使い方――武藤くんは知ってる?」
お待たせしました、と柔らかく千瀬言うのが聞こえた。見物すら決め込む余裕のあった鹿島に向かって少女は笑う。
「これで、終わりです」
ひくりと口角を引きつらせた少年が次の瞬間、本気になったのが駿にもわかった。刀は腰に差したまま、丸腰も同然の千瀬に向かい鹿島が疾風の速さで跳躍する。
チトセ! 黙ってみていることなど出来ずに叫んだ駿の後ろから、冷静な百瀬の声だけが聞こえていた。
「一番はね、近間の飛び道具――――居合、よ」
「……バケモノ、め」
気が付いたときには全てが終わっていた。一言吐き捨てた鹿島の首筋にうっすら紅い筋が走ったと思えば刹那、それが雨垂れのように溢れ流れはじめる。
次の瞬間、少年の首は線に沿って音もなくスライドした。ごとん、鈍く響いて頭が落ちた後に身体が傾いで血に沈む。
千瀬は先刻の立ち位置から十メートル以上離れた場所で制止していた。腰の刀が鞘から抜かれた様子はない。
「なん……だよ、今の」
駿は我が目を疑った。
千瀬が抜刀して鹿島の首を刎ね、再び鞘に戻すまでの一動作全て。その僅かな破片でさえも、駿の目は見ることができなかったのである。駿だけではない――この場にいた誰もが、少女の動きを追うことなど叶わなかった。鹿島充――否、【バプテスマ】本人でさえも首のずれ落ちたその瞬間まで、自分が絶命したことに気付かなかっただろう。
「チトセ、」
「……【黒縄】は、あたしが絶対に習得しなければいけない居合の技だったの」
「お前、一体――」
「……どうして、忘れてたんだろう……」
死に絶えた一族と唯一の生存者。黒沼の血の真実、真の力と呪い。
その一端を、武藤駿が初めて目にした瞬間だった。