第五章《迷霧》:梔子の声を聞け(5)
「……ペルソナが、やられた?」
ほんの僅かに少年の眉が寄せられる。それからふっと息を吐き出して、鹿島は再び目の前の少女に切っ先を向けた。
「つまらない冗談だ」
「冗談じゃ、ありませんよ」
「おいチトセ、説明しろよ」
目の前で繰り広げられる展開についていけなくなったらしい、駿が困惑の声を上げた。千瀬はそれに困ったような笑みを浮かべる。一口に説明できるほど単純ではないし、なによりも今の状況では一刻の猶予も与えられないのだった。
少女は手にした刀を構えなおして考える。目の前の相手を倒す、うまい方法はないだろうか。一度やり合えばわかる――鹿島の戦闘センスは自分で言うだけあってかなり高い。
「……馬鹿を言うな。ペルソナはうちの中でも一、二を争う腕の持ち主なんだぜ。並大抵の奴にはやられないさ」
「相手が並じゃなかったんですよ」
いつ一歩を踏み出してくるか、鹿島の動きを慎重に見極めながら千瀬は言う。誰が殺ったんだ? 駿の問いかけには静かに、金髪の上司の名を答えた。
(ミクが動いたのか……?)
千瀬からの返答に駿はごくりと唾を飲み込む。なんだか無性に咽が渇いた。
あのミクが率先して動いたというのならば、その相手が“オリビア”の一人であったことに間違いはないだろう。あの少女はやたらと勘が良い――――その“勘”が、常人にはわからないところで働く何かに裏付けされたものであることを漠然と駿は知っていた。
「……今あたしが知ってるのは、“オリビア”と呼ばれるものに属する人間のコードネームとその性別」
言いながら千瀬が微かに目を細める。間合いを測っているのだと駿にはわかった。
「性別?」
「そう――ミクにもルカにも、これはもう知らせた」
【コンタツ】と【ゴスペル】は男。【バプテスマ】も男、【ペルソナ】は女。
順番を数えるように告げる、千瀬の言葉を聞いて鹿島は唇を歪める。
反対に駿はぎょっと目を見開いた。一番腕が立つという件の【ペルソナ】が女だというのだ。今まで発見した相手が男ばかりであったためにその可能性を失念していたが――どこかですれ違ったことがあるのかもしれなかった。
「へえ……? すごいね正解だよ。この分じゃ【ペルソナ】がやられたって話も本当なのかな」
「まだ信じられませんか」
「びっみょー。……ちなみに、残り二人の性別は?」
仲間の生死を危惧するどころか何処か面白がっているふしのある鹿島は、クイズを出すような気軽さで問い掛ける。
千瀬はそれにゆるりと一つ瞬きをしてから口を開いた。
「【ジーザス】が女。【ミリアム】は男でしょう?」
「ぴーんぽーん!」
大・正・解! 言うなり鹿島はきゃらきゃらと大声で笑いはじめた。何がおかしいのかさっぱりわからない。
笑い転げる少年とぼんやりそれを見つめる千瀬と。刄はお互いに向け合ったままである。緊迫した空気には似つかわしくない二人はいっそ不気味ですらあって、駿は思わず首を竦めた。
話に全くついてこれなくなっている女生徒たちは、端のほうで小さくなっている。
「教えてあげようか。【ジーザス】ってのは俺たちのいわば司令塔でさ、監視役を兼ねてる」
ひとしきり笑いこけた鹿島が突然話を始めたので、千瀬はことんと首を傾げた。
「奴は高みの見物が大好きでさ、教師のフリなんてしてるよ。俺達は“目”って呼んでる――」
「……待って」
声を上げたのはロアルだった。それまで黙り込んで話を懸命に聞いていたのだろう。銀色を湛えた瞳が零れ落ちそうなくらい見開かれている。
「教師……ジーザス、キリスト……の、目?」
まさか。言って、はっとロアルが息を呑んだ。クラリセージ。呟いた名前に驚いたように百瀬が顔を上げる。
「どうしてクラリスが出てくるの……? ロア、どういうこと、」
「……“キリストの目”だわ、モモセ」
「何それ――」
「――アンタなかなか博識なんだね、ロアル・E・ウィルヘルム」
一体何に気が付いたのか。わけのわからないその他の面々を置き去りにして、ロアルはきっと鹿島を睨み付ける。
「いつから……! まさか、ナギサを殺したのは……ッ」
ジュリアナ・クラリセージはバスケットボール部の顧問であった。志田渚に近付くのは容易かっただろう――そう思って問い掛けたロアルはしかし、きょとんとした鹿島の顔を目にすることとなる。
「は、肝心なところは見落としてるわけか」
鼻で笑って鹿島は首を横に振った。
「その“ナギサ”こそが【ペルソナ】だっつーの」
「…………!!」
「ふぅん、マジであいつ死んだんか。いつの間に……」
絶句するロアルをよそに、鹿島は感慨深げに呟く。思わぬ所で全て繋がった。
「……なるほど。信じるよ」
「どうも」
ニヤリと笑ってみせれば千瀬も小さな笑みを見せる。しかしどちらもその瞳は笑っていなかった。玲瓏とした光だけが宿る。
「どうやら君の言う“情報屋”は本当に、うちのよりずっと優秀らしい――邪魔するからには知ってるんだよな? “アレ”のこと」
「知ってても、言いませんよ」
「死ぬ間際になったら気分が変わるかもしれないだろ?」
そう言うやいなや、鹿島はすっと左腕を振るった。今まで何も持っていなかった其処から少し長さの短い、もう一本の太刀が現れる。
「手加減はできないよ」
「……望むところです」
好戦的にな笑みを浮かべて地を蹴る寸前、鹿島はふと思い止まったように力を抜いた。そのままぺろりと唇を舐め上げる。
「始める前にもういっこだけ教えたげようか」
「……?」
「俺達の残り……【ミリアム】が何処で何をしてるか、だけどさ」
怪訝な顔を浮かべた千瀬の前で、少年は得意げに言い放つ。
「残念だけど、アンタらもう手遅れだよ」
*
薄暗い廊下を横一列に並んで歩く。通行人の誰もいない今日は、それを咎める者も存在しなかった。
うるきの選んだ撮影場所は校舎の外れにある古びた倉庫である。映像監督を自称するだけあって、なかなかの拘りがあるようだった。彼女の後には藤野の双子とサポート役のマリアが続く。ここは完全に女性のみから構成されたグループだった。
「小さい頃は、よく、怪我とか病気、してたんです」
たどたどしい日本語で話す、マリアの声が石の壁に吸い込まれてゆく。ここまで来る間に彼女と双子はすっかり意気投合したらしい。他愛もない世間話から始まったお喋りは、いつしかお互いの身の上話をするまでに発展していた。
「家から出して、貰えなくて。ちゃんとした学校は、この学園が、はじめて」
「へぇ……! 箱入り娘」
「マリア、お嬢様って感じだもんねぇ」
感心したように言う双子にうるきは相槌を打つ。先刻からこのようなやり取りがずっと続いていた。
「うるきは?」
「一応、ちゃんと日本の中学までは出てますヨー」
曖昧な返答をしてふと口をつぐむ。うるきが先ほどから何かを考え込んでいることに、残る三人は気付いていないのだろう。
「あたし達はね、ずーっと二人きりで暮らしてた」
「施設に入ってたの」
そういえば、今まで誰にも話したことなかったけど。言いながら翠子が笑う。
「この学園に入学することは随分前から決まってたみたいでね、不思議なんだけど、誰かが入学金をもう納入してたんだって」
「誰だか、わからないんですか?」
マリアが首を傾げる。その瞳に隠しきれない好奇心を見て取って渋々、薫子が詳細を口にした。
「実はあたし達、小さな頃――三歳くらいかな――事故にあって。病院を退院したらもう施設に行くことが決まってたのよね」
「ご両親は?」
「顔も覚えてない。一番古い記憶は病院のベッドだからなぁ……ミドリが隣に寝てた」
自分達の名前と年齢だけを聞いて、二人手を繋いで施設に入った。迎えに来る人間はいなかった。
「お医者さんが言うには、事故の前までの記憶が抜けてるんだって」
「でもどうせそんなに小さな頃のこと、いつか忘れるだろうし影響ないんだけど」
親の記憶だけは欲しかった。言って、少しだけ淋しそうに双子は笑う。過去の傷跡に触れてしまったことを悔やんだのだろう、マリアが少しだけ悲しそうな顔をした。
「……マリリン」
そうこうするうちに目的の場所に辿り着いて、うるきはマリアに声を掛ける。撮影用の器材を準備していた少女は、なんですか、と顔を上げた。
「マリリン、他のグループからの連絡って来てないですかね?」
ずっと気になって仕方のなかったことを、極力自然を装ってうるきは問い掛けた。
この島でも通じる特殊な無線機は今マリアの手にある。本当はうるきが持っていたのだが、他の荷物――大量の撮影機材だ――を運ぶ関係で預けておいたのだ。
一定時刻が過ぎたらお互いに連絡を入れる。こっそりとそう約束してうるきは他のメンバーと別れた。しかし百瀬から連絡があるはずの時刻を過ぎても、無線機は何の声も上げない。
「さぁ……。きて、ないみたいですよ」
この時既に、うるきは嫌な予感を胸に抱いていた。違和感、と言うべきだろうか。
「無線機、貸して貰えますかネ?」
「荷物まだ、移動するでしょう? まだ私、持ってます、大変だから」
気遣うように柔らかく笑んだマリアに、なぜそれを言う気になったのかはうるき自身にもわからなかった。この時うるきの心はまだそれを認めていなかったのである。凄まじい回転を見せる彼女の頭だけは、冷静だったのだ。
「……マリリン。あなた、無線の電源を切ったんですね?」
「――――――」
え、?
予期せぬ展開に双子が声を揃えたのと、どん、と言う音が響いたのは同時だった。腹部に鈍い衝撃を感じてうるきはよろめく。
「ど……して、」
触れた指先にぬるりとした液体が絡み付いた。次いで一点にだけ燃えるような熱を感じてうるきは目を見開く。
左下腹部に突き刺さったナイフが鈍く光っていた。マリアが笑ってそれをずるりと引き抜く。うるきの視界が暗転する。
「――可哀想な子。気付かなかったら、もう少し生きていられたのにねェ」
響き渡った甲高い悲鳴は双子のうちどちらのものだったのか。余韻の後に残ったのは、床に倒れてびくともしないうるきと豹変した少女だけだった。
「う、るき……うるきッ」
「マリア……どうして、何……なんなのこれ……っ?」
翠子が駆け寄って抱き起こした、うるきはまだ息をしていた。しかし出血の量を見る限り長くは持たないだろう。顔が酷く青白い。
「賢いってのは良いことばっかじゃないんだねェ」
制服の袖を破って翠子が懸命に止血をする。それを守るように二人の前に立ちそれと対峙した、薫子の目は驚愕と恐怖で再現まで見開かれていた。
「……さーて“データ”を貰おうかなァ、アサカ家のお嬢さん」
一つ舌なめずりをしてから流暢に喋るその人間が、あのマリアであるとはとても信じられなかったのだ。